第5章 ピアノが優しくて



 これから、どうしようかしら。
 男社会、旧態依然とした派閥システム。そういったものとの争いはもう始まっていた。最先端の
医療を学ぶ同僚たちが、あまりに保守的で差別感覚を持ち続けていることに戸惑いすら覚えた。
誰も口には出さないが、「女なんか」という理不尽な偏向がじめじめした空気のように漂っている。

 医師であることに誇りを持てるようになっている。
 患者の快復する姿を見たいと切に思う。
 女であることをやめたいとも思わない。

 でも、独りでいるのは、つらいものね。

 こんな時ばっかり、自分勝手よね。
 羨ましくなったのかしら。

 心の底から、誰かを好きになったことなんかないくせに。

 恋愛小説もいくつか読んだが、実は嫌いだった。最初から結果はわかっているし、彼女にとって
リアリティもない。残るのは白けた気持ちだった。

 一つだけ残っているのは、リチャード・バックの言葉。
 「この世界のどこかには君のソウルメイトである運命的なパートナーがいて、その相手に出会った
時には互いにそれがわかるのだ」
 そんな印象的な出会いがあるとは思っていないが、ソウルメイトという考え方が気に入っていた。
立場や環境、年齢や時には性別さえ越えた、人格と人格の間に結ばれる親密な関係。そんな意味
だと思っている。

 こんな変な女と、ぴったり合う人なんて、鐘や太鼓で探したって見つからないわね。
 あら、諦めるには早すぎるわよ。

 軽くため息をつき、残っていたブッシュミルズを空ける。

 ひどくしんみりとした演奏が始まった。



Well,the smart money's on Harlow
And the moon is in the street
The shadowboys are breaking all the laws
And you'er east of East St.Louis
And the wind is making speeches
And the rain sounds like a round of applause
Napoleon is weeping in the Carnival saloon
His invisible fiance is in the mirror
The band is going home
It's raining hammers,it'sraining nails
Yes,it's true.there's nothing left for him down here

ハーロウに傷害賠償金を
街を月が照らしている
黒人の悪ガキどもは法律なんて何とも思っちゃいない
ここはイースト・セントルイスの東の方
風がちょっとした演説をぶち
雨の音はまるで割れんばかりの拍手喝采のよう
ナポレオンはカーニバル酒場でしくしく泣いている
目に見えない彼のフィアンセは鏡の中にいる
バンドの連中も家路についた
雨と注ぐハンマー、雨と注ぐ釘
そうさ、本当だよ、
ここじゃあいつは用無しになっちまったんだ

And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time

さあ、その時が来た
その時がやって来たんだ
もう時間だよ
おまえの好きなその時間がやって来たんだ
さあ、時間だよ
その時がやって来たんだ

And they all pretend they'er Orphans
And their memory's like a train
You can see it getting smaller as it pulls away
And the things you can't remember
Tell the things you can't forget that
History puts a saint in every dream

誰もがみなしごのようなふりをしている
奴らの思い出ときたらまるで列車のようなんだ
走り去るにつれてどんどん小さくなって行くだろう
思い出せないいろんなこと
忘れられないいろんなことを口に出してみろよ
時がたてばどんな夢にも聖者が宿るものだぜ

Well she said she'd stick around
Until the bandages came off
But these mamas boys just don't know when to quit
And Matilda asks the sailers are those dreams
Or are those prayer
So just close your eyes,son
And this won't hurt a bit

あの娘は言ったのさ
包帯がとれるまでそのあたりで待っているわってね
だけどこの意気地なしときたら
潮時ということが分かっちゃいない
夢なのか願い事なのかと
マチルダは船乗りたちに聞いている
だから目を閉じりゃいいんだよ、坊や
少しも痛い目にはあわないから

Well.things are pretty lousy for a calender girl
The boys just dive right 0ff the cars
And spanish into the street
And when she's on a roll she pulls a rozor
From her boot and a thousand
Pigeons fall around her feet
So put a candle in the window
and a kiss upon his lips
Till the dish outside the window fills with rain
Just like a stranger with the weed in your heart
And pay the fiddler off till I come back again

カレンダー・ガールにしてみれば
すべてはあまりにも浅ましすぎる
若造たちは車から飛び降りて
街の中へと一目散
お楽しみのまっさかり
あの娘はブーツから剃刀を引きぬいて
数えきれないほどのカモがその餌食となる
だから窓辺にキャンドルを立てて
あいつの唇にキスをひとつ
窓の外の深血が雨で溢れるまで
まるでよそ者のようさ
おまえの心に雑草をはこびらせる
ヴァイオリン弾きは金を払って暇をやんな
俺がまた帰って来るまで



 これが最後の曲だったのだろう。
 先客たちはめいめいに支払いを済ませ、ネオンで切りつけられる夜の路地へと出ていった。

 痩せた男は、よれよれのハンティング帽を頭に乗せ、入ってきた扉から戻っていった。

 煙草もグラスも、酒瓶も放ったらかしで。

 ここにいるのはバーテンダーと彼女だけ。
 ふと気になった薫は、ともすればふらつきそうな歩みでピアノに近づいた。
 グラスの下には畳まれたハンカチが敷かれていた。滴でピアノの天板を痛めないためだろうか。
 飲んだ気配もなく、ウィスキーも減った様子がない。

 あの人、本当に酔っていたのかしら。
 そんな素振りをしていただけなの?
 不思議な人ね。

 ブッシュミルズのラベルに英語で何か書いてあった。
 これは・・・・・
”涙なんてものは、こいつで割って飲み干してしまえばいいのさ”

 くすりと笑った。
 いい言葉だわ。

 明日は10時の飛行機だったわね。
 そろそろ戻らなくちゃ

 薫が店を出た時、日付は変わっていた。
 八月の始まりの日。
 北の街に、彼女は帰っていく。
 少しだけ身軽になって。









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