第3章 弦の足りないギター



 薫の恐れるもの。
 それはオカルトでも失恋でもなく、自分の中から問いかけてくる誰か。

 初めてそいつに出会ったのは、高校の門をくぐって暫くしてから。進路希望調査と書かれた、
たった一枚のプリントを手にした時だった。
 市内随一の進学校だったから、進路といえば大学になる。
 それなのに。
 何一つ、単語が浮かんでこなかった。
 どこの大学に行きたいのか。
 何を専攻したいのか。
 どんな職業を目指すのか。
 迷いでも無知でもなく、長い間考えたこともなかったのだ。

 「ただ自分らしくあるため」に勉強してきた彼女にとって、高い偏差値も点数も、自らを守るために
必要だったから獲得してきたにすぎない。

 過去の三年間。薫は自分では充実していたと思っていた。マラソン選手がライバルたちを後ろに
残し疾走するような、勝利と達成感に満ちたサヴァイヴァル・レース。だが、余裕のない日々の中
で、夢や希望といった瑞々しい発想は知らぬ間に失われていたのだ。

 本を読んでいると、自分の分身が作者の世界に入ってゆく。かつては、現実よりも現実らしく、その
世界を歩き、触れ、握り締めることができた。最後のページをめくるまで、朝になったことに気づきも
しないこともしばしばだった。

 いつしか本は、ストレス発散の道具となり、活字を追うという習慣的な行動でしかなくなっていた。

 ある科目を終わらせて、次の科目に取り掛かるまでの時間をつなぐもの。
 時計を確認し、「もう時間ね」と独り言を呟いて棚にしまうもの。

 そこには感激も耽溺もなく、ただ未知の文書に抱くわずかばかりの好奇心の充足と、確実で失敗
しようのない行動への・・・・・

 逃避?

 そうじゃない。逃避なんかじゃない。

 じゃ、なんなの?

 好きだから、それで・・・・・

 好きなことをしていて、楽しかった?

 それは・・・・・

 何が残ったの?

 ・・・・・・・・

 突然、巨大な喪失感が、薫の足元を掘り崩していった。暗黒の虚空で、コンパスを失った難破船の
ようだった。どこから来て、どこにいて、どこへ行こうとしているのかすら沈黙でしか示せない。

 自分のなりたい自分でいたつもりだった。
 それがいま、自分のことがなにひとつわからない。
 脆弱なガラス細工の彫像。
 どれほど精巧であっても、生きるもののしなやかさはない。
 ポケットに詰め込んだ知識は、椎名薫を大きく見せる飾りでしかなかったことが直観的に
わかった。

 目の前に置かれた調査票の白さが、正直な鏡のようだった。薫は虚脱感を筆跡に滲ませながら、
薄く「未定」と記入した。

 その夜は長かった。
 ベッドの上で毛布にくるまり、膝を抱えて薫は泣いた。
 こぼれ落ちる痛みの滴は、真っ暗な部屋の中で、壊れた彼女の残骸のように散っていった。


 カーテンの隙間から差し込む、最初の光に気がついた。
 僅かな間、まどろんでいたようだ。
 べとつく頬と目尻を感じながら、ゆっくりとベッドから足を下ろす。
 そっとカーテンの端をめくった。
 無遠慮な光が闇に慣れた視覚を圧倒する。
 腫れあがった瞼を閉じ右手で庇いながら、手探りで窓の鍵を開けた。

 そっと開けた窓から、蒼く澄んだ風が訪れる。
 ゆっくりと、そして優しく部屋を満たしていった。
 足元を滑る冷たい朝の風。きっとこの日最初の風だろう。
 薫を連れ戻しに来た、女神の使いなのかもしれなかった。
 ようやく眩しさに慣れ、薄目を少しづつ緩ませる。

 朝霧に煙る住宅街。
 静かで、幻想的だった。
 深呼吸する街路樹の緑が、鮮やかに映えた。
 規則的なスケジュールを守ってきた彼女にとって、こんな時間に目を覚ましたことなど何年も
なかったことだった。

 目覚ましを少しいじるだけで、こんなにも安らぐ風景が手の届くところにあった。
 
 ほんの些細なことでよかったのだ。
 ほんの些細なことで。

 簡単なことだったのね。
 ここから、また始めればいい。時間をかけたってかまわない。少しづつ、やり方を変えてみよう。



 そっと、鍵盤に指が置かれた。

When all the dark clouds roll away
And the sun begins to shine
I see my freedom from across the way
And it comes right in om time
Well it shinesso bright and it gives so much light
And it comes from the sky above
Makes me feel so free makes me free like me
And light my life with love

黒雲がすべて消え去り
太陽が輝きはじめると
はるか彼方から俺の自由が
遅きに失することなく現れる
それはまばゆく輝き、あふれる光を
空の上から降り注ぐ
俺に自由を、みなぎる力を感じさせ
愛の光で俺の人生を照らす

And it seems like and it feels like
And it seems like yes it feels like
A brand new day yeah
A brand new day,oh

きっとそうだ 心から感じる
きっとそうだ 心から感じる
真新しい一日の到来を
真新しい一日の到来を

I was lost and double crossed
With my hands behind my back
I was longtime hurt and thrown in the dirt
Shoved out on the railroad track
I've been used,abused and so confused
And I had nowhere to run
But I stood and looked
And my eyes got hooked
On that beautiful morning sun

俺は途方に暮れ、裏切られ
両手を後ろ手に縛られていた
長いあいだ傷つき、打ち捨てられ
鉄道線路の上に押し出されていた
利用され、虐待され、混乱しきって
逃げ場もなかった
だが、踏みとどまってあたりを見ると
俺の目は美しい朝焼けに釘付けになった

And the sun shines down all on the ground
Yeah,and the grass is oh so green
And my heart is still and i've got the will
And I don't really feel so mean
Here it comes,here it comes
Here it comes right now
And it comes right in on time
Well it eases me and it please me
And it satisfies my mind

太陽はあまねく地上を照らす
青々と茂る芝生が目にしみる
穏やかな心と強い意志
そんなにいじけることはない
光が訪れる ほら
遅きに失することなくやってくる
それは俺を癒し、喜びをもたらし
俺の精神を満たす

And it seems like and it feels like
And it seems like yes it feels like
A brand new day,yeah
A brand new day,oh

きっとそうだ 心から感じる
きっとそうだ 心から感じる
真新しい一日の到来を
真新しい一日の到来を





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