第2章 パーカッションとコースター



 いつの間にか演奏は終わり、先客たちは酒を口に運んでいる。痩せた男は煙草をくわえ、
焦げてゆく先端を見ているのか、顔をそちらに向けていて表情はわからない。
 ふと気づくと、薫のビールグラスも底に泡のかけらが残るだけになっていた。なにを頼もうかしら。
メニューを取ろうとして、ふと思い付く。
「すいません」
「はい」
 バーテンダーは足音もたてず近づいてきた。
「あの人と同じものを頂けるかしら」
 そういって左手を反らし示したのはピアノの男。バーテンダーは戸惑いもせず、オーダーを受けた。
「水割り、それとも・・・」
「任せるわ。ダブルで」
 棚から一本のウィスキーを取り出す。ビアグラスに変わって、夕日のように輝くタンブラーが彼女の
前に置かれた。

「ブッシュミルズでございます」
 どこかで聞いたことがあった。何かの小説にでも出てきたのだろう。目の前にかざして眺めて
みる。昔のローマ人は真珠を酢で溶かして飲んだそうだけど、ルビーを溶かしたら、こんなお酒に
なりそうね。
 優しい味がした。
 語るのにレポート用紙が何枚も必要なくらいに、重なったエッセンス。
 喉を、シルクのように滑り落ちていく。彼も、いいお酒を飲んでいるものね。

 旋律が店に流れはじめた。
 しわ枯れた声とともに。


Blackbird singing in the dead of the night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise

夜のしじまに歌う黒ツグミよ
傷ついた翼を広げて飛ぶことを覚えるがいい
生まれてこのかた
おまえは大空を舞う瞬間をひたすら待ちつづけてきた

Blackbird singing in the dead of night
Take these sunken eyes and learn to see
All your life
You were only waiting for this moment to be free

夜のしじまに歌う黒ツグミよ
落ちくぼんだ目で世の中を見ることを覚えるがいい
生まれてこのかた
おまえは自由になる瞬間をひたすら待ちつづけてきた

Blackbird,fly
Blackbird,fly
Into the light of the dark,black night

黒ツグミよ、飛べ
黒ツグミよ、飛べ
暗黒の闇にさしこむ光に向かって

Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise

夜のしじまに歌う黒ツグミよ
傷ついた翼を広げて飛ぶことを覚えるがいい
生まれてこのかた
おまえは大空を舞う瞬間をひたすら待ちつづけてきた


「自由、か・・・」
 順調に始まったような少女時代。
 あんなことになるとは、誰にとっても予想外だったわね。
 今ではだいぶ変わったらしいが、薫の通ったころの田舎の中学校といえば、馬鹿馬鹿しいほどの
校則があった。
 廊下の歩き方。
 制服のサイズ。
 髪型。
 男女交際の制限や、トイレットペーパーの使用限度まで。
 ありきたりの子供ならば、決められたことを従順に守れたのだろう。実際、薫以外は、不便だと
いう程度の感想しか持っていなかったようだ。

 それが耐えられなかった。
 あまりに個を束縛するシステム。根拠の乏しいルール。それに黙従する周囲。なにもかもが。
 リチャード・バックやD・J・サリンジャーを読むたびに、苦痛が増した。

 どうしてこんな当たり前のことを、みんなはわからないのか。
 ここにはちゃんとわかっているひとがいるのに。

 薫は自分を曲げなかった。自分のルールを守った。
 教師たちにとっては、成績優秀な生徒は優等生たるべしという固定観念があったのだろう。薫の
逸脱を見逃しはしなかった。

 毎日が衝突。
 ノートの取り方まで規制する教師を無視し、満点を取ることで答えた。
 「本は私物だ」と持ち込みを禁じられても、あえて洋書を持ち込み英語の勉強用と主張した。
 授業中、教師の顔も黒板も見ずに、自分で教科書を進めた。
 休み中の登校日も行事も欠席した。
 学区外に行くには制服の着用義務があったが、堂々と私服で行った。

 その一方、煙草を吸ったり万引きしたり、いわゆる「不良」のすることは絶対にしなかった。校則は
破っても、法律を破るつもりなどなかったからだ。
 教師側の苛立ちが、どんどん高まっていくのがわかった。
 「点取り虫」と怒鳴りつけ、家庭訪問の度に嫌味を言い残す。
 それまで氏名を発表していた試験の成績上位者リストも、なくなった。「1位、椎名薫」というのを
見たくもなかったのだろう。それどころか、「椎名になんか負けるな」と他の成績の良い生徒に
ハッパをかけていた。それも薫の目の前で。試験で満点を取り続けても、評価は5段階の4に
とどまった。授業態度が悪いということだろう。ただ黙って座って勉強しているのだが。

 当然、孤立していった。
 小学校からの友達も、新しい友達も、関わり合いになるのを避けた。まあ、授業中に教師から、
「お前なんかろくな大人にならない」と罵声を浴びる生徒と、友達になろうというのもどこかおかしい。
それでも彼女は、一度たりとも挫けなかった。一人の時でさえ涙一つ流さなかった。
 一人でいることはむしろ強みだった。

 批判の材料を与えるわけにはいかない。
 もし成績が落ちれば、原因が何であれ、反抗的な態度のせいだとされるのは明白だった。教科書
を忘れたり、提出物を遅らせることも同様。
 自分を守るために、自分を追い詰め続ける日々。
 そこには、敗北を恐れる悲壮感とともに、闘いを好むかのような闊達さもあった。
 それが薫を支えていた。
 ペーパーテストでは、ついに卒業まで首位の座を守り通した。
 志望校にも楽々と入った。内申書はひどいものだったろうが。
 ようやく迎えた卒業の日を、薫は自室で、飲み始めたブラックコーヒーと新刊本で祝った。


 私のやり方は、子供そのものだったわね。
 頑固で、利己的で、非妥協的。
 でも、間違ったことじゃなかった。
 自由のために、自分の責任を果たす。そういう当たり前のことを、他の人より早く始めただけ。
 大人に保護されて、同時に縛られる子供でいたくなかった。
 もっと人格が成長していれば、作られたルールをうわべだけ守り、腹の中で軽蔑することができた
はず。そういう柔軟さが卑怯に思えたのは、子供のメンタリティ。
 でも、今とあまり変わってないかもね。

 あの頃の教師たちは、どうしているかしら。
 中学生に本気で腹を立てて、ムキになる程度の器では、きっと学級崩壊や粗暴化に苦労して、
胃に穴でも開けているわ。私のところに来たら、ガムテープで塞いでやるのに。それとも、治療の
ためといって頭でも剃ってやるほうがいいかしら。
 ふっと一人笑い、残っていたウィスキーを空けてしまう。
「これ、気に入ったわ。もう一ついただくわ」

 ピアノの前に男の姿はなく、灰皿から紫煙が一本。




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第3章 弦の足りないギター002