第1章 ラジオに流れるサキソフォン



 夏は、悪魔的な意志を持つかのように、狡猾に街行く人々を苦しめる。
 それが都心であれば、なおのこと。
 北海道からの訪問者にとっては、歩くことすら物理的衝撃を受け続けるに等しい。
 彼女、椎名薫は、夕闇に沈んだ街をいまいましそうに見つめ、信号が変わるのを待っていた。
軽く眉をひそめ、高まったままの不快指数に抗議する。
 この日は7月31日。東京の夏はスタートをきると同時に快調に疾走している。
 今朝、羽田に降り立った瞬間は、そう悪くなかった。湿ってはいたが風もあり、久しぶりの東京を
素肌で感じたことが、少しだけ気分を良いものにさせた。
 それが今、ビルで区切られ、不自然に照らされた灰色の夜空の下を、一人歩いている。舗道に
響くハイヒールの残響は、彼女の内心の苛立ちを告げる伝書士のようだ。

 そこにあるのは、暑熱だけではない。


 やがて彼女は、一軒のバーの前で立ち止まる。
 ”Sally MacLennane”
 何か気に入ったのか、ただ歩き疲れただけなのかは誰にも解らないが、その手はドアを押して
いた。
 古びた樫の扉が閉まる時、ピアノの旋律が一瞬だけ街に流れ、消えた。

「いらっしゃいませ」
 エアコンの乾燥した爽快さに包まれた薫は、思ったより広いと感じた。文字が読める程度の暗さ
と、深いグリーンでライティングされた店内には、カウンターに立つ50代のバーテンダー。7、8台
あるテーブルの一番奥にだけ先客が5人。その後ろには年代もののように見受けられるピアノ。
 カウンターの端、この都会に似合わぬ、木製の椅子に腰を下ろす。
 しっくりくる。これが大切だった。
 前衛的なのか知らないが、気取った型の椅子がよくあるが、本来の目的を忘れ、人体の構造を
無視して造られていることが多い。
 医師として不満だし、客としては決定的に不愉快だった。
 この椅子は、これまで幾人もの酔客を和ませてきたに違いない。
 今日一日の疲れが、少しだけ安らいだ。

「何をお持ちしましょう」
 葉書大のメニューを手にする。数えるほどしか見たことのあるお酒がない。
<Beer>の欄から、印象で選ぶ。
「ブラウン・エイルをお願い。それと、これに合う何かを」
 ここの冷房は、さほど強くない。
 とりあえず、はビールに失礼だが、冷たいものが欲しかった。

 ふと先客の一群に目を向けると、年齢・服装はさまざまだが白人男性ばかり。ゆっくりとウィスキー
のグラスを撫でながら言葉を交わしている。やはり英語のようだ。
 彼女自身も英語はできるが、わざわざ聴き耳を立てようとも思わない。
 今夜は、一人で考えていたかった。


「こちらでよろしいですか」
 届けられたビールと、何かのポテト料理。
 薫が軽く頷くとバーテンダーは静かに下がり、そこが定位置なのだろう。カウンターの入り口近くに
戻っていった。
 ビールを一口試す。あまり冷えていない。そういえば、イギリス人はビールを冷やさないと聞いた
ことがある。そのせいか。
 しかし、美味しい。
 本格的なドイツビールより薄い感覚があるが、その分気軽に楽しめる味だ。
 すぐ一杯空けてしまった。こんどはケリィ・エイルを頼む。
 二杯目を半分ほど味わった頃、奥から浅黒い顔の男が一人、出てきた。
 痩せ型の、40位か。くしゃくしゃの髪と不精髭という、なんとも冴えない風体。顔つきが厳しくなけ
れば、まるで金田一耕助だ。
 既に酔っている様子で、着ている上着はよれよれ。
 ゆるんだネクタイをほどいて、ポケットに突っ込んだ。
 左手に空のグラスを、右手にウィスキーの瓶を下げている。
 驚いたことに、彼が現れるとそれまで静かだった先客達は歓声と口笛の合唱で迎えた。
 にやりと口元だけで笑った男は、どかりとピアノの前に座り、悠然と煙草に火をつけた。
 グラスに夕焼けの色の液体を注ぎ、ピアノの天板に瓶と一緒に並べる。

 たっぷりと時間をかけ、根元まで吸い切った末に煙草をねじ消し、灰皿もピアノの上に置いた。


 酒、煙草。肝硬変へ一直線ね。いささか冷酷に薫は考えた。
 日本人のようだけど、あの顔色は肝臓疾患のせいだろうし、あの痩せた体は不摂生な生活習慣に
原因がありそうね。今すぐ医者にかかっても、事態を先延ばしするのがせいぜいかしら。
 まあ、そんな人は彼だけじゃないけれど・・・・・

 そこまで考えた時、客の一人がハーモニカを吹きはじめた。
 あれはハーモニカじゃなくて、ブルース・ハープっていうのよね。自分で自分を修正する。
 この店にはBGMがなかったことに、ようやく気づいた。

 痩せた男は鍵盤に両手を並べ、弾きはじめた。
 そして歌も。
 立ち枯れた街路樹のように、しわがれた声で。


It's nine o'clock Saturday
The regular crowd shuffles in
There's an old man sittin' next to me
Making love to his tonic and gin

土曜の夜9時
いつもの奴等がそろそろ集まってくる頃だ
一人の老人が俺の隣で
ジン・トニックのグラスをしきりと愛撫してるぜ

He said.son can you play me a memory
I'm not really how it goes
But it's sad and it's sweet
And I knew it complete
Where I wore a younger man's clothes

若いの、思い出というヤツを弾いてくれ
どんな曲だか、もう覚えちゃいないが、
ちょっびり甘くて、ほろ苦い味のするヤツさ
これでも若くて、洒落っ気があった頃にゃ
空ですっかり覚えていたもんさ

 ここで、先客たちが声を揃えもせず歌いはじめた。
 見つめる薫のことなど一切気にせず、ただ心のままに。

Sing us a song you're the piano man
Sing us a song tonight
Well we're all in the mood for a melody
And you'vegot us feelin' alright

歌っとくれよ、ピアノ・マン
今宵、歌っとくれ、あの歌を
俺たち全員、歌い出したい気分なのさ
ああ、今宵はなんて素敵な夜だろう


 ラ・ラ・ラと続く調子外れのコーラスを聴きながら、薫自身、指でリズムをとっていた。
 いい歌ね。私の気分とは正反対だけど。
 とても歌おうって気にはなれないが、痩せた男の意外に上手そうな演奏は、閉じ込めていた欝屈
の水門を緩めたようだ。


 この日、彼女は友人の結婚式に招かれて、東京にやってきた。
 正確には、医大時代の先輩の女性である。2学年上の彼女とは、学食という平凡な場所で知り
合った。お互いに気が合ったのだろう。親友になるまで、時間はかからなかった。
 一緒に買い物をし、旅行をし、研究した。
 そしてお酒を飲みながら、夢を語っていた。
 子供の頃、倒れた父を、何もできずに見殺しにするしかなかったという過去のつらい経験から、
はっきりと医師を目指す彼女に薫は、羨望と素直な新鮮さを感じていた。


 椎名家は、両親はいまだ健在。中流の上といったところか。一人っ子だったこともあり、何かに不
自由した記憶はない。それでいながら、常に空虚という形のない重荷と二人連れだったように思
えるのだ。

 彼女には、自分がなぜ医師になるのか、それすら答がなかった。


 両親は、教育を押し付けるようなタイプではない。
 何かに関心を持ったら、それを後押ししてやろうと思っていたのだろう。
 小学3年の頃、父の書斎にある大きな本を手にしていた。記憶も曖昧だし、理由はわからない。
百科事典だったとはおぼろげに印象がある。

 その日以降、薫が何かを読まない日はなくなった。
 学校。自室。遠足の場所でも。
 何でもよかった。ほどなくして書斎の本を制覇してしまうと、図書館に足を運んだ。
 両親も、欲しいという本はいくらでも買ってくれた。誕生日もクリスマスも、もらいたかったのは本
だった。親にすれば、おもちゃや漫画に比べればよほど与えがいがあったのだろう。

 自然、学校の成績は上がっていった。
 子供の頃の成績表を見たことがあるが、4年生を境に大きく内容が変わっている。
 それまでは体が弱かったこともあってか、なにひとつ良いといえる科目はない。女の子の癖に、
音楽までだめだった。
 ところが、活字に触れることで勝手に国語や社会の成績が上がり、釣られるかのように理科や
算数も良くなった。ほかの子たちがアニメや歌番組を見ている時に小説やエッセイを読んでいるの
だから、当然といえば当然だ。

 それまでは、あまり頭を使わない、ぼぅっとした子供だったのだろう。低学年の頃の記憶など、ほと
んど残っていないのだから。写真を見ても、なにも思い出など浮かんでこない。
 母は、そんな薫に「いろいろ連れていってあげても、さっぱり覚えてないんだから」と呆れていた。

 中学に進むころには、すっかり秀才のレッテルが貼られていた。
 正直、いい気分だった。
 教師の言うことは、予習するだけで聞かなくてもわかった。
 授業を受けているより、試験の方が好きだったほどだ。
 退屈な教師の話を黙って聞かされるより、問題を解いている方がよっぽど楽しめた。

 いろいろな本を読んだせいだろう。
 彼女の人格は、周りの誰よりも早く、大人になっていった。





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この小説で使用される歌詞と翻訳について。


『Piano man』Billy Joel〜山本安見さん
『Blackbird』Beatles(Paul McCartney)〜内田久美子さん
『BRAND NEW DAY』Van Morrison〜内田久美子さん
『BRIDGE OVER TROUBLED WATER』Simon and Garfinkel
〜沼崎敦子さん
『Time』Tom Waits〜中川五郎さん



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