I'm losing you


8月1日。
 明日はアルバイトの日。望は初出勤だって張り切っていた。
 望の体ではいつまで続けられるかわからない。もっと楽な仕事にしたらって言ったけれど、あの
お店の制服が着てみたいって譲らなかった。
 私も望も、わかっていた。
 今しか、そんなささやかな願いが叶う機会はないということを。
 名前と服を取り替えて外へ出るなんて、もう望には限界だから。
 思うように体を動かせなくなる日が静かに迫っていた。
 だから私たちは、あらゆる人を欺き続けることにした。
 夏が終わる頃、望には想い出が必要になるから・・・・・。

8月2日。
 望がアルバイトに行ってから、私はあの子のつけたノートにずっと目を通していた。いつ私が
働くことになってもまごつかないように、
 教わったことは頭に入れておかないといけない。肩書き。作業の名前。道具の名前。人の名前。
チーフ。トング。ディッシャー。稲穂信。伊波健。話したこと。聞いたこと。したこと。しなかったこと。
 入れ替わりを始めた 頃に比べればバレないようにうまく立ち回ることができるけれど、それが
あまりいい気分じゃないのはどうしてだろう。

8月4日。
 今日は日曜日。お父さんもお母さんも一日ずっと病院にいてくれる日。
 だから私は、望と入れ替わった。アルバイトを2日続けただけで、望は微熱を出していた。蓄積
された疲労のせいだろう。
 「昨日、ちょっと重たいものを持ったから。でも平気だよ」
 そんなの、強がりだってわかってる。
 なのに私は・・・・・。

8月5日。
 昨夜遅く、望が発作を起こした。投薬で明け方には落ち着いたけれど、半月ぶりぐらいの発作に
先生が眉をひそめていた。
 やっぱり、もう止めた方がいい。アルバイトなんて、限られた望の時間をどんどん削り落とす
ようなものなのだから。
 だけど望は大丈夫だよと繰り返すばかり。明日もちゃんと行く。お願いだから交代してねって。
 根負けしたのは私の方だった。

8月6日
 望の代わりにベッドに横たわっていると、いろいろなことが頭をよぎる。
 考えまいとしても、何かが浮かんできてしまう。
 考えたくないことでもお構いなしに。
 壊れかけている彼との関係。
 描いても描いても空虚な絵。
 そして、望のこと。
 望はここで、いつもどんなことを考えているんだろう。
 枕に頭を預けていると、見えるのは焦茶色にくすんだ天井と窓ガラスの形に区切られた小さな
空だけ。
 なにもかも手が届かない。
 望は・・・・・
 どうして自分が苦しまなくてはならないのかと、私を恨んだりしないのだろうか。
 自由に体を動かせる私を羨んでいないのだろうか。
 私にくれたものをあげないでいればと悔いていないのだろうか。

8月7日
 いつもにも増して辛そうな望を半ば無理矢理にベッドに寝かせた。
 聞けば、昨日はお皿を落としたりもしていたという。ここで一旦休ませなければ取り返しのつか
ないことにもなりかねない。
 私の初出勤は無事に終わった。望から聞いていたことはきっちりと頭に入っていたし、職場の
見取り図も書いてもらっていたから。時々周囲との会話が噛み合わないこともあったけれど、
気付かれた様子はなかった。
 仕事から上がって、急いで病院へ向かった。初日から稲穂という先輩と一緒に帰っていると
聞いていたから、疑われないように習慣を守るべきだったかもしれない。だけど望の具合が気に
なった。
 今日一日でだいぶ良くなったと先生も言っていて、ほっとした。

8月8日
 また交代することになった。もう一日休んでいた方がいいと言ったのだけれど。
 どうしてあんなにバイトをしたがるのかわからない。昨日やってみて、とても望に続けられる
ような仕事じゃないって判った。私だって肘とか脛が張って痛いぐらい。確かに接客は新鮮で
楽しかったけれど、無理をしてまでするほどのことじゃない。
 何事もなく帰ってこれますように。

8月9日
 何があったんだろう。
 全然分からない。
 午前中だけでいいから替わってほしいと頼まれて、アルバイトに行かないのならいいとOKした。
制服を着たから、きっと学校に行ったのだと思ってた。後でそうだったってわかったけれど、お昼
過ぎに戻ってきた望は、苛立ちと怒りに満ちた視線で私を見た。ほんの短い時間。一瞬より
ちょっと長いだけの時間だったけれど、すぐにいつもの表情に戻ったけれど、確かに私を、嫌悪
するような視線だった。
 アルバイトに出て、学校で稲穂信という同僚の人と会っていたことを知った。
 その時望は、私の描いた絵を破っていたという。
 「気に入らなかった」って。
 どうして?
 どうしてそんなことしたの?
 あれはただの風景画。望は何も関係ない絵。それをどうして?
 悪戯みたいな軽い気持ちでそんなことする子じゃない。
 あの視線は、とても冷たかった。
 私が、嫌いなの?
 私を許せないの?

 私が私を許せないでいるように。


8月10日
 今朝の望はいつもと変わらなかった。
 絵を破ったことなんか一言も口にしなくて、また替わってねと言うだけで。
 顔色を見れば具合が悪いのはすぐわかる。
 だけど、断ったときになんて言われるかがわからなくて、恐くて、ただ頷いてしまった。
 病室のベッドにいて、お母さんがずっといてくれても、
 気分は晴れなかった。何度も「どこか痛いの?」と聞かれて心配させてしまった。
 そして、気がついた。
 望がずっと、どれだけ辛い思いをしていたのかを。
 どんなに頑張っても良くはならない体調。
 毎日毎日、何度も何度もこうやって、お母さんやお父さんを心配させてしまう。
 「大丈夫だよ」って答えても、それが嘘だって
 わかっているから心配は募って、お母さんたちを苦しませて、悲しませてしまう。
 いつもこうして一緒にいれるのが羨ましいなんて思っていた私はバカだった。
 最低だった。
 私の寂しさなんかより、望の方が何倍も切なかったんだ。
 まだよくわからないけれど、こういう気持ちが、私の絵を破らせたのかもしれない。
 いつか確かめなくちゃいけなくなる。それは、わかってる。

8月11日
 今日は日曜。お父さんもお母さんもずっといてくれる日。
 だけど私は交替しなかった。できるはずがない。
 望は明日、海に行くことになったと喜んでいた。行けばかなりの負担が体にかかるけれど、もう
何年も海なんて行っていない望を止めたくはなかった。だから、今日は絶対にゆっくり休んで、
体調を整えておかないといけないと言い聞かせた。

8月12日
 嫌な予感は当たった。海で無理をしすぎた望はふらつきながら病院に戻ってきた。元に入れ
替わって、すぐに私は看護婦さんを呼んだ。先生も、どうしてこんなに急に悪化したのかわから
ないって難しい顔をしていた。
 やっぱり行かせてはいけなかったんだ。
 だけど、鎮静剤で眠りにつく寸前、望はとても嬉しそうな瞳をした。
 きっと楽しかったんだ。何年も経験したことがないくらいに、楽しかったんだ。
 望はたった一日の楽しみにこんなにも大きな代償を払わなければならない。
 みんな私のせいなのに。



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