Summertime Blues



 稲穂信が市街地をぶらついていて、中学高校を通じて後輩だった奴と会ったのはこの頃だった。
 「稲穂先輩ですよね。あ、やっぱり。先輩、変わっちゃいましたねぇ」と声を掛けられたのは
ただの偶然。
 珍しくジュースを奢って立ち話をしたのも、どこでアルバイトしているかを口にしたのも偶然で、
後輩が最近、一度だけ食べに来たことがあるのも偶然だった。
「あそこで、相摩さんバイトしてますよね」
「ああ、いるよ」
「俺、今同じクラスだから声掛けたのに、完璧に無視されちゃいましたよ。彼氏付きだって
知ってるし、ナンパしたわけじゃないのに怪訝そうな顔して行っちゃって。あれって、店の方針
なんですか?」
「方針っつったらそうだけど。私語はいい顔されないし」
「でもなんか、知らない人みたいな顔されてヘコんだなぁ。あの噂、マジかって思っちゃったし」
「噂ってなんだ?」
 こう尋ねたのは、偶然じゃなかった。
「ん?情報通の先輩にしちゃ珍しいですね。聞いたことありません?」

 二重人格。
 最初に飛び込んできた単語に、「なにくだらないことを」と思った信だったが、笑い飛ばそうと
した寸前に心のどこかで引っかかったものがあった。噛み合わせの悪さというか、しっくりこない
感覚。肌にまとわりついて左右がずれたTシャツを着ているような感覚。だから笑わないで、
最初からわかるように説明をさせた。

 後輩も中学時代の相摩希のことは知らなかった。高校に入ってクラスメートになったのだが、
彼女は明るくてどちらかといえば勝ち気なイメージでクラスに溶け込んでいたという。
 冬が近づく頃からだ。女子の間から妙な話が出始めたのは。
 つい昨日話したことを憶えていない。
 日によっての立ち居振る舞いの違いが大きい。
 好みがころころ変わる。
 
 そして噂を最も強固にしたのは、彼女の描いた絵だった。

 美術部員の彼女は、鮮やかで大胆な色使いを特徴とする作品を得意としていた。市の発表会
などで入選することもあり、人目を引くだけの才能がそこに表現されていた。
 だがある時、顧問の教師はイーゼルに立て掛けられていた彼女のスケッチブックを見て愕然と
する。普段の彼女とはまるで一致しない、繊細で淡い色調でまとめられたいくつかの静物画が
そこに描かれていたのだ。これは誰か別人のものなのだろうと思ったのだが、改めて表紙の名前を
確認してもそこには相摩という名字だけがある。
 何かの間違いだと思って他の美術部員に聞いて回ったことで、一気に噂は広まった。後から
現れた本人の「気分が変わると、こういうのも描いてみたくなるんです。それだけです」という
説明は明らかに苦しく、何より、人前でその慎重すぎるぐらいのタッチを見せたことがないことで
不信感を高めてしまった。

 なにかおかしい。
 指向性を持った噂は砂場を潜る磁石のように尾鰭を付けていった。
 そして帰結したのが「二重人格説」だった。
 
 不思議なことに、彼女本人が噂の否定に積極的でなかったという。

 
 そろそろ約束の時間だからと立ち去る後輩を見送った稲穂信は、思うように動かない足を
重たそうに運んで手近なショッピングセンターに入った。陳列された商品には目もくれず、屋上の
駐車場へ出る。
 高いところで考えれば、それだけ邪魔が入らないような気がしたから。

「噂を信じちゃいけないよ、か・・・・・」
 古い流行歌を呟いてみる。パソコンをネットに繋げば、洪水のように噂が乱れ飛んでいる。
真面目に取り合うのもくだらない話ばかり。それを分かった上で、面白おかしく話したりしてきた。
 だけど、この噂にそんな真似はできそうもなかった。

 二重人格なんて、サスペンス映画の中だけにあるものだった。それも一流じゃないやつの中。
一種の精神病。時には犯罪にも繋がる。
 彼女が、そうだっていうのか?
 初めて会った日のことが頭をよぎる。他の新人と一緒に仕事の説明を受ける彼女は素直そうで、
几帳面にメモを取っていた。メモなんてあんまり役には立たないんだけどなと思ったけれど、熱心
なのは伝わってきた。
 この時期、仕事は一番きつい。休みは少ないし残業も避けられない。彼女が時々辛そうにして
いるのはそのせいなんだろう。でも張り切るときは人並み以上に張り切って動いてくれるし・・・・・。
 張り切るときは、だ。
 
 後輩に噂を詳しく話してもらったのは、彼自身が違和感を持っていたから。職場の休憩室は
世間話や仕事の愚痴をこぼし合う場所。彼女も同僚達の輪の中で、控えめに話し、聞き、笑って
いた。誰からも歓迎されて、親しまれていた。
 だけど、あれはいつだったろう。
 いつものように一緒に帰らないかと誘って、すげなく断られたのは。
 機嫌が良くないだけかとあの時は思った。誰だってそういう日はあるし、忙しければストレスも
溜まる。客に腹の立つことを言われたのかもしれないし、単に俺の下心でも勘ぐったのかも
しれない。
 それだけなんだと思いたい。けれど、他にもそんな日があった。穏やかで大人しい雰囲気の
彼女が活発で溌剌としている日。よく憶えているのは珍しかったからなのか。それとも、生彩に
満ちた印象が眩しかったからか。

 埒もないことを考えているな。俺は。

 この街のどこよりも空に近い場所で、彼は肩をすくめて踵を返した。


 翌日、早くもレサックの休憩室にはミニアルバムが広げられていた。海に行ってみんなで撮った
写真が右へ左へと渡され、写っている者も留守番をするしかなかったアルバイトも賑やかに
騒いでいる。もちろん稲穂信はその中心だ。奇妙なポーズや不意を突かれておかしな表情に
なった顔を次々と指摘して爆笑を誘う。
 しかし。 
 心に秘めた冷静で、一瞬に切り取られた生まれたての想い出に、彼は何かを探していた。
 
「何見てるんです?」
 休憩室の外にまで響いていた嬌声に希は、入るなりパイプ椅子に座る誰かの背中に声を
掛けた。
 準備不足を突かれたかのように、慌てて信は振り向いた。自然な顔つきが間に合っただろうか。
「おっ、おはよう。こないだの写真だよ。海の。見る?」
「ああ、あの写真。もうできたんですね」
 差し出されたミニアルバムを受け取った彼女はぱらぱらとページをめくり、すぐに信に戻した。
「え、もういいの?」
「まず制服に着替えちゃいます。後は仕事上がってから見ますから」
「そっか」
 彼の視線は更衣室に消える彼女の背中を追い、扉で遮られるまで外れなかった。

 仕事の合間、信は「体の具合はどう?」と相摩希に訊ねてみた。海からの帰り道で倒れた
様子を思い出せば、混雑する時間帯に投入するのは気が引ける。アルバイト長としての責任も
あって聞いたのだが、「大丈夫ですよ。気にしないでください」とあっさり答えてから、「あ、でも
今朝はちょっとくらっときたんですけどね」と付け加えた。心配すべきなのか不要なのか分から
ないまま、彼は仕事に戻るしかない。きびきびと体を動かす彼女のどこにも、体調の悪さを
窺わせるものがなかったのだから。

 二重人格というのは、肉体にまで影響するものなのだろうか。
 映画だと、人格が変わると外見まで違って見えるってことになっている。善人が悪人に変貌する
とき、穏和な容貌が険しくなり悪魔的になったりする。そんなことが実際にあるのか?
 仮にあったとしても・・・・・・・
 決して変わらないものがあるはずだ。

 稲穂信の視線は、料理を受け取りに来る彼女の腕に注がれていた。


 翌日、コンビニに昼食の調達に出た彼は公園を通りがかった。うだるような暑さが空気まで
焦げつかせそうな時間帯。常緑樹がもたらす木陰の爽やかさなどマイクロサイズの扇風機の
ように無力だった。
 なのに、公園には短い影を落とす彼女の姿があった。
 ベースボール・キャップを脱いで、ハンカチで汗を拭ってから彼は真っ直ぐに歩み寄って行った。
 足音で気付いた彼女が振り向く。
 意外。驚き。不審。困惑。そして名前のない感情が、瞳に浮かんでいた。
 
「なに、してるんですか?」
 希が自分から話しかけたのは、後ろめたい気持ちがあったからだろうか。
 言葉を障害物にして方向を逸らしたかったのだろうか。
 スケッチブックを閉じて、彼を見上げた。
「通りがかったら、見かけてさ。邪魔しちまったかな?」
「そんなことないですよ。ひょっとしてずっと見てました?」
「いんや。今来たとこ。しっかし・・・・・」
 わざと大げさに、彼は目線で彼女のてっぺんからつま先までをなぞった。
「この暑いのに外で写生かい? 恐ろしいことをするもんだねぇ」
 小さな帽子ひとつ被っただけでベンチに座っていた彼女の側には大きめのスポーツタオルが
置いてあり、汗で湿っているのは予想がついた。
「写生ってほど大げさじゃないですよ。ざっとデッサンだけして、あとは家の中で仕上げるんです。
そうしないと夏の風景なんて描けないから」
「な〜るほどねぇ。どれ、ちょっと見せてくれる?」
「これですか?」
 膝の上で日焼けしているスケッチブック。
「そう」
「え、えっと・・・・・」
 躊躇う希。この絵を見せて良かっただろうか。
 この間、学校で稲穂先輩は私の絵が破られるのを見ている。
 あれは私の絵だったはずだから・・・・・。
「いい・・・ですけど、つまらないですよ」
 はっきりとした結論がまとまる前に、彼女の唇はそう動いていた。
 予測しがたい不安が後からついてくる。しかし、屈託なく手を差し出す彼に打算で弾いた拒絶を
したくない気持ちが優っていた。
「巧いもんじゃん。これ、澄空の正門前だろ。何の変哲もないロータリーだと思ってたけど、こう
やって絵になると趣があるもんなんだなぁ」 
 一枚、また一枚と画用紙をめくっていく信。デッサンだけのもの。ラフスケッチ。未完成の水彩画、
名前入りの完成作。彼女の瞳に写る彼女だけの世界がそこには息づいていた。
 信には善し悪しなどわからない。本気で絵を観たことも描いたこともない。かつて生命その
ものの光をキャンパスに注いだ少女のことを、智也から聞いたことがある。その子の作品は
鮮やかだった。持っているあらゆるものをパレットに乗せて筆を舞わせたからだと、親友は
哀惜を滲ませて話していた。

 今、俺が手にしているスケッチプックとはまるで逆じゃないのか。
 絵ってのは、ありったけのものを表現しようとするんじゃないか。
 ここにあるのは、足りないものばかり。割れた鏡の寄せ集め。
 
 明らかに技術的には磨かれている。巧いと言ったのは嘘じゃない。けれど、なんて痛々しい
世界なんだろう。

「稲穂先輩?」
 いつしか手を止めてしまっていた彼を希が覗き込む。不安が的中してしまったのかと、指先を
微かに震わせながら。
「あ、ああ。つい見とれちまった。ありがとう」
 スケッチブックを返して立ち上がる。
「じゃ、俺、そろそろ行くわ。メシ食ってないし。それじゃまた、店でな」
「あ、はい。また明日、ですね」
 コンビニの袋をぶらつかせながら公園を出ていく稲穂信を、彼女は誰にも気付かれないように
見つめていた。安堵と、一抹の寂寥をまぜこぜにして。
 灼けた肌が、ひとりぼっちで痛み始めた。

 二人の軌跡が次に交わったのは、スケジュール通りの翌日、レサックにてだった。
アイドルタイムと呼ばれる午後4時前後にはひとまず客足も衰え、夜のための仕込みや掃除の
時間になっている。
修羅場からの暫しの解放。店員同士が手を動かしながらもお喋りができる。
 信はステーキ用の鉄板にキッチンペーパーで油を塗りながら、隣の台で洗い上がったナイフや
フォークを磨いている希に話しかけていた。いつになく会話が弾むのは近くに誰もいないからなの
か、気まぐれによるものなのか、彼には分からなかった。
 手際よく動く彼女の腕が健康そうに日焼けしていた。海に行ったのだから当然だ。
 だけど・・・・・。
 いつしか話題は世間話から恋愛、彼女の彼氏自慢へと推移する。
 彼氏がいることにさほど驚きはしなかった。妙な噂があるにせよ、惚れる男には事欠かない
はずだ。驚きとは全く別の、濁った感情に居心地の悪さを感じながらも、普段のような身軽さで
言葉のキャッチボールをしていた彼だったが、「で、稲穂先輩はどうなんですか?」と返された
瞬間、ぽろりと落球してしまった。
「おっと、俺か? 俺のことはどうでもいいって」
「私にばっかり話させて、ずるくないですか? 聞きたいなぁ。先輩の彼女」
 彼女という言葉に反応して、勝手に浮かんでくるひとつの肖像。仕草。声。過去。なんで今更
出てきちまうんだよ。
「俺ってさ、ほら、心が広いっつうか、博愛主義だからさ、一人に絞るってできなくって。ついつい
気持ちが変わっちゃうんだよな。だから俺はいつでも自由な愛を求めてるんだなこれが」
 下手なでまかせで誤魔化して、別の作業に移るからと口実を使って、彼は彼女から離れた。


 雨はいつ上がる? 
 笑っちゃうよな。
 俺がまだずぶ濡れでいるんじゃないか。



A half of self portrait

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