A half of self portrait



 この後味の苦さが引かないうちに、信は更に気まずい思いをするはめになった。
 翌日の夜。殺人的な忙しさから逃れて待望の休憩時間を貰った彼は、のしかかる蓄積疲労に
逆らえずに、休憩室の電気も点けないままテーブルに突っ伏していた。
 その耳に、話し声が近づいてきた。
 目を開ける気になれずに寝ていると、声の主、相摩希が携帯電話を手に休憩室のドアを
開けた。どうやら休憩中に裏の駐車場で電話をしていて、話が終わらないのに休憩時間がなく
なってしまったらしい。

 希は、暗いため誰もいないと思っていた。
「だから、あなたには関係ないって言ってるでしょ!」
 激するままに叫んでしまう。
 耳から携帯を引き剥がして、やっと彼女は室内にいるもう一人に気付いた。
 駐車場の水銀灯から分かたれる僅かな光に浮かぶ影。
 体格とコックウェアで、すぐにだれなのかわかった。
 まだなにか発声している携帯のボタンを切る。
 眠っているのだろうか。
 聞かれてしまっただろうか。
 問いかけるのも躊躇われて、彼女はただ立ちつくしていた。

 背後でドアが突然開かれる。
 店長がぱぱっと蛍光灯のスイッチを入れた。
「相摩さん、休憩終わりだろ」
「あっ、はい」
「次がつかえてるから、早くフロアに戻ってくれよ」
「はい。すいません。すぐ出ます」
 頷いて、俯せのままの信のことはいつものことだとでも言うように気にせず、出ていく店長。
慌てて希は自分のロッカーに携帯電話を、電源を切るのは忘れずに入れて、仕事に戻る支度を
手早く整えた。
 そしてドアノブに手を掛けたとき。
「誰にも言わないよ」
 くぐもった声で、そう言われた。
 時が止まったかのように、硬直する希。
「変わらない気持ちなんて、ないんですよ」
 彼に聞こえたかどうかわからない、かすれた声しか出なかった。
 振り向きたい衝動を全力で踏みにじり、彼女はドアを閉めた。


 変わらないでいたいと思える人は、幸せなんだろう。
 あれからずっと携帯の電源を切り、自宅へかかる電話には居留守を使い、自宅に押し掛けられ
てもいいように朝から外出していた希は、アルバイトに出勤したところで、待っていた彼と向き合う
ことになった。
 「はっきりさせておきたいから」と。
 もう全部終わりにしようという言葉は、そらぞらしく響かない。
 希から、彼に渡せる言葉はなかった。


 いつまでも取り残されててもしょうがないから。
 重い体を引きずって職場へ向かう彼女。レストランの入り口には、稲穂信が腕を組んで立って
いた。
「おはようございます」
「おはよう」
 抑揚のない挨拶に、同じような挨拶がこだまする。
「ずっと見てたんですか?」
「いや」
「別れました」
 返事も待たずに、彼女は休憩室へと急いだ。返事なんかほしくなかったから。

  
 ずっと前からこうなることはわかっていたような気がする。
 友達の友達だった彼。
 付き合ってほしいと告白されたときは本当に嬉しかったし、
 一緒にいれば嫌なことより楽しいことの方が多かった。
 うまくいっていた。
 望と入れ替わるまでは。
 でもそれは、私のせいだから。
 病気になってから、望は恋をしたことがない。ずっと病室にいて、
 恋ができる人と出会うことすらなかった。そのままではあまりにも寂しすぎる。
 私が身代わりになろうって言い出したのは、偽りの恋愛でも、
なにもないよりはいいと思ったから。

 最初は、喜んでくれた。
 駅前で待ち合わせをして、映画を見て、食事をして帰る。
 それだけのデートに満たされて帰ってくる望は嬉しそうだった。
 だけど、回数を重ねる度に望は彼と会うのを渋るようになった。
「なにか、私とは合わないような気がする。彼もつまらなそうにしているし」
 そう呟いて。
 いくら外見がそっくりでも、私と望は違う。
 彼もなにかちぐはぐなものを感じていたのかもしれない。
 ひび割れ始めた亀裂は、再び戻ることはなかった。

 辛いけれど、悲しくないのはなぜだろう。
 わからない。
 わからないけれど、涙だけが流れた。



 海から戻ってから、望はまだ一度も病院から出ることができないでいた。いつもなら散歩や
ちょっとした買い物程度の外出は認めてもらえるのだが、無遠慮な陽光の下で一日を過ごした
だけで彼女の肉体は持ち主の願いを拒むようになっていた。今日の検査でいい数値が出る
だろうか。
 とてもアルバイトに出る気分ではなかったが、望がまだ交替ができるほど回復していない以上、
希が行くしかない。辞めたりさぼったりすれば、ベッド以外の望の数少ない居場所を奪ってしまう
ことになるから。

 誰とも会いたくない。
 特に、この人とは。
 レサックに入ると、ひどい汗をかきながらトングを手にする彼の姿があった。
 この人はいつ休んでいるんだろう。
 わざと、そんなどうでもいいことを考えた。

 制服に着替えて、予定の勤務時間までの10数分。バイト同士が主婦も学生も入り交じって世間
話に興じる時間。
いつ自分のことが持ち出されるかと気にしていた希だったが、杞憂に終わった。
「誰にも言わないよ」 
 嘘じゃなかったんだ。

 お互いに視線が交錯するのを慎重に避けながら、勤務時間は過ぎていった。
「これお願い」「はい」
「2卓にAサラダ追加です」「わかった」
「後ろ通ります」「はい」
 聞くことはできるけれど、見ることはできなくする薄い膜。
 それが本当にあるように、ずっと彼と彼女は相手がどんな表情をしているのか知ることなく、
9時の退勤時間を迎えた。

 どこのファミレスでも同じだろうが、アルバイトは退勤時間になってもぴったりと帰れるわけでは
ない。上がり作業という、帰る前に割り当てられた一仕事をするのが慣習になっている。
 この日の希には、月明かりに照らされながらの駐車場の掃除が待っていた。箒と塵取りで
心ないドライバーが残していった空き缶や紙屑を集めていく。最後にゴミを捨てようと店舗の裏手に
回ると、そこには先客、稲穂信がいて調理場から出た生ゴミをガベージに叩き込んでいた。
引き返すのはあまりにも不自然で、気まずさが足下から立ち昇ってくるのを感じながら、希は彼の
作業が終わるのを待っていた。
「余計なことだってわかっているけどさ」
 彼女の存在に気付いても黙々と仕事に従事していた信が、そう言って振り向いた。
「後ろ向きに考えててもいいことないと思うぜ」
 星の瞬く間だけ、彼は希の瞳を見つめ、逸らした。
 その僅かな永遠に、彼女は怯えた。
 トランプの城が爪で弾かれたような気がして。
「関係ないことですから」
 自分でも寒気がするくらい、冷たい声になった。
「放っておいてくれませんか」
 箒を握る手が痺れるほど、彼女の手は強く握られていた。 
「変わらない気持ちなんてないけど、変えたくても変えられない気持ちだってある。
そうじゃないか?」 
 問いかける言葉を無視してゴミを捨て、走り出したい衝動に耐えながら彼女は逃げてゆく。
逃げ場などないと知っていながら。

 翌日、出勤してきた「相摩希」はここ数日の波乱を感じさせない、落ち着いた笑顔で稲穂信に
話しかけてきた。まるで二人の間にはこだわりも古傷も存在しないかのように。
 もう、彼には真実がひとつだけわかっていた。
 彼女は彼女ではないと。
 理由も、経緯も、見当もつかない。
 だけど彼女は二重人格なんかじゃない。
 彼女は彼女なんだ。

 退勤が同じ時間で、駅まで一緒に帰りませんかと誘われるままに彼は彼女とひとかけらの海を
含んだ風に吹かれながら家路を辿っていた。
 楽しそうに自分や仕事のことを持ち出す彼女。ふと悩みを洩らしたり、溜息をついたり、
くすくすと笑ったり、
驚いて広げた手を口に当てたりしながら。
 だが、その手に残る日焼けはあの海の記憶のもので、公園でスケッチしながら焼いたものでは
なかった。

 彼女は誰なんだろう。

 稲穂信に残る夏は、その疑問を解き明かす勇気を掻き集めるためにあった。
 夜毎に星座は傾きを変え、姿のない虫たちのジャズも乾いた響きを奏でた。



A half of hope

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