A half of hope



 砂漠のように取り残された、遊泳禁止の海岸線。
 樹木線の向こうに帰ってゆく夕陽。
 憂鬱なテトラポット。
 花火の残骸。
 流木。
 海鳥の歌。
 
 そこに、彼は彼女を呼び出した。
 君に来てほしい。
 君じゃなければならないんだと。


 そして彼女はやってきた。
 破綻した芝居の台本を投げつけられることを予期して。
 望には何も告げないまま。
 責めを受けるに相応しいのは自分だから。 
 
 硬質な挨拶を形式的に交わすと、もう稲穂信に残っている言葉はこれしかなかった。 
「君たちは双子なんだろ?」
 ありえないとはわかっていながら、彼女が否定してくれることを願う。
 だが沈黙はガラスのように砕けて割れた。 
「そうよ。その通りよ。私は妹と入れ替わっていた。みんなを騙してた。こうやって自白すれば
満足?」
 軸から外れた歯車は傷だらけになりながら、転落していく。
 亀裂から抑圧してきた自分への怒りが奔流となって噴き出す。
「わけを、話してほしい」
 視線を留める場所を見つけられず、どうしても彼の目を見ることができず、希は煽られるように
言葉を継いだ。
「一番騙したのが稲穂先輩、あなたよ。あの子は、望は、あなたのことが好きなの。
だから私も好きなふりをした。入れ替わりがばれないようにね。
好きになられて嬉しい? それとも騙されて悔しい?
望は本気。だけど私はね、私は、あなたなんてなんとも思ってなかったのよ!」

 繰り返す信。
「教えてくれ」
「望はね、私の妹。私のせいで死んでいく妹。私が今この瞬間も殺している妹よ!」

 吐き捨てて踵を返す。
 瞳を堅く閉じて走り出す。
 少しでも、自分の罪から遠ざかっていたくて。

 細い手首が痛いほどに掴まれるまでの十数秒。
 振り解こうとする数秒。
 追いかけた彼は、もう迷わなかった。
 肩を掴んで振り向かせ、抗うのもかまわずに彼女を抱きしめた。


 ここでも雨が降っている。
 忌々しい雨が。
 尖った刃先でこころを苛む雨が。 
 髪を滴り、頬を伝い、肩を打ちのめし、裾に絡みつく雨。
 鎖となって体を縛る雨。
 かつて誰かが流した涙が降っている。

「離して・・・・・」
 潮騒にかき消されそうな、小さくてかすれた声。
 信は右手で彼女の髪をそっと包み込み、俯いていた顔を上げてもらう。
 本当の素顔が、そこにあるから。


 胸元にしみこんだ涙が乾く頃、やっと希はぽつりぽつりと望との間に横たわる、深く黒い
川のことを言葉にし始めた。

 同じ日に生を享けた姉妹。
 希望のをひとつずつを両親から与えられた彼女たち。
 幸せだった家庭に襲いかかる病。
 希は望からの臓器移植で一命を取り留める。
 しかし病魔はまだ諦めなかった。
 次に標的になったのは望。
 だがもはや、望が受け取れる臓器は残っていなかった。

 全てが望を中心に回るようになった相摩家。両親の情愛も数少ない気持ちの余裕も望に
注がれ、希はその邪魔にならないようにすることばかり考えていた。
 夜、ふっと目覚めると居間から洩れるすすり泣き。どうしてこんなことにと嘆く母と慰める父。
家族のために自分ができることは、いい子でいること。面倒をかけない子でいることしかなかった
から。
 どんなに孤独でも。
 帰宅するといつも灯り一つ点いていない寒い家が待っていても。

 数年前から入退院を繰り返し、高校に籍を得た頃には登校することも叶わなくなった。病室の
壁と窓ガラスに区切られた空だけが彼女の世界。いつしかスニーカーは足に合わなくなっていた。

 刻一刻と迫る終末点。
 父も母も希も望も決して口にはしないが、巡りゆく季節よりも進行は速い。
 落葉樹に降り積もる雪をもう一度見ることができるかどうかわからないほどに。

「望、学校に行きたい?」
 そう問いかけて始まった二人芝居。
 
 純粋な善意が動機じゃなかった。
 家族との触れ合いが恋しかったから。
 慈しみに憧れていたから。
 いつもひとりぼっちじゃない妹が羨ましかったから。

 いつしか信のシャツをぎゅっと握りしめていた希。胸のポケットが彼女の煩悶を象徴するように
皺になっていた。
 額を彼の心臓に押し当てるようにして、彼女は自らに宣告を下す。
「そんなつまらないことのために、私は望を病院の外に追い出していたの。
具合が悪くなるってわかっているのに。
発作で苦しむってわかっているのに。
命が壊れていくってわかっているのに!
これでわかったでしょう。
私は、妹をずっと殺していたのよ!」

 彼女は稲穂信を突き飛ばした。
 誰の善意にも値しないから。
 彼に抱かれている資格なんてないから。

 二人の間を孤絶と砂混じりの風が走る。
 波の飛沫は霧のようで、彼女は長く伸びた影に吸い込まれていくようだった。
 だから彼は一歩踏み出した。
「それだけが理由じゃないだろう。妹に外の世界を味あわせてあげたかったんだろ。バイトしたり、
海に行ったり、誰もが普通にしていることを体験させてあげたかったんだろ。それのどこが
悪いっていうんだ。望ちゃんだってずっと病院から出られないままでいるより、ずっとよかった
はずだ」
 ありきたりな言葉しか紡げない自分がもどかしかった。
「そんなことは免罪符にならないの!
あの子はもう長くない。あと数ヶ月もすれば立つこともできなくなるって、先生が言ってた。きっと、
今年で全てが終わってしまうの。私があんなことしなければ長く生きていられたのに。それが
一ヶ月でも、一週間でも、それはかけがえのない大切な時間なのに。みんな、私の邪な考えの
せいで・・・・・・」
 棘だらけのなにかが喉を転がる。
 でも泣くわけにはいかない。
 もっと望は苦しいのだから。
「望ちゃんは、なんて言っているんだよ。聞いたことはないんだろ」
「・・・・・聞けない。聞けるわけない。だってわかってるもの。私のしてきたこと、望はみんな
わかってるもの。だけど、私はどんなに恨まれたっていいわ」
 決然と、網膜を灼く夕陽にすら負けずに、希は顔を上げた。
「でもね。先輩。望は、先輩のことが好きなの。ずっと嘘をついてきた私と望だけど、これだけは
本当のこと。信じてください」

 望は希に、一度だってそう言ったことはない。けれど、わからないはずがなかった。入れ
替わりを終えてその日にあったことを教え合う度に、望の説明には稲穂信の名前が増えて
いったから。
 稲穂先輩はこうしていた。
 稲穂先輩とこんなことを話した。
 稲穂先輩が休みだった。
 稲穂先輩と一緒に帰った。
 疲労で頬が青ざめているのに、瞳だけには満天の夜空のような煌めきがあった。
「それからどうしたの」と問いかけると、些細なことでも両手からこぼしたくないかのように彼との
間で生まれた思い出を言葉にしていく妹。
 最後の恋をしている喜びを、望は全身で受け止めていた。
 
 なんとかして想いを結ばせてあげたかった。
 望がきっとしているように、入れ替わったときは稲穂先輩となるべく話をするようにした。先輩の
気持ちが望に向くように、同じ仕事を選んだりして距離を狭めていった。
 すべては望のため。
 好意を持っているふりをしよう。

 それが自然にできるまでに、さほど時間はかからなかった。
 同じぐらいの不自然さがこみ上げてくるのを感じながら、希は演技を続けていた。

 やってきた彼との別れ。
 追いかける気にはなれなかった。
 ただ散り散りになった心が痛みをもたらした。


 そして、気付く。
 真実を真実のように演じることなどできないことを。
 好きになってはいけない人を好きになっていたことを。

 
「俺は・・・・・」
「言わないで。私にはもう何も言わないで下さい。私じゃなくて、望に言ってあげて。
あの子はずっと待ってます。本当のことを話せる日をずっと待ってました。
あなたを必要としているのは望だけなんです。だから行って下さい。望が待っている病室に」
 彼女は一枚のカードをポケットから出した。
 たった一人の妹へと繋がる、住所と番号が記されたカードを。



 夕闇が彼女を連れ去ってからも、稲穂信は波打ち際で記憶のポケットを探り、欠け落ちた
気持ちを埋める術を見失った少女のことを思い出していた。
 あの時、彼女の鍵を持っていないことはわかっていた。どこにあるのかもわかっていた。
こじ開けることができたのかもしれない。彼女の手を取って新しい扉へと連れ出せたかもしれない。
 そうしなかったことで、俺は何を無くしただろう。
 何を手にしただろう。
 どこか成長しただろうか。

 したつもりになっていたんだよな。
 あいつらを見ていることから逃げて、一人でいることが強さなんだとすり替えて。
 わかったふりだけが得意な臆病者。
 それが俺だ。
 だけど、自分に呆れるのは後にしよう。
 そんなのはいつだってできる。
 あの二人には時間がない。
 もう雨はたくさんだ。

 そうだろ? 智也。唯笑。
 
 

 防潮林に囲まれた、小さな建物。
 月明かりに浮かぶ姿には、そこが病院だと窺わせるものはほとんどなかった。とっくに面会時間
など終わっているのは予想がついている。信は救急患者のためにか施錠されていないドアを
見つけると、足音を忍ばせて非常灯だけが壁の輪郭を照らす階段と廊下を進んでいった。
 204。
 205。
 206。

 206。
 相摩望。
 そう記されたプラスチックのプレートは、切ないほどに新しくなかった。

 ドアの曇りガラスの向こうには、小さな明かりがある。
 躊躇わずに、しかしそっと、彼はノックをした。

「はい。どうぞ」

 
 それから交わされた言葉は、それほど多くなかった。
 いくつかの謝罪と告白。
 ありのままの彼女は安らいだ微笑みをたたえて、彼の返事を受け取り、いつまでも褪せることの
ない日記帳に挟み込んだ。
 涙の味がした、ファースト・キスとともに。


 
「そんなっ!
私は、先輩のことはなんとも・・・・・」
 翌日、ほとんど一睡もできなかった希は憔悴した肉体とざらついた神経を押し隠して望を
見舞いに来ていた。きっと稲穂先輩はここに来て、望と話をして、これからの限られた時間を
共有すると約束してくれたはずだから。
 しかし、望の口から発せられたのは、
「先輩は、お姉ちゃんの事が好きなんだって」
という、あまりにもむごい言葉だった。

 冷たい汗を浮かべながら否定しようとする希。望は片手を伸ばし、双子なのに大きさの違って
きている手を握った。
「お姉ちゃん。私は、お姉ちゃんに幸せになってって言っているんじゃないの。
稲穂さんを幸せにしてあげてほしいの。
私にはできないことだから。
お姉ちゃんしかできないことだから」
 あまりにも透明な微笑みと涙が重なっていた。
「一生のお願い。
私がこの世界にいた証に、私の大好きな人を幸せにして。
だから、もう自分に嘘をつかないで。
私は、お姉ちゃんも大好きなんだから・・・・・」

 皮膚を通して伝わってくる温もり。
 絆を通して伝わってくる心。
 
「私、失恋したんだよ。初めて本気で人を好きになって、初めて失恋した。胸が張り裂けそうな
ぐらい悲しい。どうして私じゃなくってお姉ちゃんなのか全然分からない。私を選んでほしかった。
そうしたら、誰にも負けないぐらい先輩を幸せにすることができたのに。悔しくてしょうがない」

「だけど、私、誰も恨んだりしてないよ。自分でも不思議。私はお姉ちゃんに嫉妬だってするし、
羨ましいって思うし、死ぬのだって恐い。そんな諦めのいい子じゃないんだよ、私。自分に
できないことができるのが辛くて、我慢できなくなって、お姉ちゃんの絵を破ったこともあるんだ。
ひどい妹だよね。謝りたかったけど、言い出せなかった」
 ごめんなさいと頭を下げる望に、希は首を振ることしかできなかった。
「でもね、私が元気でも、きっと先輩の気持ちはお姉ちゃんに向かってた。
私の方が何倍も一緒にいたのに、先輩はお姉ちゃんを選んだんだもん。
想い出が必要なのは私。だけど、先輩が必要なのはお姉ちゃんなんだよ。
これから一人になるんだから。
ずっと頑張っていかなくちゃならないんだから。
しっかり、ね」




 木枯らしが吹いた朝。
 相摩望の魂は悠久の流れに導かれて召されていった。

 ずっと付き添っていた姉に、こう想いを告げて。


  お姉ちゃんの妹で、よかったよ・・・・・

  もうちょっとだけでも、一緒にいたかったな・・・・・



 稲穂信は参列した葬儀で、全く彼女と言葉を交わすことはなかった。
 亡骸を送り出すのは惜別を示す家族だけの方法だから。彼は借りた黒いスーツで喪失を隠し、
焼香の列に並び、哀悼の意を込めて遺影を見つめて、帰った。



Sorrows falling down like snowflakes

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