生月島
「かくれキリシタン」を訪ねる旅 Part 2

2005年8月8−10日
S氏宅で、「お札さま」を見せていただく

 S氏宅の「お札さま」は18枚の木札で1セットとなり二組ある。

 それぞれ布袋に入り、一つの木箱に収められ、天袋に隠されている。

 木札の一方には番号が、その裏には言葉が記されている。

 「よろこび」には、処女懐胎、誕生、エジプト逃避、そして少年イエスの宮での学者との対話が記されている。

 「かなしみ」には、ゲッセマネの祈り、捕縛と嘲笑、茨の冠、十字架の道行き、そして十字架上での死が記されている。

 「ぐるりよーざ」には、復活、40日めの昇天、さらに10日後に弟子たちと母マリヤに姿を現したこと、再び母マリヤと共に昇天したこと、天上で母マリヤが「御子イエス」の母として頌えられたと記されている。

「だんじく様」へ降りる断崖の道

 現代でも、生月島で人が住むのは島の東側だけだ。残りの地域は、海に落ち込む断崖に阻まれ、波打ち際に降りるのは極めて困難だ。

 「だんじく様」は、島の西南海岸にある殉教の跡。弾圧を逃れて、崖の途中の「暖竹」の薮に潜んでいた親子三人が、子どもの泣き声に気付いた、海上から見張っていた役人に捕らえられ、処刑された跡と、伝えられている。

 今回の旅では、時間が無く、崖下まで降りることは断念した。

さん・じゅあん様の歌

あ− 前はな前は泉水やなあ
後ろはな高き岩なるやなあ
前もな後ろも潮であかするやなあ
あ− この春はな この春はなあ
桜な花かや 散るじるやなあ
また来る春はな 蕾ひらくる
花であるぞやなあ


だんじ(ぢ)く様の歌(じごく様の歌)

あ− 参ろうやな 参ろうやなあ
バライゾの寺にぞ参ろうやなあ
バライゾの寺とは申するやなあ
広いな寺とは申するやなあ
広いな狭いは わが胸にあるぞやなあ

あ− しばた山 しばた山なあ
今はな涙の先き(谷)なるやなあ
先きはな 助かる道であるぞやなあ


 幾つかある「かくれキリシタン」のグループのなかで、山田集落だけが歌う歌だ。

 一時間ほどの儀式を終え、続く祝宴の最初に、先唱者に導かれて声を合わせる。死の向こうにある再生とバライゾ(天国)への希望が、哀愁を帯びたメロディーで歌われる。

 歌う人々の死の向こう側の概念が、仏教的かキリスト教的かはここでは問わない。

 しかし「パライゾの寺が、広いか狭いかは、わが胸にある」、私の認識による、私の信仰にある。この歌詞には心を打たれる。

 残念ながら、この歌を、何時、誰が造ったかは解らない。だが、日本で歌われた最も初期に属する、自由詩による民衆が歌う信仰の歌、すなわち「讃美歌」であることに間違いはない。
「井上氏」の墓

 キリシタン禁教令の後、神父が去った生月島の信徒を指導し続けた西玄可を捕縛、処刑した井上右馬允の父がここに眠る。

 右馬允は西玄可に再三、棄教を勧めたがあくまで拒否。先に紹介した「黒瀬の辻」で処刑した後、キリスト教式で葬ることを許したという。

 今日の日没は、午後7時5分。

 途中、島の中腹に住む「かくれキリシタン」のY氏宅の庭から「中江ノ島」を見させていただいた後、東シナ海に沈む夕日を見に、島の西海岸へ急ぐ。

 と、そこにひょっこり現れたのが、生月島博物館のN氏。断崖の海鳥の巣の様子を撮影に来たという。学芸員の仕事も忙しい。
次の頁へ進む


Part 1へ戻る

Part 3へ進む

ホーム・ページの
トップ頁へ戻る