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生月島
「かくれキリシタン」を訪ねる旅 Part 1
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2005年8月8−10日
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江戸幕府の、残虐で徹底的なキリシタン弾圧。
400年前の日本で、数万、いや数十万に及ぶ殉教者が
命を賭して守ろうとしたキリスト教。
絶え果てたはずのキリシタンの歴史は、
21世紀の現代まで継承されていた。
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生月島(いきつきじま)への旅は、佐世保駅発7時48分、松浦鉄道北九州線「伊万里」行きのディーゼルカーに乗ることから始まった。ホームで列車を待つうちに、突然、大きな汽笛が。驚いて振り返ると、ホームの下は佐世保の港だった。
8時23分、佐々駅に到着。三両編成で走ってきた列車は、ここで切り放され、「伊万里」まで一両のディーゼルカーでひた走る。「まだ時間あるから、ゆっくり煙草吸いな」と運転手さんが声を掛けてくれる。
ディーゼルカーは深い森を抜けて走り続け、10時43分、九州本島最西端の駅「たびら平戸口」に到着。駅に、東京から先行したFさんが迎えてくださる。「シャッター押してあげるよ」と駅員さん。
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生月島には、九州本島から平戸大橋を渡り、さらに生月大橋を渡って入る。平戸島の峠を越えると生月島が見えてくる。手前に見える小さな島が、かくれキリシタンの聖地「中江ノ島」だ。
海を渡る「生月大橋」の通行料は600円。9月の町村合併で、200円に下がるとか。
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かくれキリシタンのO氏宅へ
「納戸神」。奥には「マリア像」、手前の壺には、中江ノ島で祈りつつ与えられた「聖水」が入っている。
壺の隣は「おてんぺんしゃ」=鞭
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生月島の海の幸を詰め込んだ、豪快な丼。朝に上がった香り高い鮑、いか、大量の新鮮な雲丹。コメントの必要は無い。食すべき。(三色丼の寿司屋「一八」0950-53-3018)
午後3時、驟雨。驚き騒ぐのは、不馴れな我々だけ。15分後に止む。
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16-7世紀日本の「キリシタン殉教」を訪ねる旅を、ここから始めよう。
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1549年、鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルによって始められたキリスト教の布教は、日本の北端、当時の蝦夷にまで及び、日本文化に足跡を残すこととなった。
しかし、豊臣秀吉によって始まったキリシタン弾圧は、1614年の徳川家康のキリシタン禁教令によって徹底され、65年間のキリスト教の痕跡は完璧なまでに払拭され、おびただしい殉教の記憶だけが、民衆の心に遺された。
「黒瀬の辻」
1558年、生月に最初にキリスト教を布教したガスパル・ヴィレラ神父が、ここに大きな十字架を建て、周辺を塀で囲み信徒たちの墓地とした。島に渡る舟からは、さながら城塞のように見えたと、後の宣教師が記している。
現在の十字架は、1992年にカトリック教会によって建てられてものだ。
この十字架の裏には、弾圧のために立ち去った神父たちに代わって信徒を指導し、棄教を拒否し、1609年に斬首された西玄可(にし げんか)の墓がある。ガスパル様だ。
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「黒瀬の辻」から見る「中江ノ島」
生月島のキリシタンの処刑は、島民たちが海を見るたびに目に飛び込んでくる、この島を選んで行われた。
1614年のキリシタン禁教令後の生月島に渡り、キリスト教布教を行ったカミロ神父に協力し捕らえられた、ヨハネ坂本左右衛門(31歳)とダミヤン出口(42歳)は、1622年5月27日に「中江ノ島」で斬首された。その後も、棄教を拒むキリシタンたちの処刑が、この島で続けられた。
現代の「かくれキリシタン」たちにとっても、「中江ノ島」は最高の聖地であり、儀式に欠かせない「聖水」はこの島で採取される。
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