当サイトに国内旅行はありませんが、今回はボランティア活動で伝えたいこともあり、特別編です
思いつくまま印象記 旅体験あれこれ その24   特別編
    2012年・春
被災1年を過ぎて訪れる
 東北ボランティアツアー 
遠野まごころネット 大槌町へ
 
はじめに…遅まきながら、東北震災地へのボランティア 
 東北震災地へのボランティアは関西からは遠いので、関東の人が行ってくれるのが効果的だと思っていました。九州とかで被災があれば、近畿から行くから、と言っていました。
 でも、関東の人は何度も余震があり、自分達も被災者という雰囲気があると聞きました。だったら私達近畿組も出かけてみようかという気持ちにもなっていました。でも、イザ出かけるとなると、どんな風にするのがいいのか…ぼんやりしている内に被災1周年も近付きました。
 出入りしている辻元清美事務所周辺にも、同じ思いの人々が居られました。中でも以前に事務所に居られた馬野さんの案内で石巻を訪ねられた成田さんが「やっぱり、行くべし」と思われ、声をかけて頂くことになりました。
 大々的に参加メンバーを募った訳ではなく、辻元事務所に来ているメンバーから少し広げただけ。ですから結局8人で、大型ワゴン車1台分になりました。その辺の作業はみんな成田さんがやって下さったので、私は詳細は知らないのですが、少しずつプランが確定して行きました。
 
年齢制限のない遠野まごころネットへ
  受け入れは、「遠野まごころネット 」になりました。先に紹介した馬野さんはピースボート関連の組織に張り付いて活動しているそうですが、ここは年齢制限があり、今回の私達(全員60歳以上)は不適でした。
 遠野は岩手県の花巻と釜石の中間に位置し、釜石(大槌)へは車で約1時間の距離です。一緒に作業した東京の人が「ここは受け入れとかシッカリしている」と言われていました。
 参加者には外国の方も居られ、申し込みのシートは英語表記併記でした。持ち物とかにも厳しい要求があり、「そんなものホントに要るの?」と思ったくらいでした。例えば長靴安全靴、踏み抜き防止インソール…
 日程は、何かと気忙しい4月当初は避け、大型連休(GW)はたくさんの人が行きそうなので、その前に、ということで、4月17日(火)から21日(土)になりました。
 近畿からの交通手段はバス、新幹線もありますが、時間的には飛行機を選ばざるを得ません。伊丹から花巻空港まで1時間半で着けます。1か月前にチケットを購入すれが割引があるので、3月半ばにはメンバーの確定が必要だったようです。往復で28600円。岩手での移動はレンタカーを予約しましたが、これはボランティアと関係ない観光用に役立つことになります。8人乗りの大型ワゴン車でしたから、一人当たりは割安で7000円強で済みました。こういう手配は全て成田さんがしてくれました。

 さて、3週ほど前に簡単な打ち合わせをして、当日伊丹に集合し、旅はスタートしました。飛行機は1列4席の小型機で、国際線以上に機械化が進んでいて、搭乗手続きはこれで済んだの?という感じでした。考えてみればこうして花巻空港へ飛ぶこと自体が東北への貢献かなとも思いますが、乗客はそう多いわけではありませんでした。
 花巻空港に着いて、レンタカーで出発しますが、少し時間的余裕がありましたから、花巻の宮沢賢治記念館に立ち寄りました。三上は18年前、全国教労研の集会の後に訪ねたことがありますが、路線バスで行ったのを思い出しました。
 そこから一路遠野へ向かい、まごころネットのある遠野市の浄化センターに辿り着きました。ちょうどその頃に降雨がきつくなり、代表の成田さんが受付手続きに降りて行かれたのですが、一向に戻って来られず、何を手間取っているのかと不思議に思っていました。聞いてみたら大変な事態!インフルエンザで宿泊所が閉鎖になっているとか。まさか、ここまで来て、帰る?他のボランティア団体へ移動?
 やがてわかったことは、臨時宿泊所が確保されており、そちらへ移動して欲しいということでした。歩けば15分くらいの所で、上早瀬コミュニティの消防センターで、消防車と大広間があるところでした。ひと安心でした。後で判ったことですが、浄化センターの奥に作られたまごころネットの宿泊施設より待遇が良かったのです。変な言い方ですがここはチャンとした和室の大広間ですから、隙間風が吹き込んだりしないのですから。

 

 
▲花巻空港でレンタカーに ▲宮沢賢治記念館のオブジェ前で    

食事関係は全て自己調達。スーパーで買い出し。消灯前に自主交流会も
 まごころネットは食事関係は全て自己調達です。HPにも、どこに店があるかが書かれています。車で行きましたから、大きなスーパーが近くにあるのもわかっていましたから、翌日の朝・昼食を買い出しました。ここは津波の被害とは無縁な街ですから、大変明るい大きな売り場でした。手づくりパンや寿司を買い込んだりしました。大阪での作法と変わるところはありません。
 贅沢なのかも知れませんが、初日の夕食はJR遠野駅周辺の八百忠という郷土料理の店で頂きました。田舎定食やジンギスカン定食が1050円で美味しかったです。もちろん、地酒も頂いています。
 臨時宿泊所は大広間以外にもうひと間あり、そこは女性専用に使っていたようですが、勝手に交流会会場にして、福岡から来た双子の青年やオーストラリア人の女性、アイルランドの青年とかと交流しました。彼等がそれなりに日本語を話せることもありますが、海外で仕事をされ、アイルランドびいきの成田さんの英語が活かされました。
 大広間の注意事項は急遽責任者に任ぜられた少年(19歳の大学生)がいくつかのポイントを話して、ベテランの参加者が補足して、10時消灯を迎えました。
 翌日は、6時以降順次朝食を済ませ、7時からみんなで掃除・ゴミ処理をし、浄化センター裏の本部へ移動。その日の活動が始まります。
 
1日目の夕食 ▲消防センターの使用注意のミーティング  
 
▲別室での夜の交流会 ▲朝の掃除タイム  

朝の集会で求人発表、配属先決定、バスで移動
 朝7時半、宿泊棟がある本部前の広場に、色々な所からボランティア参加者が集合して来ます。詳しく聞くことはできませんでしたが、神奈川県とか静岡県は独自に宿泊のプレハブを持っているようでした。4月ですから企業の新任研修として来ているグループもあったようです。例えば、あまり屈強とも見えない若い女性の一団が居ましたが、それは旭化成でした。2日目、一緒に作業をした東京の方は、民宿に泊っておられるとのことで、一泊7000円程だとのことでした。
 広場には「求人票」が張り出されます。そこに必要人数も明示され、書き込んでいき、満ちれば終了。集会の後に最終調整が始まります。作業の中身が紹介されて、リーダーの下へ集合して行きます。書き込みで先の企業名とかも判る仕組みでした。もちろん、個人の名前もありです。
 朝の集会はラジオ体操で始まり、全体的な挨拶、注意事項、二人一組でインソールの点検とかもします。司会をしている人も勿論ボランティアですから、「大阪から来ている○○です」という調子で始まっていきます。
 作業先は、この段階では釜石市、大槌町でした。私達は初めから「花壇作り」に配属されていて、大槌町へ向かいました。初めにも書いたように、それらの地域へは車で約1時間ですから、小型バスや乗用車に分乗することになります。この日は私達TJ高槻7人とその他組8人でしたから、バスでした。
 初めて見る釜石、大槌の沿岸部は凄まじい状況でした。新聞・テレビでよく見かける光景が広がっていました。リーダーのカマツさんが釜石に入る頃からアナウンスして下さって、被災当時のこととかも含めて、見ただけではちょっとわからないことも教えてくれました。
 大槌町は対策会議を開いていた市長も津波に流された町ですが、第一次的な瓦礫処理は終わり、何もない所に少しでも心が和むように花壇を作ろうという取り組みでした。20pくらい掘り返し、ふるいにかけて、きれいな砂にしていきます。この地域は火災にも遭っているので焼けた瓦礫やガラス、瓦類も取り除くことになります。
 
▲朝の集会風景。先ずはラジオ体操 ▲大槌町の作業現場に到着  

   

▲花壇作り、上から

▲花壇作り、休憩中    

昼は温かいものを仮設店舗で。近くの方のお話を聞く機会も
 昼食は、この地域だけ近くの仮設食堂で温かいものも食べられます。バスで移動して「まごころ弁当臼澤・お好み焼きげんちゃん」です。そうとは知らず昨日買い込んだ食料もあったのですが、お好み焼きハーフサイズを食べました。お世辞抜きでホントに美味しかったです。大阪風に言えばモダン焼きでした。弁当は食べられませんでしたが400円と、安い設定でした。
 午後の作業は、要領もわかって順調に進みだしたのですが、途中、作業している所の上の方に住む中年の女性が来られて、「そこは前に大学生が球根を植えた所なんだけど…」と言われます。そう言えば掘り返している時にいくつも球根が出てきて、キープしていました。前の作業は掘り返さずに植えただけのようで、改めて植え直しました。偶々ですが、この方の被災の時の状況を伺うことができました。山越えでこの地域へ戻ったこと、津波の後火災が起こり、消火のすべもなく茫然と燃える我が家を眺めたことなど…。

 私達が作業をしている場所から少し上に行くと普通に住宅街が広がっているのですが、そこにお住まいの方が通られて、ヤクルトと南部せんべいを差し入れして下さって皆で有り難く頂いたりもしました。
 
▲昼食は広島焼き「げんちゃん」で ▲花壇の前でおばさんの話を伺う

 


インフルエンザ騒動は納まったけど、そのまま臨時宿泊所に
 午後3時頃には作業を終えて、再び遠野へバスで戻りますが、途中、仮設店舗に立ち寄って、買い物をしたりお茶したりしました。大槌町の再建された大きなスーパーが近くにあるので仮設店舗は厳しく、ボランティア部隊はここで停めているようです。
 幸か不幸か、浄化センター裏の宿泊施設はインフルエンザ騒動が一段落したので、再開。私達は後一泊だけなので移動はしんどいなぁと思っていたら、もう少しの間消防センターも借りているので、そちらで宿泊にもOKが出てラッキーでした。
 昨日、騒動の中でチャンと受付をしていないので、本部宿泊棟でオリエンテーションを受けました。結局この時だけこちらの棟に居たのですが、やはり消防センターの有り難さを痛感しました。ここは消防センターの倍くらいの広さですが、縦・横に1、2、3、…とA、B、C…とを組み合わせて自分の寝る場所が確定する仕組みで相当な窮屈さが想像されました。何人かのリーダーの方が連絡・注意事項を話され、テキパキした印象でした。
 少し贅沢でしたが、私達は水光園という温泉で入浴することにしました。レンタカーさまさまで、大変暗い道を辿って着きましたが、これ以降も運転は普段乗り慣れている島野さん(補助に中内さん)が担ってくれて、快調でした。再び遠野駅前へ戻り、炭火焼「語り部」で美味しい食事をいただきました。みんな蕗の塔の天ぷらに感激でした。

   
あなたは58646人目のボランティア ▲宿泊棟の共用スペース    

二日目はワカメ加工の手伝い、吉里吉里浜へ
 二日目のボランティア作業をどこにするか、少し悩みました。もちろん、花壇作りを継続してもいいのですが、この1日で終わるので、もう少し別の作業にチャレンジしてみてもいいかな、と考えました。ワカメ加工の方は経験済みの方に「レインコート・ゴム手袋・長靴必須、結構きつい仕事だし、塩まみれになる…」と聞くと少し引きましたが、参加者が少ないようなので、蛮勇をふるって参加することにしました。健康上の問題で花壇継続のグループと二手に分かれました。
 場所は大槌町の吉里吉里浜。津波で何もなくなっている沿岸部に急遽建てられた作業場に着きました。茹でて、塩をまぶし、それを塩水に浸すという重労働のグループと、脱水し圧縮したワカメをほぐすという軽作業があるので、別れて下さいとのこと。TJ高槻は女性が2名、高齢者も居るということで、全員後者のグループに入りました。
 大型タイヤ2本を固めたようなワカメをほぐしていく作業は、重労働ではありませんが、ズットやっていると腰が痛くなったり、結構疲れました。ワカメグループのリーダーになった青年が少し頼りなく、今の作業の手順や行程の説明がされないので余計に疲れました。途中でここの責任者の青年倉田さんが行程の話をしてくれたり、大槌全体の作業を統括している植前さんがアナウンスもしてくれたのでちょっとホッとしました。
 ここは昨日と違い近くに食事する所はありませんから、水光園特製の弁当を予約注文し持参して食べました。
 帰路、また仮設店舗でシフォンケーキとコーヒーのセットを頂いたり、三陸ワカメをお土産にたくさん買い込んだりしました。帰りはバスに植前君が乗り込んで色々と解説してくれました。
   
ワカメ加工の作業場遠景 ▲ほぐし作業に集中。解説する植前、倉田両君  

   

▲沿岸で弁当タイム

▲奥に塩をまぶす機械が回っている    

ここからはおまけです。観光も支援のひとつかな
 花壇作り組と合流して、2日前に来た道を戻り、花巻温泉に到着。足の怪我でボランティアに参加は無理というメンバーと合流。
 次の日はもう一度遠野から釜石・大槌を回り、山田町を経て宮古市、そして浄土ヶ浜へ向かいました。この辺は沿岸部ですから、被災の状況は同じように甚大な印象でした。
 浄土ヶ浜はメンバーの島袋さんが友人から「前に訪れた浄土ヶ浜は被災でどうなっているのか、宮沢賢治の歌碑はどうなっているのか、見て来て欲しい」と頼まれ、是非ということで足をのばしました。三上も高校1年の春休みに友達と3人旅で東北旅行をし、ここも何と48年振りの訪問でした。超ビンボー旅行で、金がないのでビスケットをかじりながらの旅でしたが。浄土ヶ浜も津波で遊歩道が壊れ修復中なので車は通れないのですが、島袋さんの粘りの交渉で降りて行けました。
 帰路、車から下を見ると、ここでも津波で流された町が見えました。ここから盛岡を通って、長いトンネルをくぐり、抜けた所はもう秋田県でした。乳頭温泉郷に予約の大釜温泉に泊りました。
 
▲釜石市街。新しい建物も建ち始めている ▲被災当時のままの大槌町役場 ▲民宿に乗ったはまゆり。奥にその民宿  

 

▲浄土ヶ浜

▲上から見えた宮古の被災地 ▲大釜温泉の露天風呂  

最終日は田沢湖を回って、平泉へ
 最終日は、田沢湖に降りて行き、そこから東進して東北自動車道に乗り、平泉へ向かいました。
 田沢湖は「アイリス」(2010年秋放映開始のイ・ビョンホン主演の韓国ドラマ)に唯一出てくる日本のロケ地なのですが、私達以外誰も見ておられませんでした…。何と言ってもここの名所はドラマでも登場する「辰子の像」ですが、さすがにその辺りは少し賑わっていました。韓国からのツアー客も来られていました。天候に恵まれて、湖の向こうの雪の残った秋田駒が岳もみごとでした。
 平泉は中尊寺・毛越寺が世界遺産に登録されて人気スポットになっているようで、観光客もたくさんでした。ここも三上は48年振りで、パンフレットによれば金色堂はその頃ちょうど解体修理されていたそうで、土地の上にシートが被せられていただけなのを覚えています。
 
田沢湖。辰子の像 ▲雫石 道の駅横の水芭蕉と蕗の塔 ▲中尊寺金色堂への道  

   

▲毛越寺本堂

▲毛越寺 大泉ヶ池    
 

短い期間でしたが、色々考えさせられました
 たった二日間ボランティア活動しただけですから、色々なことが見えていないとは思いますが、考えさせられることも多くありました。
 初めに書いたように、やはり近畿から東北は遠いことに違いはありません。時間的にはそうでもないことは上に書いた通りです。やはり費用の問題ですね。東京から来られた方は「東京を深夜に出て、遠野へ早朝に着くバスがあり、それに乗ると便利です」と言われていました。片道8千円程、往復だと1万5千円くらい。大体近畿からの半分でしょうか。そういうこともあり、遠野には神奈川県のボランティアセンターから大量のメンバーが来られていました。
 
  遠野はたくさんあるセンターの中の一つなのですが、東北は広いとつくづく思います。岩手だけでも釜石を南へ行けば、大船渡、陸前高田、気仙沼と被災が何度も伝えられている地域が続いています。そして宮城県、福島県とつながります。それぞれの所に色々なボランティア団体が受け入れを進めているのだと思いますから、多種多様な活動があるようです。
 
 そういう中で、遠野という位置は少し被災地から遠いなぁ、とは思いました。片道1時間強かかるので正味の仕事時間が短くなります。尤も、それなりの都市基盤がないと参加者の食料の調達や入浴一つとっても、困るのでしょうね。

 ボランティア活動全般にかかわる大きな問題ですが、その人員構成が難しいようです。専従者がたくさんは居ないのがボランティア活動の特徴でもあるので、継ぎはぎだらけになるのですね。しかも私達のように2日とか3日の参加者が続くとリーダーは大変です。色々な方面の求人に応じると、それだけリーダーもたくさん要る訳ですから、その層の養成が課題になります。
 少なくとも長期に任に当れる人が確保できないと大変なことになりそうです。私達の参加した活動で、もう少しリーダーがシッカリしてくれたらなぁと思う時もありました。まぁ、養成中だから仕方ないか…とは思いましたが。
 人数的なミスマッチも難しい問題だと思われました。求人(需要)がたくさんあっても、参加者(供給)が少ない。逆に参加者がたくさん来ても、求人があまりない。そういう需給アンバランスは頭の痛い問題だと思われます。(選挙の時の応援ボランティアと全く同じだと痛感)
 しかも、時期によって求人の中身が変わっていきますから、ふさわしい人的集団が応えてくれるかどうかもわからないことになります。
 私達のような体力も、技術も大したことがないメンバーにもそれなりの仕事があるといいのですが、その辺はミスマッチの危険はあるでしょうね(今回は大変結構でしたが)。

そこで結論的なことなのですが、
@
供給(参加者)は多めにあった方がいいということです。
Aそしてもう一つ、需要の側(求人)への期待は持たないことだと思います。せっかく来たのだから、達成感のある仕事を…と思いがちですが、偶々うまく行けばそれでよし、の気持ちで出向くことだと思います。
Bそして、初めに書いたことに戻りますが、近畿からでも参加する方法は簡単で、行けば何かある(個人の好みに合うかどうかは別にして)ということです。参加の仕方(自分で民宿に泊まるとか)も個人的に工夫すればいいようです。結構一人参加の方も多い印象でした。夫婦とかも。
Cそしてそして、それも難しい人はボランティア団体へカンパすることかなと思います。ボランティア団体で頑張っているメンバーは苦しい中奮闘しています。彼等に美味しいものの一つでもと思います。また、参加してくれるボランティアに少しでも何かを提供してあげられたらいいな、と思います(例えば、寝袋の下に引くマットが全員にあれば、とか)。

さらに蛇足ですが、
 集団生活はなかなか厳しいもので、朝6時迄は一切音をたててはいけないのがルールですから、荷物の整理をしていても「シー」と注意されます。TJ高槻のメンバーはほとんど全員が注意を受けていました(なかなか気がつかないので、忠告はありがたいのですが)。

 3丁目D番地みたいな寝袋場所指定もきつい話です。私達は偶然そこまではきつい場所指定でない臨時宿泊所泊りだったのですが、そういう泊りが1週間も続くともつかなと思いますネ。若い内にこういう経験をするのは悪くないかなと思いますが。

 初めに書いた装備の件も、需要(求人)がどんなものになるか判らないので、一応取り揃えておくことは必要かなと納得しました。こういう取り組みは無駄を覚悟しないとダメなようです。

 今回の旅は、お土産一つとっても、大盤振る舞いができました。べらぼうでなければ、少々高くても、カンパの積りでということになりますから。こんなにお土産をたくさん買ったのは初めてでしたが、それもいいだろうと思えました。




 
 


Copyright © 2012 MIKAMI HIROSHI