チョット番外編

裁判員裁判
 裁判員体験の備忘録(2012年)

はじめに
 裁判員裁判の裁判員を体験したことを、何人かの友人に話しました。でも、たまたまそんな話題になった時に話すくらいで、意外とそういう話題にはならないものなのですね。
 忘れている事柄もあって、「また何かの機会に」と言いながらそのままになってしまうこともあるので、少しまとまった文章にしてみました(時間の経過と共に記憶が曖昧になっていて、当時の資料を引っ張り出したりもしました)。
  ところが、話題になった時にこの文書をサッと出すなんてこともできないので、いっそのことHPにアップしようと思いました。
 HPにアップしたりして、守秘義務違反にならないの?と思われるかも知れませんが、拡大解釈される傾向にあり、守らなければならない〔秘〕の事柄はそんなに大きくないのに、「そんなこと話していいんですか」みたいな反応が多いようです。司法当局も、裁判員の体験談が広まって、「そんなに恐れおののく必要はないですよ」というメッセージを発出してほしいと考えているようにも感じます。

 もともと守秘義務は「誰がどんな発言をした」が漏れたら、例えば暴力団の関係者が被告でその関係者に「よくもウチの組の者の量刑を厳しくしてくれたなぁ」とお礼参りに来られたら困るというような趣旨だったはずです。日弁連は「守秘義務を緩和すべき」と法務省に提言しているそうです(2011年8月「朝日新聞」河津弁護士)。そこでは今のところ「評議の経過や意見の多少を漏らす行為、量刑の当否を述べる行為など、広く禁止事項が定められていること」を批判されています。
 そういう観点からしても、以下の備忘録・印象記には、そのようなことへの言及はしていません。 もちろん、取材レポートではありませんから、誰かに確かめたりしていませんので、私の思い込みとかもあるでしょうから、ご了解下さい。

 

裁判員制度ナビゲーション   中のページの一例
裁判員裁判から1年半、忘れかけていることを書きとめようと思い立つ 
 裁判員裁判の裁判員を体験して、早くも1年半が経過しました。どんなことがあったかな、と思い返すのですが、ほんとに記憶が薄れていて、友人から色々尋ねられても、全く断片的な話になってしまいます。その概要さえ定かに覚えていないことがあると気付き、早めに備忘録をしたためなくては、と思い至った次第です。ただ、時期は覚えやすく、2012年の2月29日、そう、閏年のプラス1日の日が判決言い渡しの日でした。
 友人と、「誰が裁判員に当たるんやろなぁ、それなりの確率やから、身近に居ても不思議ではないのに、あんまりそういう話を聞かへんなぁ」と話していました。裁判員制度がスタートした直後に職場の同僚の夫が当たったことを聞いたりしたことがあったくらいでした(後で聞いたら、最終的な抽選で外れたそうですが)。私は死刑廃止論者ですから、当って、死刑反対に一票を投じたい等と思っていました(もちろん議論を通じてですが)。貴重な経験なので、学校で生徒にリアルタイムで報告するのも悪くないなぁ(もちろん、守秘義務は守る範囲で)とも思っていました。残念ながら、教壇に立つことがなくなったのでこれは不可能になっていきました。  
候補者名簿記載から約1年後、たまたま2回の選任手続きへの呼び出しを受ける
 最高裁から少し厚めの封筒が届いた時、少し期待して開封したのですが、期待通りの内容でした。今、その通知文書を見ると、平成22年11月22日に発出されています。発出元は大阪地裁です。「裁判員候補者名簿への記載のお知らせ」という標題で、「抽選の結果に基づいて、当裁判所の裁判員候補者名簿(有効期間平成23年1月1日から同年12月31日まで)に記載されましたのでお知らせいたします」が主文でした。続けて「現段階では、名簿に記載されただけであり…」と書かれていて、予告の予告という印象でした。ですから、まぁ、当るかどうかは確率とかも含めて良く分からないままでした。ただ、この段階で、「辞退」できる人は早めに名簿から削除しておくということらしく、・70歳以上、・近年に裁判員をした、・この1年間学生、・重病やケガ、・職業上のこと(裁判関係者)などを証明付きで申し出る用紙が入っていました。その他に介護や出産、育児、仕事とかで特定の月に不都合なことがある場合も具体的に書く欄もありました。
 次の年に不都合な事情はなかったので、何も返送しないで2012年を迎えました。厚めの封筒だったのは、「裁判員制度Q&A」という冊子が入っていたからで、かなり詳しく漫画入りで説明されていたので、それに目を通したくらいでした。何の音沙汰もないまま2011(平成23)年は終わりに近付いていき、今回は名簿登載だけで終了なんだなと思いかけていました。ところが、12月になって、「裁判員等選任手続期日のお知らせ(呼出状)」が届いたのです。1月11日に裁判所へ行き、そこで抽選をするというわけです。その日は不都合はないのですが、その後に公判の予定日が記載されていて、これが困る日程だったのです。1月25日から30日までパックツアーですがチュニジアへの旅行を計画していました。それまでにこの裁判が終わらず、かかってしまいます。
 少し悩みましたが、旅行の日程をずらすわけにもいかず、結局裁判員を辞退せざるを得ないことになりました。せっかく当たったのに、大変残念でしたがやむを得ませんでした。旅行の計画書も届いていましたから、コピーも送りました。もちろん、地裁から「あなたは、今回、辞退希望が認められました」という「お知らせ」が届きました。その文章に続き「しかし、平成23年度中は、引き続き、裁判員候補者名簿に記載されておりますので…」とあり、「辞退は今回の事件に限って認められておりますので、別の事件で裁判員候補者として選ばれ、再び今回と同じようなお知らせ(呼出状)が届く可能性があります。」と書かれていました。
 まあ、可能性としてはそういうこともあるのでしょうが、そんなことは滅多にあることではないだろうと全く期待していませんでした。ところが、その辞退承認と相前後して、次の事件の候補者になったという呼出状が届いたのです。地裁に電話連絡し、書記官の方とやり取りして、全く別のことと考えて対処して下さいということでした。辞退は辞退、候補として抽選は抽選ということなのです。

 

 
裁判員候補者用    

3倍ほどの高倍率(?)のなか、選任。但し補充裁判員
 
 そして、無事チュニジアからも帰り、(2回目の)呼出日、2月8日午前に大阪地裁へ向かいました。この場で最終的な辞退の道もあります。仕事の都合とか、個人的な事情を申告できることになります。それ以前に辞退が認められている人はこの場に来ていないのですが、裁判員候補になった段階で確認の面接がありました。パイプいすが用意されていて着席し、その席の番号が抽選番号ということになります。
 この場で辞退がどの程度認められたのかよくわかりませんが、来ていた人は30人を軽く超えている印象でした。ですから、この段階でも相当な倍率になります。3倍程度でしょうか。もちろん、その日によって直前辞退が大量に出ることはあり得るでしょうが、色々やりくりつけて参加させておいて、ハイ落選!の人がこんなにあるのはどうなんでしょうか。まぁ、それはこの場で言っても仕方ないので、当選番号の発表を待ちました。6人の番号が次々と読み上げられ、私は入っていませんでした。先に書いたように、こんなにたくさん呼び出さなくてもいいのに…と落胆しました。ところが、「次に補充裁判員を発表します」と言われて、私の名前がありました。この中にも順番があり、2番でした。補充順位です。
 6人の裁判員と3人の補充裁判員、9名の一般市民と裁判官3名で円卓を囲むことになります。会議室があり、ここが討論や評議の場になります。裁判官は自分の部屋がありますが、私達はここがすべてで、コーヒーとかお茶を入れる給湯器が備えられ、お茶菓子も用意されていました。窓からは川越しに中之島中央公会堂が見えました。選任が終わったメンバーが一堂に集まり、とてつもなく簡単な自己紹介(確か名前も言わなかったですね。番号で呼び合うことなります)、オリエンテーションとかを終えて、午前半日の初日が終わりました。大変座り心地の良い椅子でしたから、少しくらい長い会議にも耐えられそうでした。
 
翌日から公判開始。補充裁判員も裁判員とほぼ同じ扱われ方 
 選任の翌日2月9日から公判が始まりました。この日からは原則として一日中公判や評議が続けられました。規則正しく休憩もとりながら進行していきました。6人の裁判員は年配男性の方3名、若手の男性2名、中年女性1名という構成でした。補充は年配男性2名と中年女性1名でした。若い男性はサラリーマンで、会社には職免みたいな制度があると言われていました。抽選ですから、バランスは偶然の産物なのでしょうが、この法廷は若手が比較的多めだった気がします。一般的には仕事の関係で辞退することはあり得ることで、退職後の年配層が多くなりそうですから、それは裁判員制度の問題点の一つだろうとは思います。女性の比率はどうなんでしょうか。
 裁判長が男性(中年か)、右陪席が若手中年女性、左陪席が若手の男性でした。裁判長は「補充裁判員の皆さんの発言や質問はできるだけ裁判員の方と同じように扱いたいと思います。」と最初に言われていました。「法廷では被告や証人に質問できるのは裁判員だけですが、左陪席に伝えて貰えれば、代わりに質問してもらいます」ということでした。補充の意味がよくわからなかったのですが、結局、ずっと裁判・評議に同席するということでした。誰かが欠けたら登場するというのでは、こんな複雑な課題で引継ぎができるはずはありませんから、当然と言えば当然なのです。病気で欠席してまた出て来るなんてことはできないので、一旦欠席したら終了なのです。この時期ですから風邪が流行っていて、次々と補充が裁判員になって、足りなくなったらどうするんですかと、左陪席に尋ねたら、「その段階でやり直しになりますね」ということで、それは避けたいという印象でした。結果的には一人だけ退場で、補充2番の私は残念ながら補充のままでした。退場は実質2日目だったので、初めの方がどんな方かも思い出せないくらいです。
 評議の時は裁判官も裁判員も補充も適当に座っているのですが、法廷では補充裁判員だけは、9人の後ろに席がありそこに座ります。左陪席の後ろということになります(因みに、座席にあるディスプレイ等全く格差はありませんでした)。
 年齢的には、裁判長、右陪席、左陪席の順で、左陪席は先にも書いた若い男性で最も気さくな感じで、話しやすい雰囲気でした。ですから、昼食も弁当を彼が注文を取ってくれて、それもいろいろな店をローテーションで選んでくれていたみたいです。値段も手頃でワンコインくらいでした。修行中という雰囲気で、判決文も彼が原案を書き、右陪席、裁判長に朱を入れられると言っていました。ついでに昼食の件ですが、地下に職員用の食堂があり、それなりにメニューも多様で値段も手ごろで、弁当に飽きた終盤は利用しました。誰でも利用できるようでした。女性は、ヘルシーなメニューを求めて裁判所の外へ連れ立って行かれていたようでした。
事件は無理心中で妻殺害、義母殺害未遂 
 さて、裁判(事件)そのものですが、幸か不幸か、マスコミに騒がれる死刑の可否が争われるような事件ではありませんでした。もちろん、重大な刑事事件が裁判員裁判の対象ですから、今回の事件も殺人事件でした。妻の殺害(無理心中)と、その母の殺人未遂ですが、容疑そのものは被告も認めているので、犯行の認否が争われることにはならず、専ら動機と量刑が問題になる裁判で、そんなに長くはかからないだろうという予測でした。
 事件の経緯を書き出すと長くなりますし、裁判員裁判の備忘録としては重点的な内容ではないので、最小限のポイントだけを書いておくことにします。
*発端は被告の実母の脳梗塞による入院。施設入所していたが、こういう場合自宅に引き取らねばならず、実母と妻との関係が悪いので、絶望的になり無視心中を図った(妻も義母もネクタイでの絞殺)。被告自身も癌やALSに罹っていると思い込み、絶望的になっていた。殺害後の自殺はウイスキーを飲んで自宅ベランダで寝て凍死しようとした(果たせず)。
*妻の母(義母)とは同居だったが、介護も必要で妻も自分も居なくなったら、困るだろうと考え、殺害に至った。殺害したと思ったが未遂に終わった。
*他の動機は、被告は実母の資産管理を任されていたが、使い込んでいた(パチンコ等)ことが施設を出た機会に発覚することを怖れた。更に以前単身赴任時に不倫関係があり、今は関係を絶っているが、犯行時も夫婦間で後を引いていたと思われる。因みに被告は50歳代で高校卒の裁判所職員(少し記憶が薄れていますが)。
 これらの経緯について検察・弁護側、裁判官(員)から、色々な質問や反論が行われました。例えば、・実母の病状や被告自身の病状は結果的には大したことはなかった、・実際には施設から必ずしも退去を求められることはなかった、・使い込みはあったが、資産もあったのでそれほど責められるものではなかった、・夫婦関係は不倫の後遺症は消えて円満であった、というようなやり取りが証拠や証言をもとに行われました。
 証人も法廷に立ちました。単身赴任で滋賀北部に居た時の不倫関係にあった女性が証人として来られました。被告が大阪に帰ってからも少し付き合いはあったようですが、犯行時にはほとんど連絡等はなかったようです。ただ、犯行後被告と手紙のやり取りが少しあったようです。医師、警察官等も型通りの証言でした。ただ、精神鑑定をした医師の証言は、被告の責任能力が裁判の争点の中心でしたから、それなりの時間を取って行われました。
 遺族の証言もビデオや文書による意見陳述等で行われました。殺人未遂に終わった義母には、裁判関係者間の事前の整理で病床での聞き取りのビデオ収録が決められ、法廷で流されました。この人は、厳刑を望まない姿勢でしたが、ほかの遺族(被害者の弟や長男、長女)は厳しい処罰感情を示していました。こういうことが一般的には量刑に意外と影響することを知りました。
よく分からない殺害にまで至る動機
 事件、裁判そのものとして、私が個人的にも、他の裁判員とも共通に感じたのは、動機がよくわからないことでした。「こんな理由で、人を殺すかなぁ」という印象が最後まで付きまといました。被告への質問とかでも裁判官共々尋ねるのですが、鮮明になりませんでした。上に書いたいくつかの動機は被告を困らせた理由としては一応理解できますが、妻や義母を殺害する理由としては全く薄弱に思えます。それに、無理心中ですから、自殺を決意し、妻と義母をその道連れにするのですが、本当に自殺する気があったのかもよくわかりません。と言うのは、極寒の地でもない東大阪市で、酒飲んで屋外で寝入ったくらいで死ねると考えるだろうかという点です。
 これらの点が解明されなくても、捜査は終わっていますし、また、裁判で動機がきちんと解明されていなくても、判決は下せるわけです。被告が殺害していないと主張するなら、ドラマとかでも「犯行の動機がわからないではないか!」と弁護側が言ったりするのですが、この事件の場合は違うのです。動機が不明確であることは量刑に結びついて来るだけなのです。動機と実際の行動がうまく繋げられない時、責任能力があったのかが問題になります。この事件では精神鑑定で一部適応障害が見られるが、責任能力を有していたという結論になっています。この点は判決に絡むので後で触れることにします。
裁判員裁判に合わせてか、論告は箇条書きのフローチャート様式で 
 裁判の進め方で印象に残ったことがあります。特に裁判員裁判が導入されたことによる変化かな、と思われることです。一つは、検察側の論告の様式です。何と、箇条書きなのです。論告は論点がA3版1枚に整理されたものが配布され、例えば「争点A被告人の犯行動機」の項目があり、次に「被告人及び弁護人の主張」という項目がたてられ、箇条書きされ、途中「しかし」で段落が変わり、また箇条書きにされ、最後に→のマークが付けられ、その批判の結論を記述するという構成なのです。しかも→以下は色まで赤に変えているのです。これには驚きました。赤と黒だけではなく、青、緑、紫、それに網掛もある、文字通りカラフルなのです。大変わかりやすいのです。失礼な言い方ですが、論告などというものは、検事が長い文章をグダグダと読み上げる或は語りかける、そんなものだと思っていたのでこの変わりようは何なんだ、とびっくりしました。
 弁護側の弁論は従来通りのもので、上記のグダグダしたものでした。弁護士も「裁判員裁判に慣れていないのですが」と言われていましたが、そのことと関係するのかどうかは裁判官に尋ねるのを忘れました。検察のやり方は裁判員裁判時代に対応した率先垂範の行動なのかも知れません。判決文は論告のようなフローチャート式のものではありませんでしたが、一応箇条書き的にはなっていました。  
類似判例は、パソコンで検索、瞬時にピックアップ
 もう一つは、過去の判例を参考にする時の作業です。判例がデジタル処理されていて、一発検索ができることです。例えば、「殺人」「無理心中」で検索すれば、それに該当する判例がピックアップされ、その概要を見ることができます。また同時に、こういう場合の量刑の分布までグラフで出て来るのです。いくつかの角度から検索を繰り返すと、この事件に近い判例を見つけ、その内容を知ることができるのです。裁判というのは当たり前ですが「前例主義」ですから、こういうシステムが発達すると量刑を決める時は裁判官は要らなくなるのでは?と思うほどでした。裁判員の心情としては、類似の事件の場合どの程度の量刑だったのだろうか、とひとまず考えますから、コンピューターの発達には助けられることになります。もちろん、細かい部分の比較検討が必要なことは大前提としてですが。それに死刑とかの適用に至っては慎重な判断が必要なことは言わずもがなです。
 今回のケースは、実は類似ケースがほとんどありませんでした。家庭内無理心中というのは、よく報道されているように、介護疲れで重病の配偶者や親族を殺害し、自分も死ぬというケースが圧倒的なのです。ですから、量刑も情状酌量の余地ありで比較的軽微なのです。
量刑の決定へ、最終評議で詰める 
 結局、公判のスタートが2月9日、判決の言渡しが2月29日で、3週間かかったことになりますが、間隔が飛ぶ時は飛びますから裁判員としての仕事は8日間でした。ただ、被告人の最終陳述で結審してからは、その日の午後から連続で3日間評議を行いました。
 最初にも書いたように、この裁判では量刑が重要課題になりますから、評議もこの辺りから少し熱を帯びることになります。わからないことや不明確なことは残っているのですが、時間があれば解決するものでもないし、うまく質問すればわかるものでもないのですね。裁判ってそういうものなのだと痛感しました。
 評議で、動機とかの議論はしましたが、最終的には量刑をどうするかに話は絞られます。一気に決めるのではなく、取り敢えず、各自が量刑の意見を出し合いました。もちろん、その理由も付加してです。一つの犯行に付き、懲役は最大20年と決まっていることは知りませんでしたが、この事件では妻の殺害に義母の殺人未遂が加わります。死刑、無期懲役の意見は出ませんから、結局懲役何年かということになります。
 裁判官3人、裁判員6人、補充裁判員2人がそれぞれの意見を出すことになります。全員一致にはなりそうにないので、多数決で決めることになります。ただ、ここで初めて補充のメンバーは多数決の決定には関与できないことになります。もう詳細はすっかり忘れてしまったのですが、最高が25年、最低が15年だったかと思います。先に書いたように比較的類似と思われる判例は全員で幾つか検討しています。中には「前から思っていたんですが、判決は求刑から少し少なめになるのはおかしいと思うんですよ。ディスカウントショップじゃないんだから。だから、求刑通りにしたいと思っているんです」(年配男性)というような意見も出て、この人本気?と耳を疑いましたが、それはそれで仕方ないでしょう(評議の中で訂正されましたが)。
 ただ、全般的には、裁判員の皆さんは被告に対して凄く怒られるんです。罪もない妻やお母さんを殺害するなんて許し難い、という感情が溢れる印象です。ですから、どうしても厳罰的になります。少し被告の状況に理解を示すような発言があると、その裁判員に怒りが向いたりする場面もありました。私自身は前に書いたように動機がわからない、こんなことで人を殺すだろうかという気持ちが最後まで拭えなかったので、精神鑑定にあった「適応障害」に重きを置いて、懲役15年の意見を出しましたが、これは量刑としては最低でした。
 評議の大詰めの段階で、もう一度、最後にそれぞれが量刑を理由も含めて出します。1回目と変わった人もいますからその理由も話されました。補充裁判員も意見を出したかどうかは忘れてしまいました(この段階では出しても意味がないので多分出さなかったと思います)。意外と裁判長が長め、二人の陪席は短めだったのが印象に残っています。多数決の取り方が変わっているのも印象的でした。例えば懲役25年が1人、24年が1人、23年が1人、22年が2人、21年が1人、20年が3人、だったとします。単純な多数決なら20年に決定となりますが、そういう多数決ではありません。過半数を取ったものという趣旨からでしょう、この場合過半数は5なので、重い方から過半数になるまで人数を加えていきます。22年まで来て合計が過半数の5になりますから、これで決定になるというわけです。
上記は一例ですからこういう票数ではなかったのですが、こういうやり方で多数決を取り、20年で決まりました。私は補充だったのでカウントはされなかったのですが、私の意見は離れて短い量刑でしたから、上の方で決まってしまい、関係なかったことになります。
後は、判決文を作成することになりますが、原案が提示され、評議します。この段階では補充裁判員も意見を出して修正に参加できます。初めの方に書いたように、左陪席が素案を書いて、たくさん朱を入れられて、この合議の場に出て来るようです。これも詳細は忘れてしまったのですが、私も少し表現の修正を求めました。被告の心情とかについてだったと思いますが記憶が定かではありません。もうこの段階では修正や疑問の意見はほとんどありませんでした。そういうこともあって、判決言渡しは29日の午後3時に決まっていたのですが、その日の午前中の評議は行われませんでした。有罪か無罪かを争っているわけでもないので、言渡しは、淡々としたものでした。

 

 
▲審議を終え、あっさりと解散    
 
あっさりと裁判終了、事務手続きを終えて散会
終了した後は大阪地裁から感謝状のような文書と記念バッジを手渡され散会となりました。サービスで法廷で記念写真を撮りますよと言われ、皆さんどうされるのかなと思っていましたら、皆さんサッサと帰られるので、そういう感じなのか…と変に納得しました。私だけが裁判官3人と一緒に評議の部屋で記念写真を撮って終わりました。守秘義務とかの関係でしょうか、裁判員同士の会話はたいへん少なかった印象です。それぞれがどんな仕事をしている(していた)とかは、全く知らないままでした。帰りに挨拶する程度ですから、乗車駅に絡んで住まいとかは会話になったのですが、それくらいでした。終ったら打ち上げでも…とか考えたこともあったのですが、このメンバーではそんな雰囲気はありませんでした。
ただ、裁判官とは少しだけプライベートな話もしました。裁判長はたくさんの任地に行かれているようですが、少し前テレビで放映されていた離島の判事を描いた「ジャッジ」というドラマも話題になったのですが、そういうところへも行きましたねぇ、と言われていました。これは自慢なのかどうかわかりませんが、裁判員裁判の裁判長をする回数は地裁でトップクラスだとも言われていました。陪席の方は一人は女性なので既婚かどうかを聞くのもセクハラになりそうだし、余りプライベートなことは話しませんでした。だだ、皆さん転勤が多そうで、官舎に住まわれているようですが、家族持ちの場合大変だなぁとは思いました。
裁判絡みの話から、映画「12人の優しい日本人」を見たことありますか、と尋ねたら、「『12人の怒れる男たち』は見ましたが、それは知らないですね」という返事でした。「三谷幸喜が原作を書いていて、まだ裁判員裁判が話題にもなっていない頃に書いて、日本人らしい性格描写が満ち溢れていて、ほんとに面白いですよ」とお勧めしました。DVDを持ってますからお貸ししましょうかと言うと借りたいと言われ、お貸ししました。裁判長から右陪席、左陪席へ全員に回しました。皆さん、大変面白かったですという感想でした。
 友人と話していて話題になる一つは、日当の話でした。事前の「Q&A」や「裁判員制度ナビゲーション」でも、そのことは触れられています。ただ金額とかは明示されていなかったのですが、終了後、銀行振り込みされるのですが、その内訳が配布されて判りました。日当は食事代を含めて1万円でした。但し、これは全日の場合で、昼までとか、3時で終わりとかは時間計算で細かく計算されているようでした。交通費も何かの基準で決まっているようで、一日当たりの額は1桁の端数が出ていました。私は年金生活者ですが、働いていたらどうなるんでしょうね。いずれにしても、これで年金が減額されるわけありませんから、完全にプラスαでした。だから、必要経費を差し引いて、カンパしたりしました。
何はともあれ、いい体験にはなりました 
 裁判員裁判の制度そのものへの賛否、裁判員を体験したことによる後遺症、改善すべき事柄とかが、話題になっています。私が裁判員になった時でスタートしてから2年半でしたから、マスコミでも色々な特集等もありました。今、それを議論しようというのが本稿の目的ではありません。ただ、この事件がそれほど残虐なものでもなく、犯行の認否を争うのでもなく、量刑も死刑か否かというようなものではなかったので、公判や評議等は暗い雰囲気ではありませんでした。ですから、体験してみて嫌な思いをしたことはありませんでした。裁判長の指揮も、最初に書いたように、広く裁判員(補充)にも意見を求め、公平に評議が進められたと思われます。そういうことですから、事後のアンケートにも、裁判員をやってみて、「よかった」と書いたことは言うまでもありません。