思いつくまま印象記 旅体験あれこれ その38
    一度は行っておきたくなったネパール
  ヒマラヤ・トレッキング ルクラからのエベレスト街道
ガイド・ポーターさん付き
二人だけのパックツアー〈2016年11月29日〜12月7日〉
はじめに…ヒマラヤトレッキング挑戦は、年齢を考えると今がラストチャンスかも。 
 
2016年春に、三上の若い頃の同僚に刺激を受けて、ヒマラヤトレッキングのプランを考え始めました。それまではヒマラヤやエベレストというゾーンは私達には無縁な所だと思っていました。映画「エヴェレスト/神々の山嶺」を観ても、そういう方面に行くなんて考えもしませんでした。
 元々、トレッキングという言葉自体が、ヒマラヤ登攀の人々だけが来てくれるだけでは、観光が成り立たないネパールが、ヒマラヤを見ながら歩くことを指して作った言葉だと言います。8千m級の山に行くのではなく、それらを眺めながら歩く登山、そういうことなら、遠い世界のことではない。
 とは言え、個人旅行で出向くのは相当無謀、かと言ってパックツアーでトラピックスを使うなんてことは商品そのものが無さそうでした。こういう旅行
で有名なのは西遊旅行なのでネットで調べ始めました。すると、結構色々なメニューがありました。途中で先の元同僚とも情報交換が進んだのですが、もう一つの専門店的旅行社のアルパインツアーズなんかと見比べても、西遊旅行のプランの方が僕達にはピッタリでした。結局、9日間、キャセイパシフィック利用(香港経由)で、いわば毎日催行(どの日でもOKで最低人数などない)でした。もちろん、こういう地域ですから、ガイドとポーターが付きますが、そういう費用や全食事等をすべて含んで25万8千円(空港使用料等は別)でした。因みにもう一つの旅行社の場合はコースは全く同じで日数だけは12日間、ホテルも最高級になりますが、何と15万円も高くなります。日程的にあまり多くを取れないし、節約家の私達にとっては西遊旅行がぴったりだったことになります。具体的なサービスは以下の印象記でふれます。
 ベストシーズンは勿論乾季、具体的には11月から4月頃。年齢を考えると来年11月まで待てない!との思いで夏の頃から急速にプランニング開始、混み合う人気の11月より12月冒頭、本格的な厳冬期は避けられるという設定になりました。

@香港での待ち時間は長いけど、当日深夜着、着いたらホテルで寝るだけ〔@は1日目、以降同じ〕
A早朝、セスナ機でカトマンズからルクラへ飛んで、3時間程の足慣らし、空気慣らし

 今回もネパールのカトマンズで係員に会ってからスタートです。ネパールとの時差は3時間15分で、1日目が少し延びます。ネパールはビザが要りますが、空港で申請するアライバルビザOKでした。ただ、夜の11時なのに申請者は多く、手続きはスピーディでなく、小一時間かかってしまいました。空港の出口で西遊旅行のネパール支店の人が迎えに来てくれていて、結局この日の客は僕達だけなので、自家用車でホテルまで送ってくれました。夕食は機内食で済ませていますから、ホテルは寝るだけでした。ホテルが繁華街の奥にあるので、何だか騒がしい雰囲気でしたが、周辺にはATMがいくらもあり、クレジットカードで現地通貨ルピーを引き出しました(レートは1R=1円で計算簡単)。
 このホテルでガイドのラジュさんと合流、朝5時なので、朝食はランチボックスを持たせてくれて、国内線の待合室で頂きました。ラジュさんが暑い紅茶を自販機から持って来てくれるサービス付きでした。
 6時15分発が少し遅れ、セスナ機は飛び立ち、40分ほどでルクラに到着。座席は2列だけで、18人乗りでした。ラジュさんが「景色は左側がいいですヨ」と教えてくれ、山嶺が眺められました。機内で日の出を迎える時間帯でした。
▲カトマンズ空港到着 ▲翌朝5時にガイドのラジュさんと ▲カトマンズ空港国内線。ランチボックスで朝食済み
▲Tara Airでルクラへ ▲プロペラの向うに朝陽 ▲操縦席にサンライズの陽射し
▲白銀の山嶺が見えますが名前不明 ▲ルクラ空港滑走路からセスナ機離陸の瞬間 ▲ルクラはこういうお店が並ぶ
ルクラ(2840m)から200m程下って、今日のロッジ・パクディンへ。歩いたのは3時間程
 空港の横のレストランで熱いお茶を頂いて、ポーターさんのビームさんに対面し荷物をお願いしました。
 ルクラはそんなに大きな町ではなく、歩き始めたら直ぐに縦走路のゲートが現れます。高所順応の為もあり、ゆっくり進みますが、まだこの辺りは、平坦どころか下りも多いのでもったいない感じでした。この後続くことになるゾッキョ(ヤクと牛の間)やロバの隊列とすれ違う場面、色々なポーターさんとのすれ違いが始まりました。ここの物流の担い手はこれあるのみ!なのです。
 途中、レストランで休憩してホットドリンクをガイドさんが注文してくれます(西遊の費用に含まれる)。
 昨日はホテルに着いて寝たのが1時半頃、今朝起きたのが4時半頃ですから、あまり寝ていないので、3時間程で今日のロッジに着いて、昼食後ちょっと休憩と思ったら、ぐっすりと眠っていました。

 パクディンはいい位置にあるからなのか、僕達が泊まったロッジの中で一番混み合っていました。ただ造りはよくなく隣の音とか聞こえたりしました。もちろん山小屋ですから多くは期待できないのですが、その後のロッジが意外とよかったので、比較の問題です。昼食も夕食もそうなのですが、メニュー(勿論英語)があって、主に一品料理を選ぶ感じでした。メニュー例は後に書きます。必ず飲み物も付けてくれるので、ホントにお金を使うことはありませんでした(アルコール類は別でしょうが)。
▲ルクラの登山道の出発ゲート ▲ゾッキョの列が過ぎるのを待つ ▲若いポーターさん達(今は空身)
▲こういう平坦な道も ▲初めての吊橋 ▲ヌプラを背に登校する子ども達
▲初めてお茶したレストラン ▲ロッジ(サンライズ)の部屋。寝袋不要 ▲初めての夕食(焼ソバ、フライドポテト、目玉焼き)
B今回のルートのメイン、最難関?、ナムチェへの道へ
 昨日、最初の休憩の時に声をかけて来られた宮城県古川市(職員)の伊藤さんと偶然ですが色々な所でクロスすることになります。お名前等も最初から伺った訳ではなく、ボチボチと話していったことになります。アジアに3か月ほど来られていて、後半戦に入る前に余裕ができたので、バンコクからこちらに来られ、また戻って次のアジア旅へ、ということでした。そういう訳で今回は高山の装備とかも準備していないので「下見です」と言われていました。
 この日は、登りのみで時間的にも6時間、急坂もあってきつそうなスケジュールでした。更に、高度も3440mに至ります。途中、吊橋が3本ほどあり、最終のものは相当な高さで下を見ると目が眩むとはこういうことかと実感。最初はなだらか、前半は階段道、後半は急坂ではないものの結構きつく長い坂道でした。西矢は今まであまりキツイ高山病的症状は無かったのですが、ここでは相当息も乱れてバテ気味になりました。
 ただ、ナムチェのロッジは良い雰囲気で助かりました。サクラゲストハウスと言い、日本人の経営かと思いきや、日本人に来て欲しい思いからだそうでした。伊藤さんも目指したロッジが閉鎖されていて、ここにやって来られていました。日本人女性二人も泊まっていましたが、何と、4日かけて5500m級のベースキャンプまで行って、今戻るところだとか。日本の白馬で仕事をされているとのことでした。もちろん、ガイドもポーターも無しでした。結局私達を含め、お客はこの5人の日本人だけだったみたいです。
▲「サンライズ」を出発 ▲滝下を通る  ▲断崖の下を ▲国立公園で許可証チェック
▲昼食(モモ=餃子、焼ソバ) ▲急な階段始まる ▲旧の吊橋を見ながら、最後の超高い長い吊橋を渡る 
▲国立公園の出口 ▲ロッジの部屋。清潔で水廻りも良好 ▲サクラゲストハウスの食堂(奥に白馬の人)
C一気にシャンボチェへ、約2時間。ここが3800m、今回のコースの最高地点
 ナムチェからは、疲れ気味でも急坂を登るしかないのですが、気が楽なのは2時間頑張ればいいという日程でした。
 急坂なので、高度はドンドン稼ぎます。しかも、伊吹山みたいに出て来た村々が見えるのです。1時間程もしたら、今日の僕達の到達点、エヴェレスト・シェルパ・リゾートが縦走路から見えるので、嬉しかったですね。
 ここだけがロッジでなく、ホテルとなっているのですが、それほどの差は見られず、ほぼこれまでのロッジ並みでした。ただ、食事は今までのように、メニューがあってそこから選ぶのではなく決まっていて、それが日本食(風)なのです。これは体調がすぐれない時には嬉しい計らいでした。泊り客は私達だけだったので、フランス人だったらフランス料理なのか?確かめようがなかったですが。 
▲ナムチェからシャンボチェへ ▲ナムチェの村を見ながら ▲急坂をゆく
▲正面にホテルが見える ▲エベレスト・シェルパ・リゾート ▲寝室  ▲昼食は和式オムライス
40分ほど歩いて、ホテル・エヴェレスト・ビューへ
 10時頃にホテル着ですから、ゆったりして、昼食の後、40分もかからないというホテル・エベレスト・ビューまで出かけました。驚くほど平坦な歩き易い道でした。このホテルは日本人の設計で日本人経営のヒマラヤ観光が持っているので、造りもかなり本格的な感じでした。テラスから正面にエベレストやローチェ(世界4位の高さ)が見えるから、この名前があるのですが、残念ながらこの日は雲間から見えそうになるのですが、無理でした。テラスでコーヒーをポットで注文して待ったのですが右後のタムセルクは見えたものの、ダメでした。
 予報では明日は「晴れ」なので、期待をつなぐことにしました。展望は僕達のホテルと殆ど変わらないということですから。
 疲れもあって部屋でウトウトしていたら、ガイドのラジュさんが窓をたたくので、何かと思ったら、サンセットに照らされるエベレストが雲間に姿を見せたというのです。慌てて飛び出しました。写真を撮って大喜びでした。でも3分後にはまた雲が覆っていました。
▲ホテル・エベレスト・ビューの暖炉、喫茶室 ▲喫茶室を出て、正面にビューが広がるはず… ▲右後方にタムセルク
▲ホテル・エベレスト・ビューの出口 ▲午後5時頃エベレスト(右はローチェ)を背に ▲夕食には味噌汁、天ぷら、煮しめも
D快晴!エベレストの雄姿現る
 このホテルはモーニングコールの代りに、モーニングティーを部屋に持って来てくれます。もちろん、この日はエベレストの雄姿が楽しみで、薄暗い内に起きていました。
 ホントに雲ひとつない快晴でした。日の出は位置的に見えないのですが、それに照らされて輝き始める山々が徐々に広がって行きました。
 ホテルを出て少しビュー方面へ行くと景色が大きく変化するのですが、そこまで行きシャッターを何度か押しました。
▲ホテルの外直ぐ、朝陽さすエベレスト(一番左) ▲もう少し進んだ所から ▲ホテルの裏口。後の山はコンデリ
▲朝食にはお粥も ▲部屋の窓から ▲ホテルに貰った幸運祈る布をかけ、庭からエベレスト(三上の指の先)
▲ホテルを振り返りつつ下る ▲真下にナムチェ、シェルパ博物館(左) ▲急坂入口付近。大きなマニ車  
シェルパ博物館見学、ナムチェ・バザールを経てモンジョまで下る
 ナムチェまでの急坂は下りなので約1時間。急坂を終える辺りにシェルパ博物館があり、その文化、暮らし振りが展示されていました。シェルパはポーターの代名詞のように使われていましたが、実はシェルパ民族という固有名詞なのです。エベレスト登頂の黎明期にサポートしたのがこの民族だったので誤用されたようです。
 午後も曇る気配は無く快晴が持続しました。来た道をそのまま戻っているのですから、来る時バテ気味になった坂道を下ることになります。
 
▲シェルパ博物館入口。ポーターのビームさん ▲博物館内部 ▲民家の暮らし  
▲文字通り、ナムチェ・バザール ▲モンジョのロッジの部屋  ▲夕食のヤク・ステーキ(硬かった)
Eトレッキング最終日、一気にルクラまで実質7時間
 トレッキングの実質的な最終日は、モンジョから一気に空港のあるルクラまでコースタイムで6時間歩くことになります。来た時に200mほど下っているので逆に登らなくてはならないという心配はありましたが、まぁ大したことはありませんでした。この日も、ほぼ一日中快晴で、エベレストが見えるわけではありませんが、幾つかの白い峰が見えるいい縦走路でした。
 少しゆとりも出て来て、村人の店で花山椒を買い求めていたら「日本の方ですか?」と声をかけられました。年配の女性がお一人で来ておられ、5000m級のゴーキョまで行かれ戻られるところでした。失礼ですが…とお歳を尋ねたら、何と78歳!ビックリしました。隣に居られたガイドさんを指されて「ガイドさんに迷惑ばっかりかけてます」と言われていました。大学時代に山岳部だったのが中断していて、70歳から再開、この何年かここへ来ていて、来年も(ガイドさんを)予約しましたと言っておられました。
 昼食は来た時に初めて休憩したレストランで食べたのですが、来る時には気付かなかった好い展望のテラスでした。 
▲すれ違うポーターさんの荷物も半端じゃない ▲5000m級へ行かれていた女性とガイドさん  ▲何度も見えたタムセルクを背に  
   
▲昼食はピザを注文 ▲レストランからクスンカン
 ▲山の中腹にこのレストランが見える    ▲太陽光発電も所々に
無事ルクラに到着。空港の真横のロッジでゆっくり
 昼食のレストランがいい場所で陽当たりもよく珍しく1時間ばかりゆっくりしましたが、最終日の歩行距離は結構ありました。でも、コースタイムに1時間プラスくらいでルクラに到着。
 ロッジはルクラの空港の真横、地震の影響で幾つか建て替え現場を見ましたが、ここも新館の建設途中で、一部扉が無いという状態でしたが、設備は充実している印象でした。ここでまた伊藤さんに遭遇、色々話ができました(彼は元々バイクが趣味で、バイクで世界一周が夢だそうです)。
 
▲ホントに最後の最後、登り ▲出発ゲートに戻って来ました(左はビームさん) ▲新築中のロッジの部屋  
▲ルクラのロッジ食堂でお茶タイム ▲夕食はダルバート(ネパール風定食)  ▲食堂で伊藤さん(定年後2年?)と
F早朝のセスナ機でカトマンズへ。激しい喧噪の街を散策というか、すり抜けるというか…
 トレッカー達が一斉にカトマンズへ向かいますから、早朝のルクラの空港は人いっぱいで、飛行機会社も5、6社あるので、来ればドンドン乗ってドンドン飛び立つ、そんな感じでした。
 空港からタクシーで、初日に泊まったホテルへ向かいます。紅茶が美味しいと聞いていたので、その専門店を教えて貰うため、大急ぎで街に出ました。その専門店の主人が、ラジュさんより日本語が上手いくらいで、買い物するのも便利でした。色々教えて貰って有り難かったラジュさんとはここでお別れで、個人旅行になります。
 天候不順等に備えた予備日は使わずに済み、明日の夜までカトマンズで過ごす時間があります。カトマンズを訪れるなら是非行っておきたいナビン・スクールには明日迎えに来て貰うことになったので、今日はホテル近くの旧市街散策ルートを歩きました。

 ホテルがあるのはタメル地区なのでそこからダルバール(王宮)広場への往復のポピュラーな道。ただ、凄まじい喧噪の中を進むには相当なエネルギーが要り、山旅をして来た身にはキツイものがありました。乾季だから凄い砂煙が舞い上がり、マスク必要というのも頷けます。
▲朝陽が射し始めたルクラ空港。カトマンズからの便を待つ ▲セスナ機からカトマンズ  
 
▲日本語達者な主人とガイドさん(紅茶専門店) ▲7階で展望もよかったホテル・アーツ
 ▲カテシンブー・ストゥーパ  
▲地震倒壊、修復中のダルバール広場 ▲近くの寺院とダルバール広場
 ▲インドラ・チョークの寺院
▲バイク、リクシャ、車が入り乱れ、歩くのも大変
 ▲路地の奥、高い建物がホテル・アーツ
Gナビン・スクール訪問、午後はネパール最古の仏教寺院へ。深夜便で帰途に
 三上は定年退職の直前3年間、日教組教研全国集会の分科会「情報化社会と教育/文化活動」の司会をやらせて頂きました。その時の共同研究者(助言者)に兵庫県の鈴木三千翁先生が居られ、懇意にさせていただきました。隣県なのにお会いすることはあまり無く、まとめて近況をお知らせすると丁寧なお返事を頂く、そういうお付き合いでした。その鈴木先生の活動のひとつがカトマンズにあるナビンスクール(現地では播磨教育サポートセンター)の支援でした。支援に至った経緯は割愛しますが、鈴木先生が1年ほど前に亡くなられ、後継者の方が今も活動を継続されています。
 突然のネパール訪問でしたが、時間が取れれば激励をと思った次第です。後継の方に住所や連絡先を教えて頂いて、何とか伺う算段がつきました。僕達のホテルからナビンスクールまでは車で20分くらいですが、迎えに来て貰えて助かりました。渋滞がひどく、マッサージ士をしているナビンさんの知り合いの若者が遅れる旨の連絡に来てくれたりしました。
 ナビンさんのご自宅の奥に、教室棟が作られていて、先生お二人と子ども達がお花を持って出迎えてくれ、お話を伺ったり教室を見学させて頂きました。元々、学校に行くのにお金がかかり、それを払えない子供で勉強したい子どもの為に「読み・書き・そろばん」だけでも、と無償で始められた私塾のようなものでした。でも、今は公立の学校の親の負担も大変少なくなって、余程の貧困でない限り学校へ行くようになっているそうです。生徒数も一時は50人以上来ていたのですが、今は13人に減っているそうで、それ自体はいいことになります。この学校の役割は終わりかなと思っておられ、新しい方向を検討中のようでした(例えば障がいを持った子供達のサポートとか)。
 昼食もご自宅で頂き、その後子ども達の勉強風景を見させて貰ったりして、わずかですがカンパをお渡しして来ました。
▲久し振りのホテルでの朝食バイキング ▲ナビンスクールの応接室  ▲ナビンスクールのノート 飾ってあった鈴木先生の遺影▲      
 
▲勉強の時間割 ▲教室棟の前で記念写真(左がナビンさん)
 ▲教室棟の全景  
▲ナビンさん宅での昼食 ▲教室で勉強中の子供達にお別れ  ▲ナビンさん宅  
最終の観光地はネパール最古の仏教寺院スワヤンブナート、展望台から市内一望
 昼食後、勉強中の子ども達にも挨拶、市の中心部へ向かう用事(日本語のツアーガイドもされているのでその準備)のあるナビンさんの車でスワヤンブナートまで送って貰いました。
 他にもいくつかの見所があるのでしょうが、23時にカトマンズ空港を発つので、逆算すると夕方にはホテルに戻る必要があり、この寺院は市内を一望でき、ここからならホテルのあるタメル地区方面に一直線に歩いて30分程という好いロケーションでした。
 ネパールの人がたくさん参詣されていて、学生たちも遠足か何かで来ているようで、展望台は混み合っていました。
 ここから出る時は大変急な階段を下って行き、そのまま真直ぐに歩くとホテルに近付いていました。この道も砂埃が立つので、もやっている印象でした。

 ホテルのあるタメル地区は、ツーリストが集まる地区と『地球の歩き方』にも書かれていて、この日もホテル近くでお店を覗いていたら、ばったりルクラへの道でお会いした78歳の女性クライマーにお会いしてお名前も聞くことができました(東京にお住いの小林さん)。前日、宮城の伊藤さんにもこの辺でお会いしたので、凄い偶然に驚きました。
 7時半頃にラジュさんが迎えに来てくれて、空港へ向かい、後は全て予定通りに進み、香港経由で翌日の昼頃には関空に到着していました。

▲スワヤンブナート展望台から、カトマンズ市内遠望
▲巨大ストゥーパ ▲ドルジェ(金剛杵) ▲ストゥーパの奥から。絵を売る店とかも
▲このきつい階段を降りて来た ▲ホテルに戻り、最後のパッキング ▲カトマンズ空港からキャセイドラゴンに搭乗

 最後に、これまでに飛ばしてきた事柄やこの旅全体を通して感じたことを書いておきます。
ガイドさん、ポーターさんのこと
 トレッキングガイド・ラジュさんは結婚2年目でお子さんはおられないようですが、カトマンズに住んでいて、お連れ合いは食材店をやっておられるそうです。日本語は普通に話され、気さくな感じで気持ちよく過ごせました。あまり踏み入った話にはならず、必要なことにはチャンと対応する、そんな印象でした。出身の村には両親が居られて、時々帰っているようでした。フランス語の勉強もしたようですが、日本語の方に戻ったみたいで、弟さんが名古屋に住んで、トヨタ関連で働いているようでした。先般亡くなられた田部井さんはネパールでも有名ですが、彼は田部井さんと5千m級のところで仕事をさせて貰ったと言っていました。
 ポーターのビームさんは、若く見えたのですが結婚されていて、お子さんも二人おられるそうです。家はルクラから3日ほど歩いて帰るらしいですが、次の仕事が直ぐには無いようなので、ルクラで別れ、自宅へ帰って行かれたみたいです(彼は母語以外に話せませんから、ラジュさんからの話)。
ネパールの産業、観光業の状態は
 ネパールの産業は何と言っても観光、そして農業(自給自足的?)。後は海外での仕事、つまり出稼ぎでしょうか、これも結構な人数が出かけているようです。スイス程には無理として、観光業が進むといいのですが、政情不安、インフラ整備とか難しい問題があるようですね。
 海外からの観光客はヨーロッパ系の人が多い印象でしたし、ガイドさんもそう言われていました。全体的に観光客は思うようには増えていないようで萎縮気味(ネパールでの政治的混乱、国際的なテロ)、日本からのトレッキング客も減ってはいるのですが少し回復してきたかな、ということでした。
 日本人のパックツアーには殆んど会いませんでした。カトマンズまでは少しおられたので多分ポカラルートのようですね。ポカラは飛行機で着いた所からそう遠くない所に展望の良い所があり、リゾート地的だとも聞きました。ナビンさんは「以前にはあった日本からの直行便が無くなっているのが痛い」と言われていました。ルクラルートはエベレストを見ないと値打が無く、その為には3日は登らないとダメなのでポピュラーにはなりにくいのでしょうね。日本人は12月の旅行は避けたがるので少ないということはありそうです。ラジュさん、ナビンさんの為にも、このルートがそれほど難しくないことを宣伝してあげなくては…と思いました。
3800m級で、気候、天候はこの季節、全く問題無し
 時期、高度、コースによって違ってくるでしょうから、一概には言えませんが、僕達のような初〜中級者向け?3800m級でこの時期なら、気候・天候は全く問題無しでした。寒さは、帰って来た高槻の方がきついくらいでした。朝夕が寒いだけで、日中は登っていれば汗もかき、トレーナーさえ脱ぎたくなるくらいでした。
 ただ、山小屋なので各部屋には暖房がありません。そうなると夜や早朝の寒さは厳しくなります。それは高槻に居ても暖房が無ければきついのと同じです。二段ベッドで大部屋みたいなことを覚悟していたのですが、どこも個室二人部屋でした。しかも、寝袋持参が条件だったのに、一度も使わずでした。ベッドに布団や毛布があり、寒いようだったら…とラジュさんがもう一枚持って来てくれたりしました。シャンボチェの3800mのホテルでは湯たんぽまで出してくれました。
 トレッキング中の6日間で快晴が4日間、2日間も曇天というほどではなく、山が見えないなぁという程度でした。もちろん雨や雪は全く気配もありませんでした。
山のきつさはそこそこですが、高山病的な症状が絡むとしんどくなる
 4000mを超えると色々しんどい場面に遭遇するようですが、今回のルートなら、道は整備されているし、キレットや浮石がある訳でもなく、大半は森林限界を超えるわけでもないのでハイマツ帯を行くということもありません。日本のちょっとした山ならあるような急峻な登りもありません。ただ、上にも書いたようにナムチェに至る道は、登りの連続で平坦な道を挟むことが無いので苦しくなります。
 その際に高山病的な症状が出て来るとペースも落ちるし、しんどさが増すことになります。私達は二人ともペルーのクスコ、チチカカ湖で高山病になっているので、ヤバいと思い、西遊旅行が薦めるダイアモックスを処方してくれる医者(高槻で1軒だけ)を尋ねて、服用していました。だから、もう大丈夫とタカをくくっていた面があるのかも知れませんが、西矢にそういう症状が出ることになりました(九寨溝では三上の方が厳しかったのですが)。高山病は体力の有無とかにあまり関係せず、体質的に罹り易い・難いがあるみたいですね。
ロッジ、ホテルの宿泊代のこと
 今回、私達はパックツアー的な旅だったので、ロッジとかの料金、食事、飲み物もコミコミだったので、よく判らなかったのですが、伊藤さんが個人旅行しておられたので聞いてみると、驚くようなことがありました。ロッジの宿泊料は、1ドルとか2ドル程度だそうです。そのかわりというか、必ずそのロッジで食事をすることが条件なのです(夕食と朝食になりますが)。そう言えば、シャンボチェのホテルにそういうことが英語で書かれていたような気がします。食事とか飲み物の値段はメニューに書いてありましたが、色々な単品は600〜800ルピー程度です。飲み物も300ルピー程度。日本の感覚で言えば、町の値段と変わらないから、こんな山の値段としては安いと思うところですが、ネパールの物価としては高いんでしょうね。それを必ず食べて貰ったら、採算が取れるということのようでした。
 今回のルートの最高地点のホテル・エベレスト・ビューの宿泊料は相当高そう…と思い、ガイドさんに聞いたら3万円くらいと言うので、日本に帰ってからネットで調べたら、個人の申し込みは受けていないと書いてあり、従って宿泊料不明。パックツアーのみOKなのですが、要するにガイド付きで受けるということなのです。場所が場所ですから、ホテルとしては色々なことに対応する態勢は取れませんよということのようで、それはそれで納得しました。物価は安いと思ったのは、このホテルで本格コーヒーをポットで注文して、これは私達が支払ったのですが、たったの800ルピーほどだったからです(ガイドさんと3人で飲んで)。日本で言えば上高地の帝国ホテルで飲むようなもんですからねぇ…
ロッジのサービスは有料が基本と考えた方がいいですネ
 水はペットボトルのものを買うことにしました(インドと同じで、水で下痢になったりしたら大変)。湯沸かしがある訳ではないので、お湯は貰うしかないのですが、よく考えたら、普通のホテルとは訳が違います。メニューカードにも「Hot Water」と書いてあり、水も買うんですからお湯も買うんですね。まぁ1杯50ルピーくらいのことでしたが。
 デジカメのバッテリーの充電も、有料の所もありました。大きな厨房のような所で、幾つもコンセントのあるタップに差し込んで、フルになったら200ルピーと言われたのですが、これはさすがに高いなぁと思いました。バッテリーの残量にも依りますからねぇ。その後、部屋にコンセントがある所が続いたので、ホッとしましたが。ただ、3800mのホテルでは部屋にコンセントがあって充電したのですが上手くいきませんでした。多分高度の関係か、4000mを超えると色々な面で不都合が出て来るんでしょうね。ミルフォードのことを思えば(バッテリーの予備持参)随分マシでしたが。
登山用品の店は激安という話
 大学のワンゲルの先輩から、カトマンズで登山用品の店を物色するといいと聞いていました。世界から多くのクライマーやトレッカーがやって来て、帰りに要らなくなった登山用品をプレゼントしていったりするのを、中古で売っているから「良いものが安い」という訳です。トレッキングの往路では、カトマンズでの時間は皆無、ルクラにはそういうお店は無かったので、そのまま帰るところでした。
 ところが復路ではカトマンズで余裕があったので、今更特に要るものがあったわけではないのですが、チョッと覗いてみたら、確かに安いのです。そこで、持ってきたレインスーツの形・色が気に入らないので、買ってもいいか…と思い始め、ゴアテックスの気に入ったものを買うことにしました。もちろん決めるまで大変でした。何せ、新品風にしてあるので、付いている商品タグと本体が違うなんてことはザラ、サイズも実際に来てみないとあてにならない、メーカーも怪しい…とユックリ、ジックリ見分が必要でした。日本での値段の5分の1くらいでゲットしたことになります。






Copyright © 2016MIKAMI HIROSHI