思いつくまま印象記 旅体験あれこれ その12
 同じ国でこの気候の違い!エジプト以上の猛烈暑と北海道並みの涼しさ
 

真夏のモロッコ・サハラ砂漠・14日間 

 はじめに…再び真夏の北アフリカ訪問 
 2003年は三上が3年の担任であったり、SARS騒動もあり、海外の旅はお休みで、2004年は、エディンバラを中心とするブリテンの旅。今年は闘病生活を終えた従姉夫妻とスイスの旅の予定でしたが、この夫妻の知人のお嬢さんがロンドンで結婚式、ということで来年回しになりました。
 西矢の母は今年78歳。希望地を聞くと何と「モロッコ&サハラ砂漠」!僕達も、イベリア半島西部(ポルトガル)からアフリカに渡っても良いなと思っていたのですが、砂漠に行くとすれば、2週間ならモロッコだけということになりました。夏にこの地域に出かけるとすれば、エジプトと同じでゆったりした計画を立てないとバテます。そしてそれは正解でした。
 さて、モロッコへの直行便はありません。後でも触れますがモロッコは元フランスの保護国、だからエールフランスが強いのですが、いずれにしてもパリ経由やロンドン経由とかになり、航空券も割高。そこで、使った航空会社は「エミレーツ航空」。友人からも、そんな航空会社あったん?と聞かれたのですが、アラブ首長国連邦の会社。原義は「首長国」なのでした。
 乗り継ぎはドバイ。アフリカに出かける際のハブ空港で、新しく大きな空港でした。ただ、9時間+9時間の旅は結構きつかったですが、ヨーロッパ経由で行っても12時間+5時間くらいで、大差ないことになります。
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年のエジプトもそうですが、冬がベストシーズン。ただ2週間取れるのはこの時期しかないので、またしても、真夏のサハラ!激烈体験となりました。ただ、エジプトと違うのは、海に近くなると標題にも書いた「北海道並み」の風景と気候になるところでした。
 尚、いつもと違い、今回は写真説明を下に入れるようにしました。


月・日 行               動 宿泊ホテル
7月20日                                    関空23:15⇒ 機中泊
7月21日   05:10ドバイ空港07:35⇒⇒12:10カサブランカ空港  アストリッドH
7月22日  電車で3時間半→マラケシュ シンディスッドH
7月23日  マラケシュ市内見学 シンディスッドH
7月24日  バスで4時間→ワルザザート   パルムレH
7月25日  バスで3時間→ティネリール→グランタクシーで2時間半→エルフード タフィラレットH
7月26日  4駆車で1時間半→メルズーガ  ジャル・エル・ダヌーブH
7月27日  ご来光ツアー4駆車で1時間半→エルフード 夜行バスでフェズへ  夜行バス
7月28日  フェズ市内見学    バトハH
7月29日  フェズ市内見学  バトハH
7月30日  列車で1時間→メクネス    アクアスH
7月31日  チャータ車でムーレイ・イドリス、ヴォリビリス  アクアスH
8月1日  電車で3時間半→カサブランカ。ハッサンUモスク   ギネマーH
8月2日                       カサブランカ空港14:20  機中泊
8月3日 ⇒01:50ドバイ空港02:50 ⇒17:20関西空港    30分遅れ
レコンキスタ(キリスト教圏の再支配)の届かなかった地域 [カイロの国鉄駅構内で礼拝するムスリム。あちこちで見かける光景]
 モロッコと言えば、映画『カサブランカ』で有名、サッカーのワールドカップで日本が敗北した、そんな印象でしょうか。
  映画『カサブランカ』はフランスの支配下にあるモロッコにナチの支配が及び、そこに繰り広げられる反ナチの活動家を巡るラブロマンスを描いたもので、モロッコそのものとは何の関係もありません。この映画が第2次大戦中に作られているという点では驚きますが、所詮、フランスだってここを占領していたのですから、身勝手な話です。
 2002年のエジプトと対照的に、北アフリカの東の端と西の端になります。エジプトほど世界史に翻弄された訳ではありませんが、イベリア半島のジブラルタル海峡を挟んで対岸ですから、それまでイスラム圏にあったこの半島にキリスト教勢力が反攻をするレコンキスタは、ここまでは及ばなかったことになります。
 アフリカの東隣のアラビア半島で7世紀に起こったムハンマドのイスラム教の勢力がその権力闘争の果てに北アフリカを西進し、一旦は南ヨーロッパにも地歩を築いたことになります。
 というわけで、エジプトと同様、ここはまじりけのないイスラム圏です。スペインに近接しているモロッコの北端タンジェでは少しはあったキリスト教会は皆無、あるのはモスクのみ。ただ、原理主義的な地域をよく知らないのですが、モロッコはトルコ程ではないにせよ、その影響力はそう大きくないように感じました。服装も例のジュラバを着ている人は居ますが、目だけ出しているというようなことはなく、スカーフをかぶっている程度の人が大半でした。モスクからはアザーン(礼拝への呼びかけ)は聞こえてきましたが、耳をつんざくほどのものではありません。
 北アフリカの先住民にあたるベルベル人(ムーア人)が居住していますが、彼らとてムスリムですから、宗教的対立は無いようです。モロッコ人がヨーロッパと行き来し、その中で原理主義に感化される例はあるようですが、今のところその勢力が台頭している状況でもありません。多分西アジアと違い、脆弱ではあれ、工業的基礎ができているからなのでしょう。
 もう一つモロッコが知られているのは、ヨーロッパに近いからでしょうか、いくつかの有名な映画のロケ地になっています。『アラビアのロレンス』はその典型で、この地域と何の関係もないのに、ワルザザートから車で1時間ほどの所のアイト・ベン・ハッドゥで一部ロケされています。【写真:右上】
フランス人がいっぱい。英語は通じない
 公用語はアラビア語なのですが、1912年から戦後暫く迄、フランスの保護国になっていましたから、フランス語を話す人は大勢居ますし、表示の大半はフランス語。ローマ文字があって期待しても、英語ではありません。だからでしょう、欧米の観光客と思しき団体は殆どがフランス人。以前のヴェトナムのサイトにも書きましたが、ヨーロッパの元列強の皆さんはチャンと反省していますか?と聞きたい気分でした。ヴェトナムでは合州国のお陰で免罪されていても、モロッコではそうでもないのでしょうが、どうなんでしょう。イギリス人がネイティブ語で旅行できる所はあまたあるでしょう。スペインネイティブで旅行できる国も中南米に。この2国以外ではフランスくらいのものでしょうね。もちろん、モロッコ以外にはカナダの一部くらいでしょうが。元後発帝国主義国の日本(独・伊)なんて自国語で旅行できるところなんてありませんからね。
 自虐史観ではありませんが、反省史観は必要ですよ英仏の皆さん!、と何度も思います。
 トルコもそうでしたが、ヨーロッパからすればこういう国々は地理的にホントに近い。日本で言えば台湾・香港の距離でしょう。だから、手軽なリゾート気分で家族連れも多いように思いました。
 タクシーやチャータした車の運転手は、殆どフランス語で話し掛けてくるのですが、英語で話して、と言うと、ほぼ、寡黙になります。余計なことを話す人も居ますから、それ対策にはなるのですが、情報交換には不便。
 そして、気候の関係もあるのでしょうか、日本人にはめったに会わず。パックツアーはもちろん個人旅行者にも、砂漠の町エルフードで初めて会った程度でした。「仕事聞かれて困るんですけど、たこ焼屋って英語でどういう言うんしょう?」なんて言う元気な千葉のカップルがスペインを回って来ていました。
暑さは、結局、南部はエジプト並み、北西部は爽快 [エルフードへ向かうタクシーから砂嵐]
 この時期に出かけるのですから、色々調べたのですが、予想外の酷暑でした。『地球の歩き方』(以下、歩き方)には、「マラケシュは東京より涼しい」と読み取れる気温のグラフが載っていたのですが、何かの間違いと思える暑さでした。
 それにしても、北から南下するか、南から北上するかの判断は、何度か当地を訪れている友人の木村薫チャン(在合州国)のアドバイスがホントに有効でした。当初、砂漠の町エルフードとフェズはバスで10時間ほどかかるので、ここを先にクリアーしておくのがいいと判断して南下の計画を立てていたのですが、「初めに暑いマラケシュを訪ねるのがベター」という助言があり、北上のプランに変更しました。
 これは大正解でした。マラケシュとフェズは、日本の奈良と京都みたいな古都ですが、 全然気候が違うのです。マラケシュは猛烈に暑く、フェズは何度も書いているように北海道並みなのです。後にマラケシュを持っていっていたら、最後にバテバテとなっていたに違いありません。何度薫ちゃんに感謝してもし過ぎることはない、と痛感。
 そして、更に予想を越えていたのが、砂漠近くの町ティネリール、エルフードの気候。湿度が低ければ涼しく感じるというのは、ある程度の気温の場合です。「湿度は低く、気温は高い」というのは、濡れタオルでも鼻に当てないと息も苦しいという状況です。
 その上、 ティネリールからエルフードへの道では、幸か不幸か、砂嵐に遭遇。グランタクシー(大型のベンツ)で走って、初めは北海道以下の交通量で、アスファルトの道を快調に飛ばしていたのですが、途中から、前も見えない砂嵐。【写真:右上】当たり前ですが、アスファルト道の両端は砂漠ですから、風が強くなれば、それが舞い上がる寸法です。しかも、エアコンなんてありませんから、窓を閉めれば灼熱地獄。開ければ砂が舞い込む。閉めてもオンボロ車のため砂塵が舞い込む。苦難の小1時間でした。
物価は安い。今回はホテルも僕達にしては相当豪華に
 さて、いつもの物価の話ですが、総じて低い。レートは1DH(ディラハム)=12.6円ですが、[ワルザザートのホテルのプール] コーラのボトルが店で買うと4DH、タクシーが短い距離なら10DH(130円)、大体こんな感じですから、相当安いです。
 ホテルも、エジプトの時と同じ感じなのですが、それ以上にグレードを上げました。物価だけの問題ではなく、とにかく先に書いた暑さですからエアコン無しは考えられない。そして、今回は帰って寝るだけのホテルではない、午後の休憩やシャワーにも存分に使う。こういう理由から中級以上にする必要がありました。
 この選択は、大正解でした。午後に観光スポットから帰り、簡単な昼食をとったり、シャワーを浴び、午睡も適当に、という時に、ホテルの快適さは消耗を回復するのに役立ちました。初日の2つ星から3つ星、4つ星とグレードを上げていったことになり、フェズ辺りからまた少し下げたことになります。
 これもエジプトの時と同じで、プールにも入れるホテルが4箇所【写真:上】。
  そこでお値段ですが、僕達の今回のホテルセレクションベスト1は砂漠に直近のメルズーガのホテル、ジャル・エル・ダヌーブでしたが、1泊1人3800円弱(朝食込み)。ツイン+エキストラベッドの料金を3で割るので相対的に安くなるという利点はあるとしても、しかし僕たちの旅の中の最豪華版でこれですから安い。最低は初日のカサブランカで、ここはエアコン無しでしたが1人、1600円ほど。他は概ね2000円台前半で済みました。【下の写真:主なホテルリスト】
▲マラケシュ/シンディ・スッド(2100円) ▲ワルザザート/パルムレ(2300円) ▲メルズーガ/ジャル・エル・ダヌーブ(3800円)


 [エルフードのホテルで食べた豪華昼食] 食事にかかる費用も、僕達は豪華レストランで食事したりしませんから、現地の人が口にするものがメイン、それも、口に合わなければどうしようもありませんが、何とかいけましたから、安上がりで済んでいます。
 ただ、ヴェトナムとかと違うのは、メニューは多彩ではないことです。モロッコ料理の典型と言えば、タジン・クスクス・ハリラくらいです【下のメニュー一覧参照】。モロキアンサラダはトマトや玉ねぎのサイコロ切りしたもので、食べ易いのでよく食べました。でも味覚としては単調です。パン類は料理を頼んだら付いて来るのですが、これはフランスの保護国だった所為か、美味しかったです。
 唯一、豪華な食事をしたのは、砂漠の町エルフードで、ラクダツアーから帰り、夜行バスまでの時間待ちでホテルで休ませて貰ったお礼に、そのホテルのレストランで昼食をとった時くらいのものです。【写真:右上】
 砂漠方面では無理なのですが、メクネスに来て、店頭に魚の下準備したものを出していて、それをフライにしてくれる店があり、西矢母娘は鰯を注文し大満足でした。ハンバーグ風のものやウィンナーも取って、一人200円程度という凄い値段の日もありました。
▲タジン ▲クスクス ▲ハリラ(これは屋台で食べました)
鉄道車両はコンパートメント型 砂漠を駆けるトヨタランクル
マラケシュから山越えのバス フェズ行きの夜行バス
エジプトとの決定的な相違は、交通手段の未発達
 色々な点で、エジプトと対比したくなるのですが、かなり似通った雰囲気があります。もちろん、遺跡の類いでは、精々7世紀か らイスラム圏の発達に伴う建造物があるモロッコと紀元前何千年というエジプトでは桁が違います。だから、酷暑の中でも訪れる日本人があるエジプトと殆どやって来ないモロッコの違いも頷けます。
 ただ、旅をする身にとって決定的相違は、交通手段です。エジプトの場合、ナイル川中心ですから、それに沿って鉄道が走っています。アスワンから先は、例えばアブシンベルに行くには飛行機かバスしかありません。でもそこは行かなければ済む所です。ところが、モロッコの場合、カサブランカを中にして、東にフェズ、西にマラケシュがヤジロウベーのように延びているだけなのです。しかも、これらの都市は総てアトラス山脈の海側にあり、山脈を越えないとサハラ砂漠に近付けません。因みに、鉄道は結構正確で、1等車もそれほど高くなく、ヨーロッパのコンパートメント型で快適でした(3時間半乗ったカサブランカからマラケシュまで1380円)。
 で、この間の交通手段はバスかタクシーなどの車になります。このバスの本数が考えられないほど少なく、国営のCTMなんか、1日1本も珍しいことではないのです。うまく時間が合わなければ、タクシーになるのですが、この価格が交渉によりますから、疲れます。砂嵐の中を走った2時間半は5000円ほどでしたが、この交渉にかなり時間がかかりました。今思えば、少しくらい高くてもよかったのですが、現地ではボラれまいとする気持ちが勝つんですね。
 砂漠に行くのに4輪駆動車が必要なことは解るのですが、それ以外の所は何に乗るか、迷います。
 ただ、今回行ってから解ったことですが、エルフードからフェズへ、1日1便だけですが直行便ができていて助かりました。それも夜行バスだったので時間のロスが少なくて済みました。夜8時半に出て、フェズに早朝5時に着く便で、車内は快適とは言い難かったのですが(客が喧嘩して運転手さんが仲裁に入るとか、お経のようなものを朗誦するおじさんが居たり)、猛暑の中での長距離に比べればウンとマシでした(しかも料金はたったの1640円)。
ゆったりプランのお陰か、体調は、ほぼ順調
 水アタリなどでの体調不良は、エジプトでの経験を生かし、もちろん、現地の生水は飲まず、イギリスのサイトに書いた湯沸しをフル活用し、快適に過ごせました。 サラダも危険だと言われていましたが、食事のバランスを考えると、食べずには居られない。でも、大丈夫でした。
 世界でワースト3に入ると書いたカイロの交通事情でしたが、モロッコでは車の性能は全くガタガタとは言え、警笛も少なく、精神衛生上問題は無しでした。
 ただ、バス路線がしっかりしていないためでしょうか、現地の人もタクシーをよく使います。だから大事な時に限ってタクシーがつかまらない、ということはありました。それ以上に困るのは、カサブランカ・マラケシュではメーターで走らないことです。だから乗る時に先ず、値段の交渉になります。感覚的にはメーターで走るのの倍くらいは取っている感じです。カサブランカなんか空港から着いて暑いし、もともと高い料金の数倍を吹っかける輩も居ます。思わず「なんでそんな無茶な料金を言うんや!」と叫んでしまいました。どうせ日本語も英語も通じないから一緒なのですが雰囲気は伝わったかな?
 そして、これはエジプトと同じ、ゴミ問題。それぞれの民族性の違いがありますから目くじら立てることはないでしょうが、ゴミのポイ捨ては普通のこと。で、掃除しないかと言うとそうではなく、夜中とかにするんですね。その車の音がうるさくて寝難かったなんてこともありました。そして、最も困るのが誰も掃除をする人が居ない所。典型は列車の線路脇。都会の線路脇はゴミが多かった印象です。
古都と呼ばれる町は、基本的構造はどれも同じ
 さて以下は、時系列に沿って報告します。
カサブランカのメディナ入口の時計搭 市役所前噴水
市役所も夜はライトアップ 無料野外コンサート
 ただ、世界遺産や史跡が残る「 古都」は、どれも基本的な作りは同じなのです。―メディナと呼ばれる旧市街、その中にスー クと呼ばれる市場があり、モスクがあり、更にはマドラサと呼ばれる学校(もちろん、神学校)がある。モスクは非ムスリム(イスラム教徒でない人)は立入禁止。博物館は、元マドラサとかの建物を利用。―こんな具合です。
 ですから、旅の後半になると、どこのマドラサだったのか、こんがらがることしばしばでした。そういう意味でも観光資源としては他国に比べ見劣りするのでしょうね。
 カサブランカは初めに書いた映画で有名なだけで、そう見所があるわけでもなく、今書いた基本構造のものはあるのですが、フェズのような迷宮都市でもなく、半端な感じです。
 ただ、この町は国連広場、ムハンマド5世広場、アラブ連盟公園と、公園が多いのが特徴でしょうか。たくさんの人で賑わい、夜には無料野外コンサートも開かれていて、老若男女、こぞって参加する光景にも遭遇しました。美空ひばり並みの?国民的人気の歌手(熟年女性)が歌っていました。
どうしてこんなに人が多いの?マラケシュの町の不思議
 翌朝には、鉄道でマラケシュに向かいましたが、初めに書いたように急に暑くなり、カサではエアコン無しでも我慢できたのですが、ここでは無理。そして観光客がそれほど多いわけでもないのに、人が溢れている感じでした。特に夜のジャル・エル・フナ広場の賑わいぶりは驚きです。
 初日は時間もなかったので、前記の薫ちゃんお薦めの「ファンタジア」を予約。フォルクローレショーと騎馬ショーを、食べたり飲
フォルクローレ・ショー
騎馬ショー
んだりしながら楽しむというもの。こんな所でたくさんの料理が出ても困るのでドリンク付きに
サアード朝の墳墓群外観
バイア宮殿の中庭
したのですが、一人250DH(3150円)。僕らの旅にしては割高なのですが、車で1時間以上もかかる会場への送迎付きですから、マア、許容範囲内。
 翌日、元気を出して、猛暑の中、午前中に、サアード朝の墳墓群、バイア宮殿、工芸博物館、午後にマラケシュ博物館、ベン・ユーセフ・マドラサ等を見学。
 例のアラベスク模様の頭柱部や壁、門。タイルや漆喰などに刻まれています。
 ベン・ユーセフ・マドラサはマラケシュのスークを突ききった奥の方に位置するのですが、マドラサとしては最も保存状態が良く、他のマドラサは2階部分が修理中とかで、見られなかったのですが、ここは見学可能でした。その部分には、元学校ですから、学生の部屋が配され、その狭さは相当なもので、日本風に言えば2畳くらいでしょうか。窓のない部屋も含めて130もの部屋があるとか。

 スークを抜けて戻って来ればそこがジャル・エル・フナ広場なのですが、夜になると何処からともなく人が集まり、溢れ返ります。カサの野外コンサートでもそうでしたが、普段喫茶店等には全く女性の姿はありませんが、こういう所には年齢は問わず女性が姿を見せます。こんな風にして世の中の雰囲気は変わっていくのかも知れません。ついでに言うと、何かの本にここの夜店では入歯まで売っているとあったのですが、ホントに売ってました!
 
ベン・ユーセフ・マドラサ 学生の部屋 マラケシュのスーク
フナ広場の夜店 フナ広場の屋台 クトゥビアの夜景
 
アトラス山脈越えのバスでワルザザードへ
 朝6時半、購入済みのチケットを持ってバスに乗り込む。実はこんな
[アトラス山越えのバス。途中休憩] 
アトラス越えのバスも長めの休憩
に過酷な山越えになるとは予想していなかったのですが、相当なもので、観光客なんてゼロに等しいのに、嘔吐する人が二桁にも。オート・アトラスを越えるのですが、オートは「高い」の意。山は4千メートル級を越え、当然、道はヘアピンカーブ。それをスピードを緩めずに突っ走るわけです。僕達3人はそれぞれの対処法で何とか我慢し切りました。
 この過酷さに耐えたのだから、ご褒美に今日のホテルはもちろん中の上のホテルに決まり、で、『歩き方』のリストで直行。このホテルがプール付きの最初でした。
 最初に書いたアイト・ベン・ハッドゥに近い町なのですが、初めのフロントマンは自分でタクシーを交渉しなさい、という対応だったのですが、替わったフロントは車をチャーターしたら500DHとかの話に。安くはない話なのですが、世界遺産でもあり、映画のロケ地にもなったことだし、日が沈み始めた頃に出かけました。
 判断を遅らせた怪我の功名で、炎天下でなく涼しくなってから訪れることができました。この小山が世界遺産なの?とは思いましたが、マア、趣きのある風景ではありました。ここへの道すがらには、廃墟となったカスバも散見されました。
[アイト・ベン・ハッドゥの正面]  [アトラス山越えのバス。途中休憩] 
前の涸れ川からアイト・ベン・ハッドゥ 頂上付近から俯瞰
いよいよ、砂漠に一番近い町エルフードへ
 まだしばらくバス・車の旅が続くのですが、昨日のような過酷な道・運転はもうなさそうでひと安心でした。このワルザザートから4駆車で砂漠に直行するツアーもあったようですが(フェズでお会いした千葉から来ている平山さんの場合)、僕達は、とにかく東進を続けました。先ずはティネリールへ。乗客は地元の人が大半なのですが、ポツポツと欧米からの観光客も乗り始めていました。いくつかの町で休憩するのですが、それがどこの町かよくわからない内に、予定の3時間より少し早めにティネリールに到着した模様で、慌ててバスを降りました。
[アトラス山越えのバス。途中休憩] 
最初はこんな感じで快調だったのですが…
 この町は単に途中の町なのですが、ここで、「エルフードを経由するだけで砂漠の先端のメルズーガまで行くツアーに参加しないか」というツアー会社の誘いを受けます。少し前向きに検討したのですが、値段が高すぎるのと「こんなにいいツアーですよ」と日本人の女性が書いた日記風のものを見せられるのが胡散臭く、断りました。
 しかし、この町からエルフードに向かうバスは3時にしか出ないので、グランタクシーを物色。ただ、できるだけたくさんの人間を詰め込みたい「手配師」(このおじさんは英語が通じる)は3人だけを好まず、時間を食ったのですが、「400DH出すなら今直ぐ出発」で合意。この時は予想していなかった過酷な移動にとっては三人乗りは正解でした。
 交通手段の項で書いたように、初めはエアコン無しでも、窓も開け、砂漠近しの景観を見ながら快調に飛ばしたのですが、やがて砂嵐に遭遇。エルフードに着く頃には、服の襞に砂が積もっていました。
サハラ砂漠にどう到達するか、結構悩む
 この町から更に車で1時間半ほど。向こうにはホテルもあり、そこで砂漠の夕陽・朝陽を見ることになるのですが、どんなホテルか、配置状況はどうかも想像できず、困惑。『歩き方』も今年は新版が出ていないので情報が不足。
 砂まみれの身体を洗い流すことが先決なので、ここは何と4つ星ホテルに即決。ゆっくりしてからフロントの人と相談。サハラ砂漠の西端・シェビ砂丘にメルズーガがあるのですが、ここまでの移動手段は結局4輪駆動車以外にないことが判明するまでにも時間がかかりました。ミニバスは不確か、タクシーでは走れない、向うのホテルが送迎してくれると言っても、普通のホテルと違うから無料とはいかない。
[エルフードの土産屋さん] 
エルフードの広場近くの土産屋さん
 そこで、フロントの人と「4駆を往復で1000DH」で交渉成立。泊まり先はこのホテルの持っている宿舎は安かったのですが、折角のサハラ砂漠だから少し豪華にと考え、『歩き方』の資料で電話してもらったら情報に変化あり。結局「イタリア人が最近オープンしたいいホテルがある」という話で、後は価格交渉。最終的にはそのホテルのフロントと電話で交渉。メシ抜きでいいからディスカウント!一人300DHで決着。
 マア、落ち着き先が決まれば後は4駆が迎えに来る翌日の昼過ぎまではのんびり。でもエルフードの町は見るほどのものは何も無し。その上、高温低湿度で、街を散策するのも苦しい。この街でしか売っていないデザートローズや化石を物色して過ごす。インターネットカフェで息子大亮に送信したり(日本語バージョンにしてくれたのは店員さん)、そこで自分のWebサイトを開き店員さんに見せびらかしたりしました。聞いては居ましたが、キーボードの配列が微妙に違い、少し困惑もしました。
トヨタのランドクルーザーでブラックデザートから赤いサハラへ
 翌日の2時、運転手さんが迎えに来てくれて、エルフードの町を出発。毎日ではないようですが、この時間くらいになると街に砂煙が立ち始めます。こういう街で暮らすのは大変だろうなと実感。
 最初アスファルトだった道も途切れ、ブラックデザートと呼ばれる堅めの土の上をランクルは走り続けます。もちろん道はありません。タイヤの痕跡はありますが、必ずしもその上を走るのでもなく、好き勝手に方向を定めているようですがドライバーは十分知っているのでしょう。
 途中ホテルらしきものが現れるのですが、そこからでもまた数十分、やっとホテルが5、6軒あるゾーンに来てその最先端が予約したジャル・エル・ダヌーブ。意味は「南の家」。
ランクルからのブラックデザート ホテルは見えたが、まだ道の途中 贅沢に、砂漠でプール
 ホテルリストにも書きましたが、今回の旅の最高級グレードのホテル。きらびやかさをグッと抑えた渋い造りで、壁から天井まで民芸調で貫かれたいいホテルでした。こんな遠くまで来てるのに、エアコン付き。そして砂嵐の所為で底に砂が溜まってはいましたがプールもあり。スタッフも若いが良質でした。
 プールに入って落ち着いてから、直ぐそこが砂漠ですから、夕陽を見に出かけました。砂は適度な堅さで足を取られることもなく走り回りました。
 エルフードのホテルの人が夕食をホテルに頼んでいないことを知っていましたから「パンとかチャンと持って行きなさいよ」とアドバイスしてくれた通り、周りには店なんて全くありません。ここで、イギリスで愛用した「サトウのご飯」登場。味噌汁を交え、和洋折衷の夕食で結構でした。
 写真は撮れませんでしたが、満天の星を仰いだことは言うまでもありません。
メルズーガのホテル群に沈む夕陽 井戸の向うに夕陽 夕陽の中の風紋
今回の旅のメインイベント ご来光・駱駝ツアー
 メルズーガのホテルのスタッフが、駱駝は要るかと聞きますから、「1頭だけ、1時間だけ」をオーダー。そしたら、何と真っ暗な中4時に起こされました。サンライズなんて此処なら何処でも見られると思っていたのですが、さすがにチャンとビューポイントがあって、そこまで駱駝のおじさんは連れて行ってくれるのでした。
 そのビューポイントは丘のようになっていて、そこへ着く頃には空が白み始める寸法です。そこからは「山また山」でなく、「砂丘また砂丘」が連綿と続く光景が見て取れます。近くを見ると、別の丘には別のホテルから出てきた駱駝と観光客が日の出を待っていました。
 ここまで来ると、砂の色も違うのです。昨日夕陽を見に出た時に採った砂は鳥取砂丘並みで白っぽく、ここは赤いのです。しっかり採取、持ち帰りました。
 一緒について来た青年が日本語と英語を交えながらガイドしてくれて、この足跡はスカラベ(日本語ではフンコロガシと教えてくれました)、この穴はネズミの穴、この足跡はフォックス、という具合です。朝陽を受けた砂漠に映るシルエットも指し示してくれました。彼は別れ際にデザートローズや化石を取り出して砂上販売?妙さんがチップ代わりにと1点だけ買いました。
 結局、駱駝ツアーは妙さんだけ乗せて(写真撮影用に西矢も三上も一度だけ乗りましたが)、延べ2時間になりましたが追加料金は請求されませんでした。
[砂漠のご来光]  [砂漠のシルエット] 
サハラ砂漠のご来光 サハラのシルエット
駱駝サハラを行く 「ラクダはらくだ」 ワンチャンス 後にも駱駝
エルフードで9時間待ち、夜行バスでフェズへ
 ゆっくり朝食をとり(よくわからないのですが、朝食込みでした)、再び、ランクルでエルフードへ一目散に帰り、前々泊のホテルに
[エルフードのホテルのロビーで] 
エルフードのホテルのロビ―で絵葉書
着いたらまだ10時。フェズへの夜行バスは8時半発ですから早めにバス待ちをするとしても9時間以上あります。ホテルのロビーはエアコンはなくともマア涼しい方ですから、ここで絵葉書を書いたり本を読んだりして過ごしたことは、前に書きました。砂まじりの炎天下、とても街に出る気分にはなりませんでした。
 夜行バスの様子は前記の通りで、エアコンが効いてリクライニングでぐっすり眠れるなどという日本の夜行バスのようにはいきませんでしたが、予定より1時間も早くフェズに到着。早速ホテルへタクシーで向いましたが、メーターでホッとしました。この時点でもまだ6時ですからチェックインはできませんでしたが、隣の喫茶店はオープンしていて、少し寒いくらいでしたからホットコーヒーで暖をとった(笑)次第です。
 ホテルのロケーションは抜群で、有名なブー・ジュルード門の近く。スークに迷宮都市の路地が続きます。チェックイン前に訪れましたが、2本あるメインストリートを離れなければ迷うことはないようです。まる2日フェズに居ましたから、この路地を4往復ほどすることになります。ここで香辛料を買い求めたり、モロッコ独特の灰皿や笛も。
 夕方には有名な皮なめし・染色の地域を訪れますが、これは判り難く、お巡りさんに聞いたら、人を指差され、またその人が少年に連れていって貰え、というわけで後を追うことになります。彼が連れて行ってくれたのがとあるファクトリーの屋上。心得ていてここがこの地区を見下ろせるベストビューポイントでした。ファクトリーでは買い物しませんでしたから、チップをこの少年に弾みました。
フェズのスークで香辛料を物色 フェズのスークは馬・ロバが活躍 皮なめし染色職人のスーク
フェズ2日目は、展望台からスタート
マリーン朝の墓地からフェズメディナ全景 アッタリーン・マドラサ
 フェズのホテルで見かけた平山さんが数少ない日本人観光客でした(千葉で中高の教員。妻は音楽家)。朝食の際に情報交換。彼らお薦めのビューポイントがマリーン朝の墓地。彼らは歩いて登ったようですが、僕達はタクシーに頼りました。
 今は廃墟になっていますが、小高い丘の上で、フェズの街が手にとるように眺められる絶好の位置でした。
 ここからメディナへ降りて行き、アッタリーン・マドラサを目指しますが、さすが迷宮都市、さっさとは行けない路地で、ここでもショートガイドの青年が付き、少しのチップです。
 フェズも日中はマラケシュほどではないにせよ人の山で、エアコンの効いたホテルの方がゆっくりできます。ここもプール付きですから、休憩して夕方ホテルの隣のバトハ博物館ヘ行こうとしたのですが、午後はクローズとか(翌朝に延ばしたのに、結局国民の祝日で閉館)。スークと反対側にあるブー・ジュルード庭園へ。水不足で噴水にも水はなく、干からびた感じで残念でした。
 1日目はクスクス等を食べたのですが、もう喧騒のレストラン街には行きたくない、ということで、街のサンドイッチ屋さんで肉入りや野菜入りを買い込んでホテルで食べることにしました。
最後の訪問都市は静かなメクネス
 一番最初のプランにはなかったのですが、砂漠方面で1日は浮くことがわかり、メクネスへ。フェズから鉄道で1時間。
▲マンスール門 ▲ムーレイ・イスマイル廟の入口

 車窓風景も農地が広がり、気温の点でも、北海道を思い出させる地域です。そして期待通り静かな町でした。ここで1日半ありましたから、半日はメディナ訪問。もう1日はヴォリビリス遺跡と決めました。
 メディナはマンスール門、特にムーレイ・イスマイル廟が素晴らしい建築でした。
 翌日は車で40分程のところにあるムーレイ・イドリスを訪れることにしました。路線バスがあるようなのですが情報も不確かなので、思い切って車をチャーターしてもらいました。自家用車で来てくれて300DH。少し涼しいとは言え、夏場に来ないバスを待つのもきついものですから、よかったです。この町は、モロッコ初のイスラム王朝のあった所。非ムスリムには閉ざされてきた歴史があるため聖者の町と呼ばれる古都。二つの丘だけの町なのですが、壁の色が今までの肌色でなく、白く、ドアの塗りも青、緑なので、空も蒼いから、ギリシャの島に来たような錯覚に陥ります。
▲もう一つの丘からムーレイ・イドリスの町 ▲ムーレイ・イドリスの街並
▲ヴォリビリス遺跡全景 ▲ヴォリビリスのモザイクの床
 大きなモスクがあり、そこで覗いていたら、「写真だけなら、OKだよ」という感じのサジェッションをしてくれるおじさんがいて、何となく着いて行ったら、ベストビューポイントを色々教えてくれて、これはただでは済まないとは思ったのですが、何と、最後にお礼を渡したら、オフィシャルガイドはもっと高いとせがまれ、困惑。丁度この日は日曜日で銀行が開いていないこともあって、ホントにキャッシュがなかったので、払いたくても払えない状況でした。でも、頼んでもいないんだけどな…
 そこから車で10分ほどのヴォリビリス遺跡は、古代ローマ帝国の属領であった名残なのですが、よくもマア、イスラム文化圏にこんなもんが残ったもんだ、と感心しました。だって、人物が鮮明に描かれたモザイクが残っているんですから、普通なら、偶像崇拝禁止で破壊されるのに…と思いました。辺鄙な場所で土にでも埋もれていたのでしょうか。陽射しをさえぎるものがなかったのですが、それほど苦にはなりませんでした。
カサブランカで見残したものは、殆ど無かったのですが
▲ハッサン2世モスクの遠望
 最終日の宿泊はカサにしても、メクネスにしてもよかったのですが、メクネスからは鉄道で3時間半かかりますから、空港への交通事情を考えると少し不安があり、やはりもう一度カサに戻ることにしました。やっと月曜日で両替もできました。ただ日本円はどこでも替えられるはずが(『歩き方』)、民衆銀行くらい。昼休みがあるというのも間違いで、その分日本と同じくらいの時間に閉まります。民衆銀行がなく、マグレブ銀行(日本銀行のようなもの)に入ったのが間違いのもと。システムが変で、両替するのに1時間余。案内係が二人も居るのに、英語が全く駄目。番号札を渡されたのですが、フランス語で呼ばれてもナー。ただ、異例のことで、7000円という半端な両替にも応じてくれました。
  2時の見学最終時刻に間に合うようにハッサン2世モスクに駆けつけました。とにかく今どき8年もかけて作っただけのことはあり、巨大ではあるのですが、完成したのが12年前では興味も湧かず、建物のごく近くまで入れたので、そこまでにしました(しかも見学料がこの国にしては破格の100DH)。海に突き出すように建っているので、海水浴をしている子ども達を眺め、海風に当たるだけで帰って来ました。浮いた見学料でタベルナ(ギリシャでレストランの意味)で少しだけリッチな夕食にしました。少し不安もありましたが、きっちりDHは使い切りました。
  最終日は12時ごろに空港に着けばいいので、ゆっくりホテルを出て今日も快晴のカサブランカを後にしました。こんな体験は初めてでしたが、エミレーツ航空の搭乗手続きは待ち人ゼロで、再び2フライト。面白いもので、日本では見向きもしないFantaを酷暑の中で飲んだり、帰りの機内では「ミニカップうどん」を大変美味しく感じたものでした。



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