和名と生物名の表記に関して:

 今回の深海生物ファイルを見た人のなかには、表記されている生物の名前を見て、おやっ?、と思う人がいるかもしれません。例えば本によってはカッパクラゲという呼び名が使われている動物に対して、ソルミススと表記しています(pp62/pp140~141)。また新江ノ島水族館などで上映されているハイビジョン映像では名前がでてくる動物なのに、この本では”クロカムリクラゲの仲間”としか書いていないものもあります(pp55)。

 また、幾つかの別の書籍ではミズヒキイカという名前で掲載されている生物には何の名前も与えていません(pp68/pp196~197)。

 これはなぜなのか、蛇足ながらちょっと説明しましょう。

 

 カッパクラゲに関して:

 カッパクラゲという呼び名はソルミスス属のクラゲに対して使われている日本語の呼び名です。つまりいわゆる和名なわけです。和名というのは図鑑などで使われる生物の通称名であって世間一般に流布した呼び名です。当然、学名ではありません。

 学名はラテン語で表記されますし、科学の世界で使われる万国共通の表記の仕方です。同じ生物を異なる複数の学名で呼ばないように厳しい規約もあります。

 一方、和名は日本語ですし、当然、科学の世界では使われません。日常生活で使われる呼び名です。通称名なんですから当然ですね。もちろん万国共通の呼び名ではありませんし、規約もありません(ただし暗黙の了解というものはあるようです)。

 ではなぜカッパクラゲという和名を使わなかったのか?。じつはカッパクラゲという名前で呼ばれる生物には、どうも複数の異なる種類が含まれているようです。言ってみればコヨーテとジャッカル、ディンゴとドール、オオカミ、さらにダックスフントまでを一括して”イヌ”と呼ぶような状態になっているわけですね。

 そんなことになってしまった原因はソルミスス属のクラゲの分類に混乱があるからなのですが、近い将来、ソルミススの分類作業が終わって混乱した分類体系が整理されるでしょう。そして新たな学名がつけられることになります。

 そうなったらそれぞれの種類に新しい和名がつけられことになるでしょう。ようするに、○○クラゲとか□□カッパとか、そういう呼び名を使う日がいずれくるってわけです。そうしたことから今回はソルミスス属全体に対応するカッパクラゲという名前を使うことは避けました。

 ・・・ちなみに別にここまでする必要はないと言われればそうなのですが、まあその他、諸般もろもろの事情がありましてね。ともあれ、おおまかな理由は以上に述べた通りです。

 

 一部で使われている和名を使わなかったことについて:

 事例その1:クロカムリクラゲの仲間の例

 学名と違って和名には規約がありません。ようするにルールがないわけです。ただ、結局のところ和名というものは、

 :専門家がつくり上げている社会に受け入れられているか

 :研究者のみならず一般の人も手にしやすい媒体で発表されたか

 :この和名はこの生物につけられた名前ですというのが具体的に分かるようになっているか

そういう条件をクリアしているのが望ましいようです。というか幾人かの人に聞いてみた限りでは、そういう感じかな・・という意見を述べた人もいた、ということなのですが、まあ考えてみれば当然ですね。皆が知らないうちに僕はこんな名前をつけたよ、でも名前をつけた生物が具体的にどんな姿をしているのかは教えてあげない、それではそもそも名前が普及するわけがないし、使うこともできないでしょう。

 そういうわけで、研究者が和名をつけていて、なおかつ詳しい特徴を今回の本の中で述べられるもの(あるいはすでに他の書籍で述べられているもの)など、そういう条件があてはまりそうなものにだけ和名を使うことにしました。逆にいうとpp55のクラゲに対してクロカムリクラゲの仲間と表記したのは、それは現時点ではこの条件がちょっとみたされそうにないなあ・・と思ったからなのです。いずれ適切な媒体によってこの生物の和名が浸透していくことになるでしょう。

 また、和名が最近つけられた生物については研究者がこのような名前で呼んでいる、そういうことが分かるようにしました。北村は研究者ではありませんし、不特定多数の個人の集合でもありません。和名にはルールはない、といえばそれまでなのですが、直感的にいって北村は和名をつけたり提案するような立場にはありません。また、北村という人が和名のない生物に名前をつけた、と受け取られても困ります。pp60とpp140でそれぞれ

 リンズィー博士はこのクラゲにアカチョウチンクラゲという呼び名を与えている。

 リンズィー博士はこのクラゲにキライクラゲという名前を与えている。

と書いたのはそのためです。

 

 事例その2:アンノウン・スクイッドに関して

 pp68とpp196~197 で取り上げたアンノウン・スクイッド。この奇怪なイカには一部の書籍でミズヒキイカという呼び名が提案されています。北村もそれは知ってはいたのですが、今回、この名前を使うのは避けました。

 理由はまずこのイカが正式に記載されていないことです。標本が採取できていないのでこのイカには学名がありません。もちろん、学名がないからといって和名をつけてはいけないというわけではありません。当たり前ですけど学名がつけられる前から和名があった動植物なんていくらでもいます。タヌキとかムジナとかがそうですね。学名というものができるはるか前からこういう呼び名は存在したのです。

 ただ、現在において、しかも新種であって、研究が進行中である生物に対して学名がつくより前に和名をつけちゃうというのはちょっとどうかと・・・・。もちろん和名には正式なルールがないのですからそんな制限はありません。ですが北村もそうなんですが意外と多くの人がこうしたことに対して違和感を感じるらしい。

 そして理由の第2点。じつはこのイカ、すでに記載され学名がつけられたイカ(Magnapinna 属)の親である可能性が指摘されています。だからこそ、このイカはマグナピニッドと呼ばれているわけです。

 逆にいうとそのマグナピンナ属のイカに和名がつけられる可能性が当然のことながらありまして・・・。そうすると場合によっては親と子供で和名が違ってしまう可能性があるわけですね。

 もちろん子供もミズヒキイカと呼べばいいのかもしれませんが、そうなると正式に記載されたイカに対して、親かもしれないが実際にはまだそうと決まったわけではないイカの和名をつけることになってしまう。両者は確かに同じ属ではあるとは思うのですが、さすがに種まで同じかは分かりません。ですから例えばの話、幻のニホンオオカミの子供だと思えたのでコヨーテの子供にニホンオオカミという和名をつけちゃいました、というような混乱が起きてしまったりするかもしれない。そんな心配が今回、頭をよぎりました。

 ルールがないとはいいつつ、混乱してしまったら名前をつける意味がなくなってしまうのはまったくの事実。名前というのは意思疎通を円滑に行うためのものです。そんなこんなで北村の取越し苦労かもしれませんが、深海生物ファイルではミズヒキイカという名前を使わず、英語圏の研究者がしばしば使っている、アンノウン、アンノウン・スクイッド、マグナピニッド、などの呼び名を紹介するにとどめました。

 

 おまけ:

 科学の話では黙っていた人も名前の話となると突然身を乗り出して話に加わることがままあります。まあ名前とか名前のルールというのは科学というよりは法律問題の範疇なので、自分でも参加できると思うのかもしれません。ようするに他の分野の会話や議論よりも敷居が低いんですね。あるいは敷居が低いと思われているだけなのかもしれません。ただ、法律の世界では陪審員制度のように素人をプロと並べて作業することがあるように、実際に敷居が低いのかもしれません(おかしな話で他の分野ではそんなことはまずしない。電車の運転を素人にさせるかね?しないよなあ。法曹界とはまことに奇々怪々)。

 しかしいくら敷居が低いとはいっても、結局のところ、名前というのは意思疎通のためにあります。あくまでも便宜的。敷居が低くても議論しやくても、たとえ規約がないのだといっても、しょせん使いかってが悪ければ意味がありません。

 そもそも、皆が暗黙のルールをもって動くというのは、こうすれば便宜的で都合がよくて望ましい、という認識の仕方を人間が共有しているからなのでしょう。逆にいえばだからこそ今回の本では便宜的で都合がよくて望ましい範疇内で名前を使うことにしました。

 そういうわけで、

 :近々、分類体系が変更されそうなもの

 :それ相応の人がこれからレポートを提出しそうなもの

 :名前をつけると整理どころか反対に混乱をもたらしそうなもの

これらについては和名の使用を控えました。

 

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