魔法遣いの臨終(中)


 ピョートルが目を閉じて息を付いた。
 窓の外の闇は一変して、どぎつい赤の光が踊りながら部屋の中へ差している。
「おお、燃えとる燃えとる。ボーボー燃えとるわ」
「なんちゅう派手な登場じゃ」
「ピョートルに比べればマシではないか?」
 散らばった小物や落下した破片をこまめに片付けながら老人達はひそひそと噂した。
 不意に外で無遠慮な大声が響く。
「西の魔法使いピョートル!」
 ピョートルが不思議な表情で笑う。
「東の魔法使いエウドキアが来てやったぞ!出て来い!」
 それはハスキーな女の声だった。老人達は、げんなりした顔で首を振る。
「……どうする?」
「ほっておけ」
 しばらく沈黙が落ちて、ピョートルは肩を震わせた。どうやら笑いをこらえているらしい。無視された東の魔法使いが、寒風吹き荒ぶ中真面目な顔で仁王立ちしている様を想像しているのだろう。
 かなり時間が経った後、解体屋の仕業かと思えるくらい凄じい足音が部屋に近付いて来た。
 全員が扉の方を注目するのと同時に、ドアは恐ろしい力で外側からもぎ取られ、消失した。その衝撃で年代物の壷が倒れて割れる。
「どうして誰も出迎えん!」
 怒鳴りながら入って来た女は幻の様に美しかった。
 ピョートルを白の美の究極とするなら、こちらは黒の美の究極である。
 水に晒されて揺らめいているような豊かな黒の長髪、象牙色の膚。生物的な美しさを損なわず、器物的な美しさが調和していた。
 『西の悪い魔法使い』と共に有名な『東の悪い魔法使い』エウドキア。彼女の場合、醸し出す雰囲気がピョートルよりカルトであった為、勘違いした者が生贄や魂と引き換えに願いをかなえてくれと彼女の館を訪れては酷い目に遭って逃げ帰っていた。
 エウドキアもピョートルと同じく、この世に生を受けてから五、六百年。全身の整形に情熱を燃やしていた。(一説によると二人の美を求める趣味は、どちらかがどちらかに張り合って始まったのだろうという事である)
 エウドキアはゆっくりと部屋の中を見回した後、寝台の上で背を起こしているピョートルに目をつけた。眼光鋭く、つかつかと歩み寄る。
「オマエが死にかけているという噂を聞いたが?」
 ピョートルはじっとエウドキアの黒い眼を見た。エウドキアも負けずに睨み返す。しかし色彩の無い真珠色の瞳から感情を読むのは難しく、臨終の魔法使いが何を考えているのか彼女には分からなかった。
「噂は正しい。『悪い魔法使い』はこの世で御前だけになってしまうな。エウドキア」
 不意にエウドキアの、細いがオラウータン並の力を持った腕がピョートルの襟首を捕らえた。
「表へ出ろ!ピョートル。死ぬなら決着をつけて死ね」
 触れるもの全てを冷たく見据えた純白の瞳が、今は伏せられている。死に瀕しているピョートルにはエウドキアの手を振り払う程の力も残っていないらしい。
 抵抗出来ぬ病人を寝床から引きずり出そうとしたエウドキアの腕を誰かが押えた。
 その恐れを知らぬ不埓者を蹴り飛ばそうとして、相手が子供である事に気付き彼女は動きを止める。
「何だ、お前は」
「どうして皆さんはピョートル様の苦しみを増すような事ばかりされるのですか!」
 隣の部屋から転がる様に走って来たピーターは臨終の魔法使いを庇って立ちはだかる。アンバランスなくらい大きな緑の瞳が小刻みに震えていた。
「最後の弟子か、ピョートル。オマエは生意気なタイプの子供が好きだっただろう。宗旨変えか?」
 まだ何か言い掛けようとする少年を無視してエウドキアは問いかける。
「行く所が無いというので面倒を見ていた子だ。弟子ではない」
「そうか。では無関係な仔ザルは引っ込んでいろ。怪我をする」
 黒く彩られたエウドキアの長い爪がピーターの額をつついた。身を竦ませながらも少年は動こうとはしない。
「どきません。ピョートル様には御恩があります」
「あー……素直に退いた方がいいと思うがのう、ピーター君」
「そうじゃそうじゃ。この二人の喧嘩に付き合っておったら本当に死んでしまうぞ」
 老人達は呑気に観戦を決め込んでいた。彼等はもう慣れっこになってしまっているのである。
 西の悪い魔法使いと東の悪い魔法使いは昔から大変に仲が悪かった。
 エウドキアはピョートルが普通人と馴れ合い、せっかくの才能を下らない事に浪費しているのが許せなかったし、ピョートルはピョートルでエウドキアが魔法使いとしてのプライドに凝り固まり、世の中に対して斜に構えた姿勢しか示さない事に対して嫌悪を抱いていた。
 気に食わないと思い始めるともう我慢出来ない短気な二人である。長い睫毛も、憂いを含んだ瞳も、少し酷薄そうな唇も全てが憎たらしい、この程度の顔が自分と並んで世界美形双璧とされているなど信じられなかった。物価が高いのも郵便ポストが赤いのも皆あいつのせいだという思いが昂じて暴力沙汰に発展するまでにそう長くはかからなかった。
 東がピョートルの弟子を誘拐すればピョートルは東の館を破壊する。腹いせに東がピョートルの井戸に毒を投げ込めばピョートルは相手を豚に変化させる呪いをかけるといった塩梅である。そして大抵はストレートなドツキ合いへとそれは進展する。たまたま運悪く闘技場とされてしまった国にとっては『どっかヨソでやれ!』と絶叫したくなるくらいの不幸であった。屋根から屋根へ魔法使いは軽々と飛び回り、その度爆炎が舞って火の粉が散る。日が昇っても沈んでも、登っても沈んでも二人は戦い続け、魔法が唱えられなくなると腕力勝負へと持ち越される。
 ほとんどが引き分けという結果に終わるのだが、以前に一度ピョートルが疲労困憊して先に倒れてしまった事がある。その時エウドキアは戦利品として白い魔法使いを連れ去ってしまった。決死の覚悟で彼の友人達が救出に駆付けると傷だらけのピョートルが人格を持たぬ奴隷として彼女の家の執事を務めていた。助け出されたピョートルはしばらく何をされても言われても『はい、御主人様』としか答えなかったので散々友人達に遊ばれた後意識を取り戻した。そのピョートルの怒りは凄じく、天は鳴り地は裂け木々が薙ぎ倒されイナゴが大発生した。一騎打ちの末に捉えたエウドキアの両脚を切断し、樽に閉じ込めて海に蹴り落そうしたピョートルは『少々やり過ぎじゃ』という友人達の公平な意見に思い止まる。彼等の発案で魔女の黒髪をバリカンで刈って丸ハゲにすることで一件落着した。
「思えば何度こいつらの喧嘩で命を落としかけたか分からん。個人的にはどこかに隠れていたかったが、ウチの国でドンパチを始められたら、わしが軍隊を指揮して出ていくしかないからのう」
 将軍が溜息をついて言った。
 勿論軍隊が出動した所で恐れ入る魔法使い達ではない。無駄な犠牲者が増えただけだった。
「わしは、あの時遺書を書いて家を出たんじゃ」
「儂は友達を殺したりはしない。ちゃんと説得に応じただろう?」
「全身六十針も縫う大怪我で死線を彷徨ったがな。おかげで二階級特進してしもうた」
「御前が突然飛び出して来るからだ。詫びに足を長くしてやったぞ」
「……シークレット・ブーツ将軍とあだ名を付けられた男の悔しさがお前に分かるか?体の整形なぞ悪趣味で不道徳じゃ」
「将──」
「人の趣味を云々する前に鏡を見て出直せ。醜い顔は公害だ」
 ピョートルの言葉をひったくってエウドキアが言い放つ。なにしろピョートルと趣味を同じくするため今の発言は自分への誹謗とも取れるのである。
「何故凡人共にはこの高尚な趣味が理解出来んのか。この眼を見ろ!この黒を表現するだけで片目で十六年かかったぞ!」
「……まるで誰かじゃなぁ」
 老人達はお手上げだというように笑う。
「もういい!物の価値のわからん奴とは話したくない。それより聞け!ピョートル。また首筋を2センチ細くするのに成功したぞ」
 良く出来たスイカを自慢するようにエウドキアは無造作に頭を突き出した。
「ほう。今度は何を削った?」
 たちまちピョートルの眼が輝く。肩口から上の整形魔法は特に難しく、長年彼も頭を悩ませてきたのである。
「食道と骨はこれ以上いじれないからな。筋肉を減らした」
「しかし、それでは……」
「そうだ。今度は頭が支えきれなくなって、頭蓋を削って軽量化した」
 『成程』とピョートルは感心するが、老人達は嫌な気持ちになっただけだった。食事中に、このエウドキアの首の話は思い出したくないと思う。
「人間の身体では限界があるからな。構造的にも美的にも」
「同感だ。機能面では優秀だが、不格好でグロテスクだ。人間は」
「今私は、臓器を損なわずに他の動物のフォルムを真似出来ないか研究している所だ」
「本当か?それは興味深い」
「鳥類の優雅な羽、四つ足のしなやかな筋肉……」
「愛らしさでは多毛類、例えばネコ科の」
 大仰な身振り手振りが入って二人の魔法使いがかなり話に熱中している事が分かる。
「やつらは服を着なくても美しいからな」
「そうだ。それに比べて人間の裸の醜いこと醜いこと」
 某芸術家がおそるおそる口をはさんだ。
「その……女性の裸は、美しいと、思うがのう」
『それは審美眼が性欲に負けているだけだ』 ピョートルとエウドキアの声が見事に重なって、二人は不思議そうに互いを見た。
「なんの……話だったか」
 二人がそうやって見つめあっていると、まるで神話の一場面かと思えるくらいにその造作は整っていた。思わず手を差し伸べたくなるくらい儚げで、それでいて気高い顔立ち。勿論その実情は頭蓋骨や食道を削るのも辞さない情熱と、眉の位置何ミクロンさえ疎かにしない執念深さに因るものだとは知っている。しかし見惚れてしまうのは止どめようもなかった。
 夫である太陽神の臨終を嘆く妻の月の女神か或はその逆か。二人の顔は中性的だったのでどちらともとれた。ただし口を開かなければの話である。
「ああ、死ぬんだったなオマエは。噂ではシャケの天ぷらに当たったそうだが」
「天ぷらではない。生食に挑戦したら、こうなった」
「クマかオマエは!生で食うな。で、原因は寄生虫なのか?」
 ピョートルは大して興味がなさそうに腹部を押えた。
「知らんな。儂が死んだら腹を裂いて調べるといい」
「寄生虫なら……」
「儂に治せないものがおまえに治せる訳はないだろう」
「誰が治してやると言った」
「そうか?しかし例え治せたとしてもな」
「何だ?」
「いや」
「言え!言いかけて止められるのは大嫌いだ」
「ここらが潮時かと思ってな」
「潮時?」
「顔を見れば分かるだろうが、儂の身体は並外れて延齢魔法に適している」
 皺一つない、人形のような皮膚を撫でてピョートルは嘆息する。『適してのうて悪かったな』と周囲の老人から野次が飛んだ。
「機を逃すと儂は際限なく生きなければならない。弟子にバタバタ死なれた上この年寄り共を看取るのは嫌だ」
「死なれる前に死ぬと?まあなんと勝手な奴だ!」
「食い物と臨終は早い者勝ちだ。耳元で怒鳴るのは止せ、エウドキア」
「オマエらは文句がないのか!」
 苛々とエウドキアは老人達を振り返った。彼等は皆一様ににこにこと笑っている。
「ピョートルのわがままには慣れとるよ」
「ここで、わしらが嫌じゃ言うてもなぁ」
「だいたいピョートルは人の話なぞ聞く耳持たんし」
「まあ、そんな事ありませんわ。おねだりにとても弱い方です。ピョートル様は」
「相手の性別が限られるんじゃないかのぅ。ねだってみては?姫」
「……千年一緒に生きられるという確証はありませんもの。ピョートル様を不幸には出来ません」
「先に死んだら、恥ずかしくて天国に行けないようなコトをされるかもしれんしなぁ。死体に」
「そうじゃそうじゃ」
「・・・・・・」
 思っていたのとは違う反応が返ってきて、エウドキアは少々驚いたようだった。
 ピョートルがその様子を可笑しそうに見ている。
「という訳で、皆を呼んで名残を惜しんでいたんだ。おまえが来るとは思わなかったが」
「あれだけ町中に噂が広まっていればな。……そうか、もう決着はつけられんのか。詰まらん」
「鮭に当たって死ぬと分かっていれば、手合わせに行ったのだが」
「まあ、いい」
 互いの細緻を究める壮絶に美しい顔。この頬を殴りとばした手のひらの、熱い感触をまだ覚えている。腹を蹴られ、足を払い、殴って殴られた。『死ね白豚!地獄へ堕ちろ!』と何度呪いの言葉を吐きかけたことか。女のような顔をして、とピョートルを侮ったエウドキアはその申し分なく腰の入ったパンチを受けてしたたか鼻血を流す羽目になったし、ピョートルは仕返しにと食らった魔法を受けて、しばらくは息もまともに吐けなかった。眼を閉じれば自分を見下す悪鬼の如き顔がまざまざと思い浮かぶ。
 しかし。
 雷鳴轟くなか自分の名を呼ばわる声の強さに、はっと虚をつかれる思いのした事はなかっただろうか?
 瓦礫の中に力尽きて倒れている相手の、眼を閉じていた顔が案外幼く見えた事は?
 飛竜に乗って大空を駆けている時、真正面からどんどん接近してくる影が『今日こそ決着をつけてくれるわ!腐れ魔法使いめ!』と叫ぶ声を聞いた自分の、笑い出したくなるくらいの精神の高揚感は何だったのだろう。
「のうピョートルや、わしらお前の臨終のために呼ばれたというのに何もそれらしい事をしとらんぞ」
 ぼんやりと回想に耽っていた魔法使いはその声で我に返る。
「それらしい事、というと?」
「ほれ、死に水をとるとかだな」
「北枕」
「御清め」
「……記憶に違いがなければ、死んだ後にする事ではないのか。それは」
 ピョートルのつぶやきを無視して、老人達は勝手に寝台を持ち上げて回転させ始めた。
「死装束はどうするかの」
「ピョートルは普段から白い服しか着んから一緒じゃ」
「それでは御清めをいたしましょう。御召し物をお脱ぎになって下さいピョートル様」
「……姫。できれば腕を拭うくらいで満足してもらえないか」
「しょうがありませんわね。ではお袖を少し……ええ、そうそう」
 エウドキアが一殴りしただけで簡単に折れてしまいそうな小柄な老女の言う侭に、大人しく腕を差し出しているピョートル。そんな彼を見ていると何故か魔女の胸の内に苛立ちが込み上げてくる。
「くだらん!私は帰るぞ!」
 エウドキアが踵を返すと、艶やかな黒髪がしなやかに彼女の動きを追った。
 興味深そうに彼女の髪を見ていたピョートルだが、やがて落ち着いた声で東の魔女を呼び止めた。
「待て。エウドキア。儂は御前に一つ頼みがある」
 器用に片眉だけをあげて彼女は振り返る。
「そいつらに混じってオマエのくたばる準備を手伝えというならお断りだ。とどめを刺して欲しいなら首くらいは絞めてやるが」
「まあ、それは別の機会にとっておこう。今回の頼み事はこの子供だ」
 二人の大魔法使いの間に挟まれて動くに動けないでいた少年をピョートルはそっとエウドキアの方へ押し出す。
「ああ?この仔ザルがどうかしたか」
「名をピーターという。弟子にしてやってほしいのだが」
 周囲の老人達が顔色を変えて、守り刀や六文銭を取り落した。『無茶苦茶じゃ』『メスゴリラの檻にバナナを放り込むが如き愚行!』『帰り道で人買い商人に売り飛ばされる方に五万点』『なに?わしは切り刻まれて秘薬の材料にされる方に六万点』『愛玩奴隷にされてしまうのに五万五千ですわ』と、いささか芝居がかった調子で科白が囁かれる。
 ピーターは震える眼でまじまじとエウドキアを見上げた。その豊満な胸と腕組みのせいで少年の目の高さからでは彼女の顔は見えなかったが、完璧な形に塗られた黒の唇が皮肉っぽく歪められているのが狭間から窺える。
「頭がどうかしたのか?ピョートル……西の魔法使い」
 エウドキアの黒のブーツが寝台にかけられた。磨かれた石のような鋭く丸い膝が露になる。
「この私が『子供大歓迎!親切丁寧に教えます』とでも言うと思うのか?それ以前にオマエの頼みごとを聞くとでも?」
 言葉に抑揚を付けながら、彼女は足で寝台を揺さぶった。確かに彼女がピョートルの望みを叶えるという可能性は低かったが、彼女が実はそう子供が嫌いではない事はこの場にいる者なら誰でも知っていた。しかし彼女は『性格は悪いがひそかに子供好き』というチープな己のキャラクターを厭って、それをまるでハゲか水虫のように隠していたので結局誰もその事には触れなかったのだが。
「残念ながら……儂の知る内で一番優秀な魔法使いは御前だからな」
 ピョートルがあっさりと口にした言葉はエウドキアを含む周囲に衝撃を与えたようだった。
「……ピョートルが東を褒めよった。明日は雨じゃ」
「雨で済むものかい。雷雨よ」
「・・・・・・」
 エウドキアは黒い唇を開きかけて止め、せわしなく瞬きをした。
「どうしたエウドキア。妙な顔をして」
「……今日のオマエは本当におかしい。死ぬと言ってみたり、弟子を薦めたり、私を褒めてみたり」
「儂が冗談でやっているような言い方だな」
「今までのオマエなら口が裂けても私を『優秀な』とは表現出来なかっただろう。例え方便でもな」
「そんなに不審なら『優秀な』という科白の前に『儂の次に』と付け加えるが」
「ふん」
 エウドキアの、吸い込まれるように深い闇色の瞳がピーター少年を見た。ちょこまかと動く小さい子供だとばかり思っていた彼が、意外に整った顔立ちをしているのに魔女は初めて気付く。
「もともと此処でこの子と御前と会わせるつもりはなかったのだ、エウドキア。儂とは無関係な者として御前の館を訪ねる筈だった。しかし面が割れてしまったからな」
「なんだったら、ピーター君にはわしらが責任を持って性格の良い魔法使いの先生を付けてやるぞ」
 遠慮がちに申し出た老人達をエウドキアは鼻で笑った。
「性格の良さと能力の高さは比例しない。少なくとも魔法においては断言出来るな?ピョートル」
「ああ。理由その他についての詳しい発言は控えるが」
「よしよし。今日のオマエは本当におかしくて、そして素直だ。私は気分がいい。……そうだな、オマエに拾われたのは何もその仔ザルの罪咎ではない。先程の話、考えてやってもいいぞ」
『おおー』と周囲からどよめきが上がる。ゆっくりと間を空けて彼女は続けた。
「但し今まで散々私を侮辱し、損害を与えた己が行為を頭を下げて詫びればな」
 エウドキアには悪意が無いのは彼女の無邪気な表情を見れば分かる。しかし老人達にはここでピョートルがこの場を円く収める為に頭を下げるとはとても思えなかった。
「断わる」
 案の定ピョートルは素早く答える。強情な笑顔が白い魔法使いの顔に浮かんだ。それはまだ彼が屈託を知らぬ頃。弟子との死別を経験していなかった頃の表情である。流れる白銀の髪と、その奥からエウドキアを刺し貫く白銀の視線。その場にいた誰もが一瞬懐かしさを覚えた。
「……くたばる寸前のくせにプライドだけは一人前か。しかしピョートルよく考えろ、ヘタな魔法使いに師事して悪い癖がついたが最後、一生それが直らないのは知っているだろう?」
「・・・・・・」
 エウドキアは寝台から足を降ろして笑い、白い魔法使いは眉根を寄せた。場合によっては、この部屋が瀕死の魔法使いとそのライバルの最後の戦場になるという事も有り得るので、老人達は抜け目なく壊れ物を片付け始める。
「帰って下さい!東の魔法使い」
 金の髪の少年が両手を広げて精一杯の背伸びをした。
「頭を下げて頂く必要はありませんピョートル様。貴方を犠牲にしなければ学べない魔法ならいっそ諦めもつきます」
「犠牲?これはまた大仰だな。仔ザル」
「貴女に頭を下げる代償が御自分の命なら、ためらいもされなかったでしょう。ピョートル様は」
「かもしれんな」
「僕は貴方に弟子にして頂く必要がなくなりました。ですから帰って下さい。今夜この館に集まるのはピョートル様を惜しむ人だけです。あなたは違う!」
「オマエ如きに指図はされん」
 怒る少年の血色の良い頬を鑑賞しながら、エウドキアは自らの爪のマニキュアの具合を確かめた。
「なら無理にでも帰って頂きます!」
「……今、冗談を言ったのか?仔ザル」
 ピーターの片目が細められた。
「止めなさい。ピーター」
 緊張した声で白の魔法使いが制止するが、それは唐突に起こった。気圧の出鱈目な変化と耳鳴り。肌を何かがかすめていくような空気の移動。全ては魔法の力が行使された時に付随する現象である。
 少年は不思議な瞳の色でエウドキアを見ていた。陽光に透ける海の色の緑、夏の草原の緑、霧がかるような半透明の翡翠の緑。『成程、緑の瞳というのも美しいものだ』とこんな場合であるというのにエウドキアは思った。
 但し黒色と……白色の次にである。
「何?」
 瞬間、高熱と衝撃が彼女の全身を撲った。さすがに転倒こそしなかったものの魔女は二三歩よろめく。その拍子に細い脚が妙な音を立てた
「東の、色が変じゃぞ」
「あら、本当。足が」
 老人達の指摘通り、エウドキアには確かに変化が見られた。先程まで眺めていた出来の良い塗りの黒い爪が、灰色に変わっている。もう片方の手も確かめようとすると手首関節まで奇妙な音を発した。
 少年はそこで力尽きたのか、息を切らせてピョートルの膝に倒れ込んだ。大粒の汗を額に浮かべている。
 舌打ちをして『石化か』とエウドキアが呟いた時には、既に彼女の左半身が固まっていた。唇が圧迫されて動かないのをものともせず、彼女は二言三言を唱える。
 石となればこの世で最も美しい彫像と化したであろう彼女は、皮膚に張り付いた石のかけらをこそげ落とした。
「その仔ザルは弟子ではないといったな?ピョートル」
 東の魔法使いがどれほどの怒りを撒散らすだろうと老人達は固唾を飲み、静寂の中で苦しげな少年の呼吸音が響く。
「そうだ。幾人もの人間に教わるのは良くないと思って儂は何の手ほどきもしていない」「では、以前に習った事はあるのか?おい、仔ザル答えろ」
 乱暴に揺さぶるエウドキアに、意識も朦朧としているらしい少年は何事かを答えようとするが、激しく咳き込み始める。
「しばらくは喋れないだろう。幾ら才能があっても身体がこうも小さいうちはな。儂が話を聞いた限りでは魔法関係の知識は家に来て目にした書物のみの筈だ」
「才能?才能で済むのか?」
 エウドキアはひどく興奮しているが、それは怒りの所為ではないようである。
「この私でも石化を修めたのは魔法を始めて九年目だった。オマエは何年掛った?ピョートル」
「十一年だ。石化は苦手でな」
「そう、石化は難しい。普通の人間なら三十年は掛る。そこでもう一度言うが、才能で済むのか?その子供は普通の身体なのか?」
「分からない」
「……長生きはするものだ」
 髪に残っていた砂礫を払い落として、彼女は好奇心に満ちた目を少年に注いだ。
「誰でもそう言うだろうな。魔法使いなら」
「呼吸法もトランスレーションも筋力の訓練も全てすっとばしてこの歳でこの私を石化させるくらいだ、基礎を教えたらどうなるのだろう」
「儂には知りようがない。だから御前に頼むんだエウドキア」
「おもしろい。私は決めたぞピョートル」
「何をだ?」
「その仔ザルを連れて帰るんだ。満足か?」
「ああ」
 懸命に何かを言いかける少年に気付いてエウドキアは付け足した。
「頭は下げなくていい。その代わり一発殴らせろ」
 しばし逡巡して、今度は納得したらしくピョートルは返答せず目を閉じる。
 鋼鉄の棒を片手でへし折るエウドキアの腕力である。『ああー!死体に青アザがぁぁぁ』という悲痛な叫びが一部の老人からあがった。
 白の魔法使いの華奢な頤に指をかけて、エウドキアは目を細めて検分する。誰もが、彼女は、どこからピョートルを殴れば一番効果的か調べているのだと確信した。少年が倒れたまま小さく息を飲む。
 ゆっくりと、エウドキアはピョートルに顔を寄せた。彼女の吐息で白色の髪が揺れる。しかしピョートルは目を開かず、微動だにしない。
「?」
 余りに長くエウドキアがその姿勢でいるので、殴るのはやめて噛みつくつもりだろうかと廻りの老人達が訝しく思った時、エウドキアの黒い唇がピョートルの頬に触れた。
「ありゃー!」
「まあー」
 頬の微かな感触と旧友の奇声に白の魔法使いが瞼を開けると、目の前でエウドキアが口の端を歪めて笑っている。
「驚いたか?」
「……驚いた」
「白い魔法使いの黄泉路に娯楽多くあれ」
 相変らず黒い魔法使いの唇はへの字に結ばれ眼は暗く澱んでいたのでとてもそうは聞こえなかったが、確かにその言葉はピョートルに対する祝福だった。彼女の手のひらは厳かに彼の額に当てられている。
「驚きの余りわずかの寿命が今絶えた心地が、する」
「それは素晴らしい。身に余る光栄だな」
 呆然とエウドキアを見上げるピョートルの幼い表情に、彼女は婉然と笑った。
 つられてピョートルも笑う。








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