3、印判の歴史

「摺絵」 は明治の初期に肥前大樽の牟田久次が作り始めたという説と、明治7年に肥前の松尾喜三郎が発明(再興)したという説がありました。

型紙摺り自体は、布の染色の技法から転用されたものといわれ、古くは江戸中期にも行われております。この時期のものは江戸中期末には行われなくなっていて、技術的には途絶したと解釈されているようです。

いずれにしても、「摺絵」は肥前において明治10年頃から生産が本格化し、量産食器の絵付け法として盛んに用いられるようになった。


摺絵 鯉図 (地方窯?)
この摺絵の技法は、明治15年頃までには砥部や美濃など各地の磁器生産地にも伝わり、以降全国の磁器を生産する大小さまざまな産地で用いられた。

手書きでは表現できない伊勢小紋など染色の図柄が陶磁器に応用されて大いに流行しました。

摺絵 青海波桐花縁 ・・・呉須が孔、白い部分が紙であるとすると型紙職人の技術も驚異的である。
しかし、その後現れた銅版転写の技法に漸次移行されていって、肥前や美濃でも大正期には廃れたようであります。
「銅版転写」の萌芽は18世紀中葉、イギリスにおいてやきものへの印刷技術の応用が成功したことにはじまる。その後イギリス、オランダで完成されていった銅版転写製品は、長崎の出島を通じて江戸時代後期のわが国にもたらされた。

この時代、これらの製品に接した窯元のいくつかは銅版印刷を試行したようである。1850年前後(弘化、嘉永)に、名古屋の川名窯、京都の五条坂窯、美濃の里泉窯などが試みている。
ただし当時の呉須が銅版印刷に適さなかったようで淡い発色しか出せず、そのせいか間もなく衰退した。

その後我が国では、明治21年に美濃で銅版印刷が本格的に試みられ、苦心の末1889年(明治22年) 加藤米次郎・元次郎 (多治見)が銅版下絵を完成させ特許取得した。しかしながら、開発に携わった者の中に勝手に美濃、瀬戸の窯に伝承する者がいて特許の効果はなかったようである。

こうして銅版転写の技法が確立、美濃、瀬戸地方で普及、本格的生産が始まったのである。
肥前へは、明治24年頃、愛知・瀬戸から原某という者が染め付けの銅版転写法を普及しに赴いたらしい。

だが肥前窯業地では当地開発の「摺絵」、紙型捺染法( しけいなっせんほう ) が盛ん行われており、さらに元来手書きの伝統を誇ってきたプライドもあったことから、銅版転写を軽視して普及するに至らなかった。

したがってこの時期の銅版転写製品は圧倒的に美濃瀬戸の品が多い。

しかし肥前でも、時代の流れには抗しきれず、明治20年代後半にはドイツから銅版印刷の機械を輸入した。明治30年にははそれを摸して国産銅版印刷機を開発している。

こうして肥前の各窯場も銅版転写の製品に移行して行き、大正時代には印判製品は完全に「転写」にとって変ったようである。


銅版転写 浅草凌雲閣図角皿 ・・・多治見産印判の代表的なもの
銅版転写のほうがより鮮明な図柄を描き出すことが可能であることと、大量生産では型の寿命もコスト経済性において重要な要素であることから、型紙に比べ圧倒的耐久性をもつ銅版の優位性に席巻されたということであろう。

その後肥前窯業は、大正10年頃から昭和戦前に至ってのイゲ皿全盛期、日常用器としての印判(銅版転写)製品でも最大生産地となったのである。 しかし有田地区での印判関係の資料はざっと眺めたところでは非常に少ないと感ずる、伝統ある古伊万里の地だけに印判製品の位置づけ認識はかなり希薄であると察するものである。
参 考 図 録 (早花苑コレクション所蔵)

摺絵 鯉図大皿 29.5cm

摺絵染付 窓絵草花唐子山水図大皿 34.0cm

摺絵 青海波桐花縁秋花図角皿 25.5cm

銅版転写 浅草凌雲閣図角皿 26.5cm

銅版転写 窓絵麒麟文山水図角皿 26.3cm


BACK NEXT