4、銅版転写技法の確立

前述したように、銅版転写技法は江戸後期にも試行されているが、本格的には明治期に確立された。

 銅版印刷は、防蝕剤を塗った銅版に鉄筆で絵柄を描くことでその部分の防食膜を除く、次に硫酸銅や塩化第二鉄を塗って鉄筆跡を腐食させるとこの部分が侵食されて窪みとなる。これが凹版である。

 次に、木製のコキ板と呼ばれる道具で、凹版に顔料を刷り込み、印刷機で和紙にプレスして写し取り転写紙を作る。

 この転写紙を下地の器面に水刷毛で貼り付け、図柄を付着させた後、和紙だけをはがすことによって絵付けをするというものです。

一見手間はかかるようであるが、一旦原版を作れば鮮明な画像の下絵転写紙が容易に大量に作れること、これを使用することによって絵師でなくとも安定した絵付けができること、型紙に比べ圧倒的な原版耐久性があることから印判製品の主力技法となったようである。
この銅版転写の技法は現代窯業においても絵付法の一つとして、そのまま採用している製品群もあり、この時期にすでに絵付技法として完成確立されたということであって、これは特筆すべき点であろうと思います。
銅版転写で興味深かった技術的事項を以下に列挙しておく。

「顔料」
明治になってゴットフリート・ワグネルの指導により一般的に使用されるようになった酸化コバルト(ベロ藍)によって、明るく鮮明な発色が得られるようになった。

「印刷インク」
顔料を糊と混ぜてペースト状にして使用した。
この糊は白笈という紫蘭の球根で作られたもので、転写紙の和紙に乗りやすいことと、水刷毛で器面に付着させたあと紙だけが剥がれやすいという性質をもっている。白笈は現在の転写でも使用されているとのことで、その性質は代替品のない優れたもののようである。現在は中国からの輸入によっているそうである。

「転写紙」
当時苦労したのが転写紙であったらしく、ドイツ、フランスの転写紙に匹敵する紙が得られず試行錯誤を繰り返したようである。
大正後半に名古屋の日本陶器がそれらに劣らない転写紙を造ることに成功して、一段と転写技法が普及した。

「下絵印刷」 (下絵付け=釉下彩)
皿にしても鉢にしても立体であって器面は曲面である、これに平面の一枚の紙で模様をつけることは不可能なことですから、模様は複数に分割されて印刷されました。この部分模様を大量に印刷しておけば、貼り付け転写の工程は絵師でなくとも出来ましたから、分業で効率的に絵付けができたわけです。印判製品で模様がずれたり、隙間が開いてたりするのはこのためで、まあご愛嬌ということでしょうか。

おわり
TOP
参 考 図 録 (早花苑コレクション所蔵)

銅版転写 福字窓絵獅子山水図角皿 28.5cm

銅版転写 紗弥形窓絵船山水図角皿 30.5cm

銅版転写 区割唐花菊花図大皿 37.3cm

銅版転写 瓔珞文麒麟図大鉢 31.5cm
参考文献

美濃焼情報誌 「たじみ」 東京美濃焼PRセンター編
瀬戸市マルチメディア伝承館ホームページ
多治見市美濃焼ホームページ「美濃焼百科」
名古屋市ホームページ
ホームページ「有田皿山散歩史」

TOP