] 鳳仙花の巻





             女は口説かれている内は天人だけれど
             口説き落されっちまうと、もう駄目。
             ほんとうの愉快はしている間だから。
             愛されていて、この道理を知らない女は馬鹿よ
             男て者は、手に入らない物をその価値以上に
             有りがたがる者なんだから。

                         『トロイラスとクレシダ』一幕一場



 ]−口上

橋架けられた死への旅路をものともせずに
かのアラビアの暴君の心をも虜にしたという
かのシャラザーラの品性を
かの大胆にして小心な男は汚そうとするのか。
それとも自らをシャラザーラの心に移して
天に羽ばたく暴君に純潔を奪われた女を
ナイトの心をもって救おうとするのか。
「欲しい」の一念に幻惑されて
手に入れるには言葉を選ばない男の破廉恥に
現代のシャラザーラの品性も曇り
「愛」の扮装をした「邪心」に肩をすくめる。
かくて女が男に与えたという毒持つ黒い錫杖の謎は
消化不良のままに解かれ
受胎のための憐憫が醸し出されることと相成った。



 ]−@

言葉とは所詮言葉でしかないものを
言葉によって人は互いに相手の道を閉ざそうとするものだ。
毒ある言葉が貞節こだわる肉体に
その生臭い息を吐き掛けた時
言葉の裏側覗けぬ内は
拒絶という名の矜持でもって
言葉に装填された執拗な野望をピシャリと叩く。
だが言葉の応酬によって確かめられた二つの世界が
いつしか一つのオルガスムスを求めるようになると
言葉のみ知る嘘が
「わが言葉こそ実の人生だ」と開き直り始める。
そのとき選ばれた言葉は
見棄てられた他の言葉の歎きを忘れ
二人の運命なのだと言ってはニヤリとするのだ。



 ]−A

一つの選ばれた言葉によって
二つの世界の血が騒ぎ始める時
もうお前の使命は終わったと言わんばかりに
沈黙の触媒が言葉の出しゃばりを封じ込める。
肉体の叱咤によって
外の気まずさと内の思惑とが隣り合わせにされ
微動だにせぬ空間と
流れの止まった時間とが
太鼓持ちのように二つの世界の感性をくすぐり始める。
そして雑色のきらびやかさを保っていた周囲が
暗闇の世界へと模様変えするにつれて
一つの右手と
もう一つの右手とが
それぞれの聖域を目指してもぞもぞ蠢き出す。



 ]−B

限りある命の十字架を確実に背負ったものごとの出発は
たとえ背徳の烙印を押されたとしても
それぞれに美しいと言ってやらねば気の毒だ。
二人だけが祝福する作られた出逢いも
何もかもが承知の上のことだと割り切ってやれば
罪とは何であるかを教え込まれた経験も
やがては究極の美への協力者に転じ
快とは何であるかを刻み込まれた経験も
陽性となった血と交われば
ついには無駄のない運動の美学を構築するようになるだろう。
かくして沈黙は自然の言葉となり
意味のない母なる調べに凝縮された二つの思いが
それぞれの美しさのイメージとなって
二人だけの異次元の世界の中で交錯するって筋書きだ。



 ]−C

思い思いに飛翔する二つのたくらみによって
誰も関わっていない二人だけの時間
誰も存在していない二人だけの空間が訪れた時
男の頼みに応じるかのようなふりをして
女はその白魚のような手を硬直させて
己だけの道を求める女へと変身してしまうものよ。
あたかも異次元の世界にほうり出された
ねっからのエピキュリアンであったかのように
素晴らしい過去を背負いつつ
それを見事に遮断して
ひたすら「感応」する自由を味わおうとするもう一人の女が
過去を現在に引き連れている男を無意識の内に圧倒しては
その欲望をもてあそぶのだ。
まるで罠にかかった野うさぎに舌舐めずりをするように。



 ]−D

魂ある野うさぎの営みも
自然の力の一鞭で動き始めれば
慣性の法則に従って一時の盲目性を得る。
音を立てて落下する滝の水しぶきも
ほんのわずかの逡巡をするだけで
やがては逆巻く渦の中で激流となるように
問わず語りに決められる
「より大なるもの」へ向かっての秘密の追求心が
次なるものへの連続性を約束させる。
そうなると異物同士が味わう最初のざらついた感じは
なじみの感じの起爆材となり
多少なりとは残っていた罪悪感も
それと比例するかのように
蒸発した汗に紛れて消えていく。



 ]−E

ほんのわずかの液体に凝縮された
男のあわ立つ執念を呑み込むと
あまえの感じの余韻を楽しみながら
満たされた腹の動悸を鎮めるのがこれまでの女ならば
秘密の時間と空間から解放されたとなると
まるで「感応」する自由を忘れてしまったように
落ち着きはらって
時には己の過去の所業について
時には現在の高尚なもくろみについて
平然と男に語り聞かそうとするのがこれからの女のようだ。
変わる女のそんな姿を見せつけられると
虚構を現実にした満足感のほんのわずかのすき間からも
「不可解」という言葉のちらつきだすのを
慄然たる思いで噛みしめるのが男の相場というものだろう。



 ]−F

虚構と現実の入り交じる様々な音符に踊らされる
男と女のデュエットには
永遠という言葉のもたらす白々しさがいつも隙を窺うものだ。
人と人とのつながりが
純粋な心と心との触れ合いでない限り
お互いを完全に理解したいと望みながら
お互いに誤解しあう悲劇を
生きることの享受の見返りとして
人が味わうのもいつものことであるだろう。
男を持った女と女を持った男との秘かな葛藤が
背徳の陰りの薄れた現代の映し絵であったとしても
虚構を現実にした男にこそ
現実を虚構にした女にと同様に
生の悲劇はこれから見慣れたものとなるだろう。



 ]−G

男にとっての本懐と言われたはずの感激が
わびしさそのものだと気付く時
それを男は自らの生の悲劇だと割り切れるものだろうか。
女が示すたゆたいの振動は
男の説得に同意した返礼の仕種ではなかったのか。
それともそれは男の「論理」と対等に存在する
女の「感応」による自由の行動だったのだろうか。
自然が生きとし生けるものに与えた二つの存在の営みが
融合を目的にした純粋な肉の行為以外のなにものでもないのに
人間の場合にそれがあてはまらないのは
男の「論理」と女の「感応」とが同一歩調を取るために捏造した 
「愛」という奇形児のなせるわざのせいだったのだろうか。
この余計者は男と女が全く別の存在であることを証明するために
触媒として意地悪く登場したにすぎなかったのだろうか。



 ]−H

女が忘我の世界に入る時
喜びの共同正犯である男は
一瞬にも「支配した」という安堵感に似た喜びと
「とり残された」といういらだちを持つとも言う。
この矛盾する二つの情念に踊らされる男に対して
女は女の性である「感応」によって忘我の境地を得るために
このことにはちいとも気づこうともしないのだ。
もともと男が持つというこの複雑な気持ちは
男の性である「論理」によって
自縄自縛の独り芝居を打つために生じたのだから
もともと女の関知するところではなかったのだろうか。
男にこんな思いの不幸を味わせては愛をもくろむ
計算しない女のしたたかさによって
昔を知る男はこれから幾度も翻弄されることだろう。



 ]−I

あらゆるものが詰め込まれた沈黙が
あれよあれよという間に空洞化されていく。
初めから二つの間に醸し出される沈黙に盲目であったなら
それは単なる無であったのだから
これほどまでに男の心は掻き乱されはしなかっただろう。
しかしアダムとイブが禁断の木の実を味わってしまったように
沈黙という存在の意味を感じ取ってしまった男は
この空洞化されていく沈黙によって
己の存在証明の機会を喪失してしまうような
言い様のない不安を覚えてしまうのだ。
肉体を崩壊させていく容赦のない時間の悪戯に対して
必死の思いで捏造したわが心の抵抗が
ことを成し遂げた後の沈黙によっても崩れさられるというのは
何という生命の不公平さであることか。



 ]−J

無限のイメージを彷彿させえなくなった訳知りの男は
己に残された不公平なエクスタシーを見極めたかのように
吝嗇家になってしまうものなのだろうか。
情念の赴くままにエクスタシーを堪能しようとしたあの気迫を
過去の物置に忘れ何かを惜しむ気持ちに囚われると
男はかくも計算高い人間に変貌してしまうものなのだろうか。
今や確実に減少するエクスタシーの数におののいて
濃密さだけを取り柄としようとする換算のテクニックが
己のアイデンティティーを守る唯一の砦となってしまうのだ。
男が理想主義のもつ気概を喪失してしまい
その代償として与えられた現実主義という名の負担を
マイナスからプラスに変えるためには
新たな女の悲哀を期待しなければならないのだろうか。
「時」の鎖から逃れられないで喘いでいると言うのにだ。



 ]−K

見慣れたものを見慣れぬものであるかのごとくに見るってのは
かりそめの現実主義者には至難のわざだったのだ。
かつてはあれほど新奇な感慨を起こさせた愛の対象も
気の召すままに応えてくれるようになると
いつしかもの言わぬ奴隷と化してしまうものだ。
あきらかにそれは心が枯渇してしまった
己自身の責任にのみ帰せられるべきであるのに
それでいて相も変わらぬ男心の醜さは
他方では「遊び心」に惹かれて
せっかく手に入れた宝を捨てまいとして
贅沢な悩みを持つ現実に酔いしれようしてしまうのだ。
いやはや虚構の愛の何たる悪戯好きよ。
それはもの言わぬ奴隷と悩める奴隷という二人の奴隷を
たった一度の魔法によって作り上げてしまうのだから。



 ]−L

一つの言葉が触媒となって
二つの魂を結びつけた気まぐれな心に
時間を速める魔法のぜんまいが巻かれ出した時
沈黙の中の濃密な実在性が
あれよあれよという間に薄れていく。
二つの性を閉じ込めていたカプセルが
一つの幽玄をさまよっている間に
充実した意味のない言葉もその神秘性を失い
屹立した無言の荒々しさもその躍動性を失っていく。
二つの細胞がそれぞれに分裂し始めたために
一つの世界に見えたものが
二つの世界の寄せ集めのように見え出すと
お互いの未来を気遣いながらも
案の定二つの舞台が二人に示される。


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