J 金木犀の巻





                    不幸を治す薬は
                    只もう望みより外にはございません。

                               『以尺報尺』三幕一場



 J−口上

浩々とした海原を舞台とすれば
うんちく傾け造った大きな船も
所詮は限られた運命の戯作でしかないと思い知らされる。
メルヘンの産みの親たる気まぐれも
膿んだ心を癒し大団円を迎えると
まるで自滅を促されるように
現実という咎の前で美まし夢を壊される。
何かを求めたが故に何かを失ってしまい
自らが作ったものに疎んじられ災いされてしまう
有無を言わせぬそのような人間の宿図が
うら寂しくも二つの心を離反して
元の裏長屋にひき戻す。
かくていつも取り残される男の怨みの宴が
体面を保ついつもの雲気となって又々繰り返されるのだ。



 J−@

己が己であるための拒絶が
最もふさわしい美徳と確信していただろうあなたのどこに
あの情熱の火が燃えたぎっていたのだろうか。
いっぱしの哲学者をきどったエゴイスティックな私の
慇懃無礼な毒に満ちたわりには
小汚くおずおずとした誘惑に
思いもかけず乗ってくれたその日から
すっかり変身してしまったあなたは
幾たびかの捏造された宴を通じて
まるで愛玩物を壊すように私の心を打ち砕いてしまった。
あなたにとっては己を守るためでも
私にとっては条理を欠いた世界の壁が
一つになっていた体を二つに引き裂いた今
取り残された余韻の蒸気だけが私を慰めている。



 J−A

数知れぬ恍惚の帳をかいくぐったコスチュームを
私の未練心に押しつけて
おのが世界に戻っていってしまったあなたの透明の空間は
いまだに強烈な匂いを発散させて
萎びきった私の肉体にからみついて
決して離れようとはしない。
独り取り残された透明の空間に
いぎたなくも放出する濁りきった私の残滓が
あなたへの確かな手ごたえを求めて
冷たくなった空隙に媚を売る時
そのむなしい沈黙が
心地よい消滅感を醸し出したかつての沈黙に取って代わり
虚空の世界の孤児となって
頼りのない便りに頼ろうとしだす。



 J−B

じっくり思い起こして見るならば
なんの取り柄もないと諦めていたこの私に
強烈な衝撃を与えてくれた都会に咲く花だった。
それは私自身がこの世に生きて在ることを
わが心に焼きつけてくれたのではなかったのか。
そして又そのきらびやかなたたずまいの中から
知らず知らずに放たれる誘惑の微臭が
わが開きなおった雄叫びによって
隠された生命源をあらわにした時
凝縮された自然の神秘を啓示せんとして
己の本性を開示してみせてくれたのではなかったのか。
そして又この都会に咲く花の出現によって
私の生きられた時間が保証され
ほんの一時でも私自身が救われたのではなかったのか。



 J−C

ああ、それにつけても
自ら求めずして求めた横溢感という名の苦悶を
花びらのひとつひとつに残して
あなたがこの時とばかりに
否定を知らぬ純粋さを爆発させたあの瞬間を
私は忘れることはできない。
あなたが持ち去っていったエキスを作る蜜壷が
いまだにあなたの逆鱗に触れまいと
甘えうずき続けているのを覚える私は
当てもない回顧の道へと
再び歩みだそうとしているのだ。
「時」という名の演出者がいたずら心によって
あなたと私を妻合せたばかりに
このように惨めな自分を知ることはなかっただろうに。



 J−D

片腕をもがれた私を十二分に知りながらも
無意識に私は今の自分を身繕いしている。
男が自分自身に対して思い上がっているという事実に
盲目になってしまうと
自然の与えた感激も 
計算された醜い業績となって
真実とは程遠い記憶の箱にしまわれる。
その記憶の箱には
私の片腕をもぎ取っていった仔細については
ただの一行も記されてはいないのだ。
それは表向きには滾らせているように見える
私の意志と情熱の背後には
弱気のWILLしかなかったというたったそれだけの事実を
私自身が隠そうとしているからなのだろうか。



 J−E

私の残滓から湧き出る男の性によって
あなたをフェアな人間と思い違えたのが
私の唯一の誤りだったようだ。
だがこの誤りは人生の妙味を味わわせてくれたのだから
あなたがダークな心の持ち主であったことに
私は感謝しなければならないのかもしれない。
しかしあなたがダークであり続けたいと願っていた事実に
私自身が気が付かなかったことが
私とあなたとの愛の無駄骨を折らせたようだ。
あなたがダークであり続ける間
あなたが「完成された成熟」を求める気持ちの一方では
「未熟な情熱」にも惹かれうるという現実性が
私の意志が弱くなってしまった返礼として
私の心に一撃を与えてしまったのだから。



 J−F

一日の「時」を告げるだけが日課となった雄鶏の住み処に
これみよがしに季節の風が
知りたくもないのに知りたい便りを
送り続けてくる。
逃げ出した雄鶏を追う雌鶏のかつての習性は
現代の禁断の木の実を一度味わってしまうと
かくも簡単に消え去るものなのか。
恨めしげに「時」を告げる雄鶏の
それでも片意地をはり続けなければならない
屈折した習性だけは
時代の変化を読みとることもできない私の心に入り込んで
ひたすら過去の男の栄光を求め続けている。
一度手にしたものにはもう用はないと言い切った
かつての自分の台詞を想いだしながら。



 J−G

嘘のようにも感じとりたい
あなたに関する真実の話が
口さがのない他人を通して
私の目の前で展開される時
一時は心を共にした事実を
隠蔽したままに囃したてる
自分の後姿が妙に面映ゆい。
いまや「完成された成熟」に見切りをつけ
「未熟な情熱」に惹かれるあなたにとって
「生半可な成熟」が故に期待を寄せられた
この私の果たした役割とは何であったのか。
もはや手の届かぬ自由の鳥となって羽ばたいている
あなたの女王然とした出で立ちを見聞きするにつけ
復讐物語の武人に惹かれる私の嫉妬が変に恨めしい。



 J−H

私にとっての苛酷なまでの空白は
桜色した花と黄色い花とのデュエットを
何度も奏でる充実の期間。
静止することを知らない自然の見聞記を横目にして
私の受け身の心は
噂に浮き身をやつす耳年増となって
埓もない戯れの営みに生きるよすがを見ようとする。
右に左に、東に西に
止まることを忘れた時代の申し子の韋駄天ぶりに
よこしまな心もついて行けなくなって
中途半ぱにされた私の日常性に
悪は悪なりの教訓を垂れようとする。
かくて私にとっての苛酷な空白は
桜色に滲みだし黄色い煙を吐き出し始める。



 J−I

彼方の雲の間から洩れてくる
諭すような日ざしの教訓が
あなたからの訣別の合図なのか
それとも私の器量を窺う査問の調べなのか
寸時の盲目の嵐に幻惑された私には分からないでいる。
未だに覚えている忘れな草に執着する
子供のような肉体の震えが
あなたの再来を夢見ているのか
それとも私自身からの開き直りを待っているのか
壊された無数の積み木の狭間にいる私には分からないでいる。
確実にあなたが存在し
確実に私が存在していると言うのに
あなたの心に私の存在がなくなるように
私の心にあなたの存在が陰りだしてくる。



 J−J

私に肉と心を与えてくれた
無数の過去の営みを凝縮したこの一角にたたずみながら
いずれここの住人になる感慨に煽られて
私は許されざる過去の一時を思い起こしていた。
もしも私がここの一角の住人になったならば
私のかの許されざる過去の一時も
あたかも初めから存在しなかったかの如くに
消えてなくなってしまうのであろうか。
この一角に永遠に閉じ込められることの代償に
許されざる過去の一時の免罪を私は乞うべきなのか。
否、そうではなく、この一角にたたずむ生きた現在
かの許されざる過去の一時は、まちがいもなく
己に宿る激しい命の燃焼であったと言い切るべきなのか。
私の共犯者も又そんな気持ちであったのだと信じて。



 J−K

命を宿す灯を喰い尽くすだけの泡沫の幾年後
よんどころなくも離れ離れになったわが友は
この私を嘆き悲しんでくれるだろうか。
われはわれ、人は人とわが道を突き進むことが
自分に与えられた使命であると
いっぱしの口をたたいた私であったが
その中にあって少しばかりの誠を示したからと言って
ただそのことの故に
私の面影は友の魅力的な胸に留められているだろうか。
生が有限の鎖に縛られていることを実感できるこの年になって
そんなことまで考えさせる自然は
沈黙の笞でもって人が示すべき「誠」について
暗に教えてくれていたのではあるまいか。
私に私自身の存在性を知らしめるために。



 J−L

もしも十年後の「われわれ」が確実に存在するならば
今の「われわれ」のためらいは
充満する喜びの休止符とでも言えまいか。
若さが確実に衰えつつあることを痛感される中で
ためらいこそは避けるべき合言葉であるのに
終わりよければすべてがよいとばかりに
十年先の「われわれ」の到来を信じて疑わず
ためらいと不満の中でも
皺の美学を追求してやまない今の「われわれ」なのだから。
この現実の虚構そして虚構の現実が
今の「われわれ」の交わす合言葉なのかもしれない。
仮に十年先の「われわれ」が確実に存在し
お互いが枯れた欲望を掻き立てては「まだまだ」と叫ぶ
そのような黄昏人になっているのが分かりきっていたとしても…
                                                   完

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