[ 山茶花の巻





        あ、あすこへ春のように盛装してやって来たのがそれだ。
        ああ、美の神も彼女の臣僕たるに過ぎない!
        彼女は人間の名誉となるあらゆる徳の君王とも称すべきだ。

                             『ペリクリーズ』一幕一場



 [−口上

黄ばんだ髪におののく男が
昏い惑いを断ち切らんと
のたうつ情念に鞭を打つと
それまでに抑えられていた皺寄る肉が
ねっとり絡み付く嫉妬の炎に触発されて
つぶらに膨らんだ野心の種と化し
とめどもない賛歌を畑に播きちらす。
とおの昔に忘れ去った筈の奸智の心が
ついぞ見なかった勇気の炎に煽られて
ねじれた美辞麗句をひねり出すと
そぞろ歩き始めた男は
のぼせあがった邪欲を押し隠して
昏睡から目覚めた女心をくすぐろうと
黄金色した殺し文句を並べ出す。



 [−@

どこから言っても文句のない妻をもち
それ故に何不自由のない夫が
よその妻に心惹かれるのは男のエゴイズムなのか。
仮にもわが妻を疎んじるつもりはないのに
妻からあぶな絵を責められて居丈高になるのは
男の体面を守るための夫のテクニックなのか。
それとも妻の独占欲を揶揄するポーズなのか。
もしも夫がよその妻と語らいたいために
おのが妻にも同様のことを認めたならば
それは夫だけが言えるエゴイスティックな寛容なのか。
「貞淑」という言葉が死語になっている今
お人よしのフェミニストだけが慌てふためいている。
男という名のエゴイストがいるのかどうか
それについて今の私は知りたくはない。



 [−A

これまではただの「対象」でしかなかった躍動する存在が
このごろはまるで心変わりをしたように
意味深い言葉を投げかけ幻惑しにくる。
これまでの躍動する存在は
その毅然とした固有性の故に
私にとっては常に「対象」でしかなかったのに
今になって遠さの壁を打ち崩し
共通世界を築こうとするかの如く
同化しそうな近さの観念を感じさせる。
この時お人よしになってしまった私は 
以前から私のためにあるべくあったものが
ここに至ってやっと私のために働こうとして
幻惑の情念を刺激してくれているのだと
ついつい思って胸が躍ってくる。



 [−B

会うたびに美徳の一つを分け与えることのできる
それほどの豊かさを隠しもつ女性を私はついに見た。
苦々しい偽善ときらびやかな虚飾に満ちた現実を
幾度もくぐりぬけてきた痕跡を
さらりと残し
方向定まらぬ未熟者には
さりげなく功徳を施すことのできる女性だった。
ああ、何と私は彼女に教え諭されたことだろうか。
会うたびに世間知らずの私の心を感動させ
次第に生気増す喜びを与えてくれる彼女に
一体どう報いてやらねばならないのだろうか。
今やほんの少しでも彼女の笑みが見られるならば
どんなことでもしてみたい衝動に駆られる 
そのような毎日を味わいだしている私となっていた。



 [−C

邪気を隠そうとせぬ女の仕種に魅入られてしまった
私という名の余計者に
日々平安の奏でる快い微風が来なくなり
狂気誘う生臭い風が襲ってきた。
その苦い毎日の挑発によって
離れた距離から
魔法の呪文でもって
一寸法師にさせられてしまった私は
大きく開き始めた女の挑発に
はるか遠くで指をくわえて見るだけの
年老いたピエロ以外のなにものでもなかった。
感激がベールに包み込まれてしまったこの「現実」のずれは
老いという名の確実な復讐なのか。
それとも所詮は小人にふさわしい定めなのだろうか。



 [−D

ほんのわずかの時間のずれと空間の遠さがもたらす
そんな出逢いのドラマならば
私の人生においても様々に展開されてきた。
先人の言うごとくその都度の出逢いにおいて
それこそ一期一会の心でもって全力投球するのが
己に与えられた定めであって
不満足な過去の人生を咎めるのは厭なものだ。
「もしも」を考えてはならない筈の人生なのに
己の無力を知る年代になると
つい愚痴となって「もしも」の人生を考え出すのは
所詮人間は矛盾を食べる生き物だからか。
それともそれほどまでにこの度の出逢いが
衝撃的であったとでも言いたいのか。
彼女自身の責任ではないと言うのに。



 [−E

自然によって醸成され
草木を薙ぎたおし
岩を削りとることのできた衝撃の力を
「時」とともに溜め池に放り込み
作られた静けさでもってあたりを睥睨するだけに終わる
そのように澱んだ水を飲んでしまった私は
未完性を完成にする悦びを時として忘れ
他人の力によって磨きあげられた作品を
労せずしてわがものにしようと企みだしている。
この怠惰な痩せた豚に
その作品を愛する資格があるだろうか。
その与かり知らぬ作品を
己だけのパートナーにするだけの野心をもったとしても
誰も文句は言わないだろうか。



 [−F

日常性に身をまかせれば
ただちに襲ってくる俗事の大群に
時として我を忘れのたうちまわるこのわびしさよ!
この俗事の大群を拒否する力とてなく
かえって名誉の証しだと思いこむ分別持ちには
想い人に想いこがれて死ぬという狂気の営みは
永遠に不可能なのだろうか。
分別持ちを矜恃する男が
一生に一度覚えた理想の愛の具体相なのに
夜の帳が来れば前奏曲を奏でたままに瓦解させ
翌日にはそれを忘れたかのごとくに俗事の大群と葛藤させる
そのような「現実」の何というしつこさよ!
まるで不実の愛を理想の愛と思い違える私を
嘲笑して楽しんでいるのだと言わんばかりのように。



 [−G

その花の虜となっているという
紛れもない事実を十二分に知りながらも
自らの花瓶に生けるには 
あまりにもわけ知りの現実に翻弄されてしまっていた。
今や私はわが萎えた石の足をさすりながら
後悔の涙を主なき花瓶に流しこんでいる。
その花は私の潜在意識の中で
求め続けられていた理想の絵姿だったのだ。 
だが私がその花をはじめて見た時は
すでに活花となって高価な花瓶の中で婉然と生を謳歌していた。
恐らくその花は高価な花瓶の中で定められた生を終えるだろう。
それでも私はその花の香が自分の花瓶に忍びこみ
石となったわが足をその魔力でもって
芽ぶく躍動へと変えていってほしいと願うのだ。



 [−H

プツンと糸の切れた凧が
これまでの束縛から解放された喜びを表すかの如くに
クルクルと旋回しながら小さくなって
私の視界から消えてなくなろうとしている。
指先に吸い付いてグイグイと締めつけた糸の重圧がばらけ
冷やかな痛みを伴って私の心にポッカリと穴をあけた。
いずれは地上に舞い落ちて
私の手の届かぬ好事家の愛玩物となることを思うだに
ヒシヒシと襲う寂寥感にさいなまれながらも
それを探し求めることのできない今の私が恨めしい。
もともと私が持つにはあまりにも高価であっただけに 
身分不相応な欲望を抱いた私だったが
もしも私がそれを持つにふさわしいまでに生まれ変わったならば
再び私の指先にその命を託してくれるだろうか。



 [−I

人一度魂を託されこの世に生まれた以上
誰もが享受しうる生の喜びを味わうべきだ。
例えば男と女の出逢いにおけるあらゆる形態の営みを
味わって見たいと企むのは
贅沢な生活を送りうる者のみに言える不埒な戯れ言ではない。
例えばたった一つの愛の出逢いを
生の終わりにまで成熟させていく幸運を味わえない人が
挫折の見返りとして新たなる出逢いに賭ける気持ちに
背徳の烙印を押すべきではない。
例えば未熟なままの衝動に踊らされ幻滅した武骨者が
回復求めて甘く熟しきった泉で癒されようとするのは
心汚れた所業として咎められるべきではない。
愛と言う名が求める純粋な単純さが 
こんなにまでして小心なこの私を苦しめるとは…



 [−J

小心であるが故のおどおどした振る舞いは
誠実であろうとする純粋な気持ちを 
時として破廉恥な夢想へと駆り立てる。
あれほどまでに眩しく輝くしなやかな肢体に魅せられて
抑えることの出来ない思いを感じながら
手出しの出来ない憧憬だと打ちひしがれてしまうと
「信じる」ということの虚しさが
美徳でさえも嘘の言葉で塗り込めてしまうものなのか。
類い稀なる知性のかぐわしささえも汚濁の溜め池に放り込んでは
意趣晴らしを謀る私の不埒な楽しみが
小心であるが故に許されるとするならば
それを軽蔑しつつも笑って受けとめてくれる思い人の心の広さに 
どれだけ慰められることだろう。
何もなしえないがそれでも何かを求め続ける私の心が…



 [−K

この世のなべての女のもつ魅力をかきあわせても
秘密ありげな一人の女の魅力には見劣るという
そのような賛美があってもよいものだろうか。
いや、これは賛美ではなく呪詛の嘆きではあるまいか。
何故ならば私の心を捕らえたかの人も 
決してたった一人からの眼差しを受けるということも
又たった一人からの快楽に満足してしまう筈もないからだ。
かの人に備わった天性の美徳は
聖人をも欲深き道化に変えるし
幼な心をも肉欲にたぎらせる。
その癖呪詛のるつぼの上でしなやかに舞うかの人は
パトロンに抱かれている最中にも
新たな美徳の生け贄のイメージを描いているのだ。
ああ、かの人こそ疫病神以外の何者であると言うのだろうか。



 [−L

日々の平安に隠されたさざ波をものともせずに
ひたすら己の世界に埋没できる唯我論者には
後に襲ってくる怒涛のような悲劇の嵐は
目覚めれば瓦解する恐ろしい夢のようなものかもしれない。
見過ごせば何事もなく通過していくものを
見栄と突っ張りの小賢しい装飾に逆手を取られて
次第に疫病神に取り憑かれていく私は
後始末の難しさを瞬時の快楽の享受と引き換えてまでも
それが与えてくれる手妻を期待するようになってきている。
人々を喜怒哀楽の世界に誘い込んだおのが分身をまき餌にして
自分のすべてを曝け出したなら
頑なに閉ざしていた氷も和み                 
温んだ水の合間から虚構の愛の遣い手が
胸も露わに私を迎え入れてくれることを信じて。


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