Z 夕影草の巻





                心が敏活にさえなれば
                死んだようになっていた各器官とても
                おのおのその懶眠の墓の中から躍りいでて
                皮を脱いだ蛇のように
                新たな敏捷な活動を始める。

                             『ヘンリー五世』四幕一場



 Z−口上

とめどもなく交錯する光と影の舞台に
たまさかスポット当てられたしょぼくれピエロが登場する。
つかの間のヒーローとなったピエロの
名演奏家を思わせる仕種に
寸時の快楽を求める観客は
ただただ絵そらごとの雰囲気を楽しむだけでよい。
だが舞台以外に現実の匂いを嗅ぎ分けられない
年喰いピエロの哀しい性は
まことの楽器でもいつわりの名曲を奏でなくてはならない。
名曲と演奏家と楽器との三位一体が
「まじめな」世界での美の源であったとしても
いつわりがまことになる世界では
人にあざ笑われるピエロだからこそ
堂々といつわりの美の創造者になることが出来るのだ。



 Z−@

兎角シェイクスピアの世界へとのめり込みたがる天使は
アテネの民を誑かすタイタンさながらに
人生の節目節目でその美徳を輝かせるのか。
生まれた時はオフェーリアそのものであった天使は
長じてはジュリエットの大胆さでもって
デズデモーナのごとき人妻となったが
ベアトリスの機知とロザリンドの勇敢さを備えるその上に
コリオラヌスの従順な妻の如くに聡明だったとは。
最愛の人のためにはポーシャにもなりきれるであろう天使は
恐らくヘレナの狡猾さをまねることも
クレシダの悲運に見舞われることもなかろうし
天使を恋する老獪なフォルスタッフが数多く現れたとしても
イモージェンの誠をもつ天使なら
マリーナの無邪気さで軽くあしらえることだろう。



 Z−A

その天使がもっているという赤銅色に磨き貫かれた小箱は
その恵まれた配剤によって、実は
その持ち主の体の一部分になっていたのだ。
その小箱は幾夜にも思い人にまさぐられ
その悟りの袋を肥やしにして、ついには
その重厚さをましていく怪しげのオルゴールにもなっていたのだ。
その道しるべたる音色は
その体内に己に見合ったもののみを受納せんものと
その周りの軽薄な囁きをものともせずに
「真理」という名のその魔術を究め
その限りなく黒い空間は
その止むことなき芳香を放っては
その生けにえとなった限りなく多くの好事家から
「快楽」という名のその果実を貪り喰っていたのだ。



 Z−B

その赤銅色に磨き貫かれた小箱は又
匂うような紫の布地で被われ
あらゆることが許された部屋の中で
さらに幾夜にも思い人によって息を吹きかけられ
絶え入るようでいて勝ち誇った美声を奏でては
安住の宝庫にしまわれて眠りにつくと言う。
それでも内からおのずとほとぼしる生の躍動によって
飽食に傷つくこともなく
神秘の輝きを失うこともなく
より一層に磨かれることを欲して止まないとも聞く。
ああ、歴史を横目でしか見れず
そこかしこで無視され続けた片思いのしもべが
歓喜の涙で濡れた小箱を一度なりとも拝めぬのは
それは不公平というものだろう。



 Z−C

何も知らない他人ならば
高貴な香りが隠されているとつい想像させる
それほどまでに神秘な小箱でも
その香りを独占することを許された王者にとっては
がらくた同様に扱われることだってある。
あまりに香りなれたそのもの憂さから
それの隅々まで賞味し尽くされたと錯覚され
それのもてる無限の価値が見落とされるってこともあるのだから。
さすれば、好き者達よ
王者のみに開けることを許そうとするその気品の貴さが 
王者のもの憂さからむなしく朽ち堕ちていくならば
虎視眈々と窺う王者のしもべによって
その無限の価値が開示されたとしても
王者以外の誰が咎めるとでも言うのだろうか。



 Z−D

小箱を守る水晶の輝きも
時にはきまぐれな心にまかせて
己のための安息日を設けてほしいものだ。
幾夜にもパトロンに磨かれ
年輪を感じさせるこの水晶も又
とてつもなく色を変えて見たり
つと輝きを止めてみたりして
その変幻自在の自由の心を現してみてはどうだろうか。
水晶の値打ちを知ればこそ
そのような安息日も
永遠の輝きのための補給であると
ついかまをかけてみたくもなるのであるが
それでもその輝きを秘かに愛している人が来た時だけは
逆にその安息日を設けないでいてほしいものだ。



 Z−E

時には気まぐれになる感性の世界では
たった一度の人生の
たった一度の出逢いによって
磨かれた水晶の輝きを愛してしまった好事家は
たまさか所有者のいない安息日が訪れようものなら
たちどころにその公平な心をかき乱し
人生の鑑定人であることも忘れて
情け深くも欲深い一介の収集家に変身するものだ。
というのも、お固い人達よ
たった一度の依頼を受け
たった一度の秘密の輝きを見てしまったその好事家は
かの法律で約束されたパトロンを気づかうほどの心の余裕を
かの気まぐれを戒める理性の中にさえも
持ち合わせていないのだから。



 Z−F

いたずら好きの風が厭だったのか
それともまだ残る無色の性がまばゆかったのか
頑なにその充満する空間を垣間見せない
誇り高い白百合の居直りに
心の余裕を朽ちさせられた
花盗人ほど哀れなものはないものよ。
ましてや若さを失った花盗人ともなれば
いぎたない野心を委縮させた気持ちから
本当の花にひかれた本心までも
誤解されはしまいかと恐れて
戸惑いの心を強くしてしまうのだ。
若い花盗人ならば過ちであると笑い飛ばし
老獪な花盗人ならばお粗末な座興であるとかたずける
たったそれだけのことであると言うのにだ。



 Z−G

後ろめたい屈辱感によって
失われた存在空間を求めて
濡れた心の哀れさを訴えかける花盗人も花盗人ならば
冷やかな変貌に翻弄されてしまった花盗人に
まるで心変わりをしたように
その充満する空間から眉態を見せはじめ
一度朽ち果てかけた花盗人の野心を
その柔らかい花びらで
再び奮い立たせようとする白バラも白バラだ。
だがこの情け深い白バラは知っているんだろうか。
いずれ王となるべき花盗人の
求めているものが何であり
それを手に入れたからと言って
もはや赤いバラなど探し求める気持ちのないということをだ。



 Z−H

なまじ知性という手だてを持っているが故に
何かを手に入れようとして
なにごとも鋳型に填めこんでしまおうとする人間の
何ともならない習性は
時として自作自演の独り芝居に狂わせられるものよ。
己自身でさえも掴み切れぬ
知性の軟弱さを棚に上げて
意中の人を見切ったとする傲慢な感情に
盲目になってしまった恋する人間の
何とも不様なのは皆も御存知の筈。
外からしかものごとを見れない知性でもって
他人の心を懐柔しようとする
そんな不埒な人間に
キューピッドの矢など仕掛けられるものか。



 Z−I

ほんにどうして人は
ほんの一時の空白が生み出された時に
思いもかけぬ浮気心が
お互いの心の中に駈け巡っていると
これっぽちも思いたくはないのだろうか。
恋する人間の心の錯乱も
そのために生じた
こっけいな悲劇と言うよりも
おぞましい喜劇と言えまいか。
何となれば恋する人間ってやつは
何かしら恋する相手の前に来ちまうと
宙に浮いた己の過信の苦味を噛みしめながら
心に襲ってくるその哀しみと怒りの交錯を
お道化た仕種で見せ続けなければならないからだ。



 Z−J

昔ならいざ知らず今の御時世
女性に対して常に憶病な男が
時として襲われる強烈な心の高ぶりは
これまでに信条としていたフェミニストの仮面を
ものの見事に打ち砕いてしまうものだわい。
いないな、いっぱしのフェミニスト気取りが
実は己の憶病さを包み隠す擬態であったことまでも
セクハラしのぐ今の女性ならば
鋭くそして醜くげに暴きたててしまうだろうよ。
すべてのことに物おじしなくなった女性と
すべてのことに陰りを見いだした男とが
失った男性の本性と
獲得した女の本性とを巡って
とっ換えっこをしている世の中迎えちまったものだから。



 Z−K

「時」の鎌ととっ換えっこしたために
心の襞に刷り込まれた男の残滓が
微妙に蠢きだす時
どうやら憶病な男の悲しい性は
わが身の対処の仕方にも無知であるが故に
やみくもに自己嫌悪の泥沼に嵌まり込んでしまうものらしい。
それでいてこの憶病な男が
この心の地獄から逃れようとして
女性に対して常に取る仕種ってのが
相も変わらずフェミニストの仮面を
被り続けることでなければならないとは情けない話だ。
かの禁断の木の実を賞味しようとしてはうそぶいた
これまでの男の勲章は
一体全体どこに消えちまったのだろうか。



 Z−L

皺寄る肉の代償となった栄誉の勲章も
意中の鳥にはどれだけの食餌となると言えるのか。
確かに勲章に転ぶ胡蝶は数多くいただろう。
又勲章にあやかりたい働き蜂も数多くいただろう。
でも彼らには衰えた肉の二、三切れを与えれば
それで十分だとは思うのだ。
しかし肝腎かなめの意中の鳥には
年相応の勲章はかえって目障りなのだ、御同輩。
ましてや飛び交う虫をついばみ
己の雛を育てあげた年たけた鳥にはなおさらだ。 
こんなにまでに熟れた意中の鳥には
真摯の心で知力のすべてを傾けるだけではなく
それこそ時間を逆行させてまでも
皺寄る前の肉の厚みを取り戻す魔法の杖がまっこと必要なのだ。



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