X 胡蝶蘭の巻
まァ!不思議な!
あヽ、まヽ、多数の立派な生類!
人間という者は、まァ、何と美しいものじゃ!
こういう人達の住んでいる処は、
まァ、どんな見事な、新奇しい世界であろう!
『テムペスト』五幕一場
X−口上
ねじれた「今」に喘ぐ間抜けなヒーローと
ふくらむ「未来」を企む抜け目ないヒロインとを
ひとつの時間のスペクトルで
ごた混ぜにするまやかしのテクニックは
「時」のキューピッドのお手の物だ。
左の目に映ったヒーローの
怨嗟のメロディーを堪能した後は
右の目に映ったヒロインの
勇気ある独り立ちへのスタートにも
コミックな拍手を送っては
ダークな心の可憐な唇に
今を自白させるエキスをそっと流し込む。
一人舞台でのセリフを終わり
眠りの休止符貪るヒーローの未来を貪るために。
X−@
醜い影に怯える悪魔の狙いは
それ自体が光である美しい聖母を
コケットリーな生き物に変えることだった。
大地に根づいたこの善たる生き物は
創造され尽くしてはいない己の体に気づき
創造されすぎたパートナーの外見に惹かれたが故に
その悪たる本質を見抜けなかった代価として
不公平な成長を強いられてきた。
創造主の拙速によって
空洞に閉じ込められてしまったエキスの塊を
蹂躙されながらも命脈を保ってきた子孫の一人は
来るべき世界のヒロインたらんとして
わが台詞を解読せよとばかりに
舞台の中央ににじり寄る。
X−A
観客の称賛の嵐は
わが手にあるとばかりに
自信の品を振りまくヒロインの
そのふくよかな胸に秘められた高貴な野望は
権謀術数という言葉を必死に探るナイーブな陥し穴。
その陥し穴に詰め込まれたエーテル香る肉の襞を
軽やかに披瀝しながら
ひたすら己の役に没入する。
そしてすべての果実を分け与えるかのように
その創造され尽くさない体を
これみよがしに打ち震わせながら
その凌辱された唇から絞りだされる隠された真実を
朗々と謳い始めるのだ。
現代の悪魔に挑戦するかの如くに。
X−B
神が絶対であるならば
なにゆえに神は相対的な現状をこの世に造ったのか。
神が完全な存在者であるならば
なにゆえに神は不完全な存在者たる人間をこの世に造ったのか。
弱き者より発せられるナイーブな疑問に対して
神自身は沈黙を守り
代わりに地球の支配者たる強き男達が
「試練」という造語でもって
貞女を凌辱しその肉体を削ぎ落とした。
支配する者の小理屈が普遍的な真理とされる
そのように出しゃばりやの社会にあっては
欠けては満る月より派遣された天使も又
「試練」という名の修羅場を潜り抜けねばならないのか。
「復讐」という名の意味を知ろうともしないのに。
X−C
太陽が男であり
月が女であるという
そのような地球の神話を
いまだに語り継ぐ男達の影を
科学という名のあやかしの権威が
思考のぬるま湯で鍛え上げたがために
男達の影は実像のごとくに地上を徘徊した。
この取るに足らない小理屈が通用する
地球の磁場の嵐で隠された女達は
自縄自縛の息であえぐ男達の
水ぶくれになった股間を
命の源である呪術で
慈悲深く清めた。
拒絶することによっては女の平和は得られないと思い込んだのだ。
X−D
繰り返しの儀式にふと覚える平和の戸惑いは
陰りを見せた人形の贅沢な悩みと言えるのだろうか。
おなじみの空間で味わうかすかな舌の疲労感も億劫になり
艶を失ってしまった肉体のどうしようもない思いが
昔の光を求めて恨めしげに錯綜してくる。
未来への魂を宿した仮の肉体としては
すでに一つの使命をはたし終えたわけだから
もはやこれ以上の冷めきった儀式は不要な筈なのに
身の安定を求めんとするいぎたない配慮から
つい愛という名の脅迫に屈服するのは
もともとが心を捨てた影の人形だからだろうか。
もしも自ら思い抱く夢を求めることができるならば
受け身の肉に付着する評判を落としてまでも
作られた幸せへの権利を放棄してみるのもどうだろうか。
X−E
これまでの従順な妻の使命が
猛り狂う夫の波を鎮める人柱であったとするならば
それに殉じようとする不幸な妻の
妙なる悲鳴の調べは
恍惚という名の忘我の報酬によって贖われていたのか。
それとも愛の名故に編み出された損得勘定によって
妻が血の痛みを忘れて
持続という名の安心立命の境地を
確保するためのものだったのか。
未だにそのいずれかの選択しか許さない夫の
エゴイスティックな思い込みに逆らって
これまでの妻とても夫を仰ぎみたままに
そのいずれでもない独自の境地を
まさぐり始めるようになっていた。
X−F
確かに一つの使命を果し終えた者に残された惰性は
透明になっていく愛のしつこさによって
逆にものたらなさの感触を
女の執念に植え付けているものだ。
その中にあって
どれほどにエゴイスティックな男からの
猫なで声の攻撃にさらされても
侵略者の心をも呑み込む現代のクレオパトラは
持続に潜む疑惑の陰りを見抜けるだけの力を
持ち合わせるようになってきているだけに
男の値打が下がるたびに
その冷めきった目で見上げる高まりは
かつての海鳴りとなって
次第にその振幅を増してきている。
X−G
次第に大きくなる魂の輝きは
新たな自然への恭順をまさぐり始める。
大いなる庇護の元にあった一人の陽気な妻は
ふと気付いた自由の瞬間を逃さず己の道を歩もうと決意した。
夫の寛容が続く限りは
妻の生の解放感を味わうことは決してあるまい……。
そう開き直った妻が
一匹の完全なる雌豹に変身するためには
ものわかりのよい夫の堪忍袋の緒を切ればよい……。
奈落からのささやきにも似たこの誘惑に
妻の心は去勢されたハムレットとなって
夫の腕の中で微妙に揺れ動く。
これまでの生という死か
それともこれからの死という生かの狭間を。
X−H
昔は白は白、黒は黒であった。
そして善でなければ悪、悪でなければ善であった。
今では白と黒、善と悪との見分けは
もはや使い古された辞書では不可能になった。
白は黒、善は悪であるという鵺のささやきが
一つのものを幾通りにも演じさせたのだ。
黒を白と押し寄せたかつての男の嵐に立ち向かいつつも
一つの新しい辞書を手にした女という名の生き物が
弱々しかったかつての仮面をかなぐり捨てて
それまで抑えられていた人生の謎を解いてしまったのだ。
これまでの生という死を生にまで復元し
それを無難に堪能しながら
これから迎えようとする死という生には
非難のかけらもないとするための謎を。
X−I
人生の謎は歴史の謎。
短絡的な理性の思い上がりに盲目の少女にされた歴史は
湧き起こる情念の力で自らの鎖を解き放した。
理性が感性の一つの姿であるように
文明が野蛮の一つの姿であるように
大人が子供の一つの姿であるように
男は女の一つの姿でしかないのではないか。
この奇妙な真理に到達するために
三百万年に及ぶ人類の歴史は何と長い遠回りをしてきたことか。
今や女の中に男の属性を見いだした女は
今度はその男の属性を駆使して
男にも女の属性があると認めるだけの寛容さを示しつつ
男と女の間には権力者の捏造する「不倫の愛」なるものが
ほんのかけらもないことを唱いだすようになった。
X−J
常に忠節であることを義務づけられた平和な過去の怨念に
晴れやかに別れを告げる新しい時代が到来したのだ。
この生活革命の到来を待ちに待った無権力者は
これまでの忠節の対象とされた嘆きをよそに
権力者の修羅場に欲望の対象を見つけだしたのだ。
小さな手探りでも繰り返せば大きな爆発となるように
ついには君臨してきた英明な権力者の王冠までも
二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、そして、八つ
まるで恐れを知らぬかに次々と粉砕していく。
これまでの伝統の上の権力にあぐらをかいて
共感の挨拶を送った良心的なヨハネでさえも
己の良心を逆手に取られて反って丸裸にされ
ついに「あるもの」と「あるべきもの」との間の
そんな矛盾にしばられる現実に戸惑いだしたのだ。
X−K
山鳩の慰めとなっていた肉の矛盾を
生に目覚めた心がみごとに被い隠して
不死鳥となった一羽の母鴎が舞い降りた。
飛翔の度に浴びたこれまでの熱い日差しで
知らず知らずに洗練され貪欲になった母鴎は
地上の鳥となってからも早速に黒い嘴を開けて
己の夢を膨らますに格好の獲物を啄み始めている。
かなたでは地上に降りたこの母鴎を心配気に見ては
声援ともつかぬ悲しげな声を発しては旋回する子鴎達。
一声、二声、三声、その遠くなっていく声に反比例して
地上の母鴎は平和な過去のイメージを強く喚び起こされる。
その度に彼女は空を仰いでは「大丈夫、大丈夫」と合図する。
そして高ぶった心で固く誓うのだ。
「これからは萎えた足を鍛えて悪魔の地上を闊歩し廻るのだ」と。
X−L
すっかり別の生き物へと変身した女は
今や過去の恥部を打ち捨てて
「より大きなもの」に触手を動かし始める。
「より大きなもの」へと向けられる
鷹のような女の眼は
その吸い寄せる波長を
あらぬ方向へと送り込み始めている。
女の持つ男のための子宮は
「より大きなもの」のために解体され
両性偶有の権化となって
悪魔に踏み荒された地上で新しい子供を宿し始めようとする。
その雄々しいまでの奮闘ぶりは
力なくも地中に消えた弱き者の魂を呼び覚まし
「より大きなもの」のための弾劾の檄を飛ばし始める。
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