V 百日草の巻





                      亡した物を讃めるのは
                   辛い追憶をさせることである。


                      『末よければ総てよし』五幕三場



 V−口上

のっぴきならぬ「時」の襲撃に怯える者には
「思い出」という名の空虚な充足しか
今を保証してくれぬものらしい。
朽ちかけた記憶の箱をいとおしむ
どす黒く染みついた灰色の我欲が
「時」をオブラートに包み込んで
数少ない男の過去の存在証明をしようとする時
暗闇に映し出された小さな過去が
男の持つ拡大鏡によって
存在の臭気を撒き散らし闊歩する。
そうだ、空虚な充足にうちひしがれたこの男にも
男であったと錯覚させた酩酊の存在時間があったのだ。
狂おしげに己を掻き立てる夏の夜の夢芝居の幕間に
愛と恋との存在空間を描いてみせるのも一つの粋狂だろう。



 V−@

漲る時間と空間を忘却のかなたに捨て去った
年老いた戦士の剣のさばきは
それでも見果てぬ夢の中でのみ発揮される。
狂おしいまでにたゆたう中で
突きあげてくる痙攣の予感を噛みしめながら
戦士は己の夢の中で
ひたすら道を極めようとする。
決して終わろうとはしない繰り返しの営みの中に
真実の輝き求める戦士の剣は
確実に相手を倒すまでは
鞘には納まろうとはしない。
戦士とは私なのか、はたまた私が戦士なのか。
夢の中でのみ語られる情念の鎮魂歌が
いやが上にも年老いた戦士を挑発する。



 V−A

十代の恋は無垢の匂い。
彷彿として湧き出る命の漲りが
想像の帳に挑発されて燻ぶり続ける。
知らぬ間の溜め息も淡い時間の中に消えていく。
二十代の恋は雑草の匂い。
強烈な個性に翻弄されながらも猛り狂う情念は
未完成のままに根を張っては一つの真実を求め続ける。
三十代の恋は調度品の匂い。
なまの情欲は洗練され
ひたすら己に見合った香りに焦点を定めんとする。
作られた自然を見れば情欲も落ち着きを覚える。
四十代の恋は紫煙の匂い。
怠惰な日常性を背負いながらも男と女は
嗜好の品を味わうようにたゆたいをもたんとする。



 V−B

海を背にした女の強烈な体臭は
蠢き出さんとする子宮のナイーブな身悶え。
青から放たれる無数の可能性を滋養にして
武骨な未熟者の精気を挑発する。
山を背にした女の間歇の叫びは
流れ出した水の川となる最初の調べ。
白の醸し出す冷やかな感触を受けとめて
奢った木石の野望を鎮める。
街を背にした女の滑らかな薫りは
躍動せんとする作られた自然の逞しい響き。
雑色の肢体を美しい衣に被い隠して
手馴れた男の牙城を次々と篭絡する。
これら自然の娘達によってさまよい続ける王たる男こそ
いずれは狂い死にする幸運の持ち主なのかもしれない。



 V−C

「知」の衣に包まれたクールな顔の女は
淑やかな論理に潜むエゴイズムを知らず知らずに弄ぶ。
かまをかけてくる有象無象の不埒な挑発に
拒絶と賛同の花びらを巧みに撒き散らす。
「情」の衣に包まれたシャイな顔の女は
引きづられた過去から訣別せんと今を窺う。
引き裂かれた幸せの狭間に見え隠れする新たな快楽に
残された命のすべてを托そうとする。
「意」の衣に包まれたファッショナブルな顔の女は
仕組まれた恥辱を忘れる術を知っている。
止めようとしても止まらぬ未知の陶酔に
思い上がった男のシンボルを一つ一つと粉砕していく。
男に与えられた特権を合わせもつ女にとって
女の性を合わせもつ男こそふさわしいのかもしれない。



 V−D

おのが男と確信する女のなまめかしい直観は
男のわずかな仕種にも断絶の微妙な匂いをかぎつける。
男のなにげなく定まらぬ意識の陽炎から
おのがもとに関心をよせぬ男の身勝手をあげつらう。
おお、女のなんというするどさよ。
おのが男の特性を見切っているわけでもあるまいのに
男には嫌みに思える女のこの刺は
夢中になった女に固有の愛の表現であるとしても
女からの思いもよらぬこのしっぺ返しに
うろたえて捏造する男の言い訳は
かつての陶酔を感謝する男の
女を傷つけまいとする思い遣りなのか。
それとも、猛々しく女の神殿をかき乱した男が味わう
癒されぬ思いの現れなのか。



 V−E

かつては癒されることのない飢餓の感情に
ほんの一時のねぐらにさえも潜りこんでは貪り喰う
猛々しいが壊れやすいガラスのような夢追い人だった。
今は体臭の染みこんだ塒の中で
わがものと錯覚するパートナーとの日毎の睦みに
物足らなさの感情に挑発されながらも
動こうにも動きえぬ石のような夢追い人。
これからは捏造されたねぐらの中で
偶然の女神が放つキューピッドの矢に翻弄されながらも
練りこんだ感性を奢侈の心に送りこんでは
背徳を楽しまんとする樹脂のような夢追い人たらんとする。
まるで変身の術を授けられたように
次々と変わる泉のねぐらを信じては癒そうとする
かの夢追い人の何れに真実の私が潜んでいるのだろうか。



 V−F

花をめでる遊び心なき木石にも
幾多の風雪によっては詩人の魂が潜んでくる。
冬の温室で見つけるカトレアは育成される花だが
二度の狂い咲きに絶えられないかの如くに
人に買われて自らの命を絶つ。
春の野のタンポポは昔からのなじみの花だが
初めてそのひかえめな逞しさが分かる頃には
自然の古里に根付いて動こうともしなくなっている。
夏の庭に咲き誇るアジサイは完成された美を彷彿させる花だが
コンクリートの中の住人を和まさんとして
目眩く余韻を現在に残し続ける。
秋の鉢のキクは日本の香りのする花だが
朴訥な繊細さを手折られてこそ
人前であでやかに舞える花となる。



 V−G

夢幻のかなたに飛び去ったカナリアの甘美な囀りは
二度とは戻らない。
今にも透き通るような薄い青色のカナリアは
幸せを求めて居場所を転々としたが
私の肩にとまった時は調教された囀りしかできぬ悲しみから
雛鳥の成長を見る気とてなく姿を消した。
囀ることを知らぬ白色のカナリアは
鳥篭の出口が開いている隙に飛びだし私の肩にとまったが
囀る喜びを体得するや手の届かぬ名残りの鳥に変身した。
さて己が生を謳歌する紫色のカナリアよ。
盛りをすぎた私にはもはや囀りを鑑賞する力はあまりない。
その残されたわずかな力が尽きるまでに
運命に弄ばれた私の肩にとまり
その甘美な囀りで私を楽しませておくれ。



 V−H

人はよく言う。
よき妻とよき子供達のいるよき家庭に勝る幸せはないと。
だがそれは幸せという名の甘美な牢獄に閉じ込める
苦い停滞でしかないと開き直るのは
それを持たない者の単なる強がりであるのだろうか。
夢幻の安らぎを求めて家庭を見ない妻と
そのために不安を背負う子供達を世間に見る時
男の強がりは浄化されて然るべきなのに
相も変わらず表と裏の葛藤にさいなまれ
あてもない意地の旅路をひた走ろうとする。
これが男に背負わされた家庭の姿なのだ、
これが男の甲斐性なのだと強がる一方では
よき夫とよき子供達のいるよき家庭を見ると
つい花盗人の嫉妬にも似た思いが私の心を脅かしにくる。



 V−I

すべての人に等しく与えられる試練も
おのが身に降りかかると
何故にかくも大仰に捉えてうろたえてしまうのだ。
甘美な酩酊のすき間に付け込んできた
「不幸なのは自分だけなのだ」とする私の冬の物語が
目眩く思いの嫉妬となって
顔のない女の蹂躙された絵姿をちらつかせる。
私の心の中で醸成され始めた情念の炎が
私の履歴書を一瞬の内に灰にして
私を裸にひん剥いていく。
するとその顔のない女が手招きしているように思われて
いぎたなくもにじり寄ろうとする気になるのだが
ああ、それなのに一体どうしたことなのか。
私の意志に反して私の足はいつも立ちすくんでしまっているのだ。



 V−J

春には春の、夏には夏の、秋には秋の
そして冬には冬の卓越性があるように
人も又その都度の卓越性をもつのだろうか。
人の「このもの性」とは決して消えてなくならない筈なのに
夢の中の人だけは
春には春の、夏には夏の、秋には秋の
そして冬には冬の「このもの性」を垣間見せている。
私自身の「このもの性」は変わらないつもりなのに
かの人だけの「このもの性」の方は
時には暖かく、時には暑く、時には涼しく
そして時には寒く変化するのだ。
ああ、そのように見えてくるのは
私自身の不変であるべき「このもの性」が
かの人だけには変化していると見透かされたからなのだろうか。



 V−K

一瞬の忘却が取り返しのつかない時間の変化となって報復する。
これまでに多少は何かをしてきたという自負も
この悲哀感を前にしては
己がまるで無能な人間であることを宣告する
無情な裁判官のように見えてくる。
己を知ることが円熟した人生の報賞であるとするならば
老いゆく速さを如実に感じさせる誤りがどうして生じたのだろうか。
「老い」にこだわりだした人間は
煩悩のはかない成果としての
「知」と「徳」と「名」とにとりまかれるよりも
煩悩の欠けらもなかった赤子のような過去を羨むべきなのか。
それとも今からでも夢の中の人と共にできる
生の煩悩だけは永遠に残ってほしいと願うべきなのか。
残酷な残余の「時」はそのいずれを演出するのだろうか。



 V−L

私の肉が喪失し骸骨になろうとする私自身が
私の意志の下で沈黙の永遠を噛みしめる時
私に和みのメロディーを聞かせてくれるのは誰であろうか。
私の妻や私の子供をはじめとする白日のパートナーは
私が家庭を支えた返礼と思って
私に和みのメロディーを聞かせてくれよう。
私も又共に生きてきたというその反省の故に
私への追憶を誘うそのしがらみを拒みはしない。
だが、私のそんな思惑とは裏腹に
実は、私が待ち望んでいるものがあるのだ。
それは、私の心根があるがままに共鳴を与えたお陰で
いつしか、私の理解者ともなった隠れたパートナーが
しみじみ、私が残した記念碑を読んで
私だけに和みのメロディーを聞かせてくれるということなのだ。


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