U 夕化粧の巻





                     もう十時だ。
                  世の中がどう進むかがこれで分る。
                  九時であったのはつい一時間前のこッた。
                  もう一時間経つと十一時になる。
                  ああ、こうして一時々々と段々熟していって
                  そうして腐るんだ。


                          『お気に召すまま』二幕七場



 U−口上

昏惑の域にさまよう己も知らず
虚名と虚飾にあぐらをかいて
毛むくじゃらの己を飾り立てるのも
経験背負う男の哀しい性。
関り持たぬ安全地帯で羽を休めながら
観念の飛翔に身をまかせ
借り物の「知」を喰いあさるのも
言葉を売って生きる男のいつもの手くだ。
狡猾な二重奏に踊らされる年喰い虫には
隠しようにも隠しきれなくなった
恍惚の肉を思い起こさせねばならない。
虚名が虚名でしかない思いを
虚飾が虚飾でしかない思いを
腰骨ふらつく男の身に知らしめるために。



 U−@

エリートになりきれなかったわが身の程を
嘆く気持ちのその背後から
追従のメロディーが奏でられると
何故に心はやすらぐのだろうか。
ひらめき知らぬ凡庸さでも
「時」と引き換えてやっと得たなけなしの財産が
自分よりも不幸な人から
大げさな称賛を受ける時
自分以下の存在あるを確かめつつ
自分自身の存在根拠を求める
そのような自分が何とも恨めしい。
十と二つの満月の夜を何十年にも亘って見てきて
やっと築き上げた男の器量が
こんな形で私を慰めるとは…



 U−A

今更に背伸びをしても始まらぬのに
昔日の感触に踊らされ
つい若者を「未熟者!」と嘲けては糊塗する
その若者紛いの突っ張りが
虚しさ覚える嫉妬となって
跳ね返ってくるのは何故なのか。
いやおうもなく老いを感じさせ
何事をするにも一息つかせる「時」の仕置きが
どうやら始まったのか。
そんな自然のしっぺ返しにあって
「時」と引き換えて得た財産は
若者ならばそのままの価値を持つだろうが
老いた人ならば「時」が経つごとに
どんどん目減りさせていくだろう。



 U−B

見るからに醜悪な異物を彷彿させる
わが分身たる手をじっと見つめると
幾多の冒険を重ねてきた過去の背徳が
そこに凝縮されているかのように思えてくる。
この汚濁に満ちた手が覚える背徳の感触が
征服感を伴う心地よい思い出となって
黄昏のぶよぶよとした肉体を憎々しげに叱咤する。
未熟であったが故に
「もの足りない」思いに触発されて
「やり抜く」という言葉に取り憑かれた若気の至りを
さらさら咎めるつもりはない。
だがゆとりの心が人間にとって不可欠なのだと
思い知らされる今になって
この手の方が妙に私の心を挑発してくるのだ。



 U−C

「より以上のもの」を求める心も又
人間にとっての不可欠の要素だぐらいは
承知するだけの年輪を重ねてきた私でもあったが
狂おしいまでの痛痒感を癒してくれた
過去の栄光の先兵が
非情の「時」の鉄鎚によって
老いの軟弱な異物と化してしまった現在
借り物の若さの武器によって
これからのわが快楽の道が突っ走れるのだろうか。
悟りきった分別の心によっては
到底太刀打ちの出来ない不測の憧憬物を
肉体のパートナーとするための技が得られるものなら
心の病気に取り憑かれた思い出など
奈落の底に封じこめてしまいたいものだ。



 U−D

さしたる病気でもないというのに、この頃の
たった一度の営みによっても
おのが力の限界を知らされる
そのような機会の何と多くなってきたことか。
これまでの慣性の力で
表の帳じり合わせるテクニックは持ち合わせているものの
おのが心の舞台裏でたじろかされる
そのような葛藤の何と多くなってきたことか。
日増しに脱色していくちぢれっ毛によって
おのが体の凋落ぶりを示される
そのような嘲りに反発しても、この頃の
痛みさえ覚えるようになった私の肉体の証しは
おのが戦いの帳を終焉に導こうとする
「時」の鞭の残酷な思い遣りのせいなのだろうか。



 U−E

もはやお定まりの対象に向かってしか
力の発揮する場を保証されなくなった
栄光の肉体の衰退は
「より以上のもの」を求める私の心のたかぶりを
不埒な空想へと駆りたて始める。
あれほどまでに協力しあって
生を支えてきたその素晴らしさが
「時」の鞭が挑発する不協和音の調べに
哀しげに消え去っていく。
一度生を与えられたならば
生きとし生けるものすべてに賦与される悟りの宿命が
ついにおのが生の途上にも襲ってきたという
そのような戦慄は
一体何によって癒されるべきなのか。



 U−F

肉が目覚めれば心はプライドにこだわり
心がはやれば肉は眠りにつこうとする
そのような肉と心の不協和音は
齢を重ねた者の宿命なのだろうか。
確かに若い時にも不協和音は存在した。
そのときは肉と心のいずれもが
それだけで生を燃焼させるに十分な働きをして
後悔という名のあと味の悪さを残しはしなかったし
不協和音は創造の触媒となっていた。
しかるに今を苦しめるこの不協和音は
まるで弱い者同士の意地の張り合いのように
衰えかかった己の名誉を守ろうとしているだけなのだ。
ああ、この苦しみたる歎きは
三十年も前の私には到底理解できなかっただろう。



 U−G

なんとか眠れる肉に鞭を打ち
昔日の感性取り戻そうと
足掻く気持ちにほだされて
ついよこしまな手づるに引かされた内気な中年の醜聞が
奇妙な共感の調べとなってあえいだ心をくすぐる。
「破廉恥!」「年がいもなく!」と
あざ笑われ罵声を浴びる彼も又
肉と心の不協和音に焦る同憂の士であったのかと
思わず独りごちる渇いた唇が
彼の勇気ある態度を賛めこそすれ
咎める気持ちの毛頭ないのが不思議なくらいだ。
世間の良識にも縛られながらも
それを守るのが名誉と思う私の本心を
いささかも咎めたくないばかりに。



 U−H

年がいもなく投げやりな気持ちになって
時間の悪戯が課す肉体の衰えを
むりやり無意識の彼方へと追いやってしまった私は
真面目な時間から解放された
一時の手慰みとして覚えた玉遊びに
言い様のない生の喜びを感じとろうとする。
快い肉の躍動に
昔日の名残を思う存分に彷彿させながらも
こんな遊びを真実共有できるのは
やっぱり同世代の人間だけなのかと
ふと思い知らされてしまうのは
戦うことよりも
享受することにしか行き場のない
そのような自分をすでに見いだしてしまったからなのか。



 U−I

享受するだけが目的だとしても
同じ経験を積み重ねてきた者同士によってのみ共有される
なじみの生の感触が
荒削りの世代に対しては通用しないで
うろたえちぢみ込んでしまう。
この新たな屈辱感に打ちひしがれて憂さ晴しをするのも
同世代の人間だけが分かる哀れな話だが
「失敗を重ねることによって、人は大きく生まれ変わる。」
「それが人生というものさ。」と
舞台を降りた老いたヒーロー達が
グラス片手のポーズをとって
肉体の暴力性を失ってしまったこの私に
得意げに言って聞かせようとするのも
実際それ以上に又哀れな話なのだ。



 U−J

衰えた肉体の歎きをよそに
日常の営みが課す暴力性の方だけは
体面を保つための忠実な手先となって
欲と道連れの緊張感をいつも体内に運んでくる。
それから解放されたいとして
つい透明のエキスを口にする私は
普段の分け知りのポーズをかなぐり捨てようとする。
しかし日常の営みに沈潜する執念は
人工の人間関係を解体し去っても尚
近代人のすべてが囚われているという
「生きること」と「欲望を満たすこと」の同義性を
否定しようとはしない。
エポケーにさまようそんな心の片隅で
飽くなき欲望の権化が姑息に息を潜めている。



 U−K

齢を重ねただけの現実の欲望は
激しかった忘我の営みの思い出を
一時掻きたてることだけしかできないのか。
かつての忘我の一瞬は生きられた時間の証しとして
酩酊の現在においても強い力でしなり
未知の世界へと誘なうための謎をかけてくる。
すると心の襞に刻み込まれている
生きられた時間の共同正犯であったパートナーの
消しようのない苦悶の爪跡が
知らず知らずに浮び上がり  
強迫観念に取り憑かれた私の思い出は
過去の時間を復元しょうと必死になるのだ。
艶と硬さを失ってたじろぐ
過去の栄光めでる老いたペリクレスのように。



 U−L

人と人との出逢いの謎で
その最高の境地たる微妙な感触を求めて
人は人たる所以を思い知らされる。
己のみの感性によっては 
この微妙な感触が絶対に醸成されないことを
過去の幾多の刺は教えるが
人はそれを盛りをすぎて初めて知る。
だがそれでも
人と人との出逢いによって
その内へと秘められていくほどに増す実在性につき動かされ
限られた空間を磨り減らしてさまよう灰色の我欲が
限られた命のつきぬ間に
何とかしてエクスタシー求めてさまようのも
生の持つ一つの謎でもあると私は思うのだ。


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