T 匂豌豆の巻





               神々よ、お前さん方は、とかく何か知ら疵を混ぜて
             そうして人間をこしらえようとしてござるようだ。


                      『アントニーとクレオパトラ』五幕一場



 T−口上

黄土に住まう神秘によって
己を知らされた男は
「灯火管制」の言葉を共有する歴史の奴隷だった。
借り物の「西洋」と染みついた「東洋」の錯綜するままに
天命を知らされた男が
与えられた運命をなんとかせんものと
涙ほどの分身を吐き出せたのも
哀れで律義なヤマト心のせいだった。
だが、可も不可もないたそがれ男の本当のドラマは 
隠された情念の中に燻ぶっているものだ。
さすれば、常に他人の肉を貪り喰って生きる現代っ子達よ
その貪り喰う本性のままに
この男、演ずる「夢芝居」を鑑賞して
そのシニカルな眼を鍛えてみてはいかがなものか。



 T−@

常に組織の一人でしかない人間の雄叫びは
白昼のもとでは単なる機械音だ。
やがては忘れ去られるその響きは
ある時は社会造りの提言であったり
ある時は自然との対話であったり
又ある時は愛と憎しみの表現であったりしただろう。
だが常に組織の一人でしかない人間の限界は
そのような己の仕種が
エリートからの借り物であったことに気づけない
そのような弱さにあるものなのだ。
力を欠いたが故に受ける社会からのしっぺ返しに
人生の負荷を背負わされた仲間の何と数多くが
仕組まれた空間の中で
むなしく呻吟していることだろうか。



 T−A

常に組織の一人でしかない人間の雄叫びは
それでも独り寝の闇夜では
内なる己の意味をそっと探し求めていることだろう。
たとえエリートによって物笑いの種にされ
むなしい自己満足の限りだと謗られても
それでも己の生きた証しを作ろうと
かたくなに思ってしまっているからなのだ。
例えばそんな仲間の一人として
若さを過去のしとねに捨てたものの
いまだ残り火を清算しきれない男がここにいる。
この男、気が狂れたとでも申そうか
早熟の若者達に笑われまいと
その怨念となった愛の戯れ歌を
ここに披瀝してみせようと言うのだ、お立ち合い。



 T−B

内気でつきあい下手のすべての人間よ
生まれてこの方フットライトを浴びぬとなると
愚直を美徳とする以外に披瀝の術を知らず
常に誰かの後ろ姿を仰いで
打ち捨てられた糧を拾うが関の山よ。
それでも世間体に合わせてあくせく勉強し
まっとうに恋もするお蔭で
伴侶見つけ子供を持つに至ったと誇りたいのなら
その味も香りもない人生に
微かな欲望の充足を垣間見たとでも言いたいのか。
波瀾万丈の人生は己に無縁だったとおめく
その悟りきった皺腹に
わけ知りの人生訓が隠されているのなら
恥を晒して一つ叫んでみるのもいかがなものか。



 T−C

何事にも一番にならねば
気のすまない者に備わった奢りの精神が
「有能」であることの自負によって縛られるとするならば
何事にも一番になりきれぬのに
さほども気にしない者に隠された悟りの境地は
「無能」であることの自覚によって生まれるのか。
齢を重ねることと同義である経験の膨らみが
マクベスにもなれず苛立つ己を
いつしか己を超える者の限りなくあるを認めることによって
物分かりのよい己へと仕立て上げていく。
だが初めから何事も分からねば苦労しないものを
少しのものが分かる才覚がある限り
真の物分かりのよさを求めて悩むのも
「無能」のなせるもの憂さの一つなのだ。



 T−D

小賢しい才覚の故に
一つの想念の殿堂を築き上げたとしても
いつもそこそこの評価に留められる人間には
誤解されることが
己を知る唯一の機会なのを御存知か。
愚直が愚直に終わるメリットが
さしたる非難を受けないところに求められると言うならば
それはそれなりに
一つの筋が通っているのかもしれない。
しかし愚直な人間に冠される「善良」という名の形容詞が
「無能」という言葉に置き換えられているのを知った時
「誤解だ」、「誤解だ」、「誤解だ」と
何度も抗弁するだけの力が
愚直なだけに果たして残っているだろうか。



 T−E

「否」、「否」、「否」と言えることが
人間に残された大事な本性だと言う者には
正真正銘の愚直な人間の気持ちは分かるまい。
「小心」という名のパートナーを
いつも人生の道連れにしている愚直さ故に
枷はめられた彼の悲哀は
まさに「否」を言い切るだけの勇気がないところにあるのだから。
そこで、皆の衆
それでも彼が愚直の地平に隠れ住む原石のような生を
自分で見いだしえなかったならば
そうするすべを会得せぬ
ねっからの「無能」のせいにすべきなのだろうか。
それともそれを見過ごそうとする
冷めた世間のせいにすべきなのだろうか。



 T−F

言葉のあやなす「魔術」を
会得した者に与えられる「名誉」の称号が
「物知り」であるとするならば
言葉を鈍重な唇で「密閉」された者は
冷めた世間では常に「無知」の蔑称をおし戴かねばならない。
たとえ言葉の宝庫がおのが「胸」にしまわれていたとしても
言葉で「申し開き」のできない者が
損な立場に立たされる「巡り会わせ」は
欲望と生との「蜜月」時代に落ちこぼれた
おのが歴史の「眼鏡ちがい」によるものだ。
だが「未知」の遠さに挫折して
「間違い」を恐れるその狡猾さによって
「無口」になった者も又
この時代の指導者達と同じ穴の「狢」なのだ。



 T−G

したり顔の物知りの心に隠された奢りの気持ちほど
時として嫌悪をあおりたてるものはないだろう。
このしたり顔の物知りが
白紙の世間を蹂躙した時
人を説くことで糧をえる「何でも屋」の汚名を浴びて
善人面と悪人面の二人の紳士から
ともども報復されるものなのだ。
所詮人とは社会の奴隷である限り
物知りを僭称する己の「知」は
借り物の鋳型をとられたものであり
安っぽい対象に対しては
威力を発揮するかもしれないが
「無知」の心に秘められた
高貴なデリカシーまで掴むことはできないのだ。



 T−H

さてさて、このしたり顔の物知りほど
この高貴なデリカシーをもつ
だが表面では粗雑さしか現さぬ原石の
無数にあることを悟らねばならないのだ。
齢を重ねるたびに失う直観の代わりに
経験の膨らみで得た洞観を羽ばたかせることこそ
真の物知りの美徳であるのに
毀誉褒貶の渦を飲み込んだしたたかさによって
満ち足りた人生を迎えるようになると
誰もが虚飾の仮面に酔いしれてくるのだから厭になる。
ああ、このしたり顔の物知りよ
今こそお前は
本性を示しえぬままの原石が、ずっと昔から
何かを告知しようとしていたことを知るべき時なのだ。



 T−I


満ち足りた生活を送っている者が
新奇なものに無感動なのは何故なのだ。
かの者の多くは
不足をかこつ同世代人に対しては
何事も過去の怠惰のせいにして
虚構を灯す暖炉にもたれかかっては
おのが過去の不行跡を薪がわりに使うのだ。
部屋の壁に映しだされた揺らめく紋章は
幾多のしかばねを捏造して得た賞め言葉に
呪詛の醸し出されているのも知らないで
何も告知されない「今」に執着するおのが姿なのだ。
いやはや、そのように満ち足りた者が
新奇なものに無感動になれるのは
何事もないおのが「未来」を守ろうとするためだけなのだ。



 T−J

世知に飼い馴らされてしまった半神半獣の凡愚の徒は
したり顔でごまかし生きてきた過去の不行跡を
断固として贖うべきだ。
凡愚なればこそ賢しげに開きなおる美辞麗句の万華鏡は
同じ凡愚の徒に対しては
物知りの輝きとなって多くの操にかしづかれるかもしれない。
だがそれは所詮うつ蝉の空騒ぎとなって
燻ぶりの炎の中に消えていくうたかたの慰めでしかないのだ。
おお、目覚めよ!
このどうしようもなく
世知に飼い馴らされてしまった半神半獣の凡愚の徒よ
汝はその虚しい驕りの中にあって
たった一つでもよいから
呪詛から解放された心の襞に触れたことがあっただろうか。



 T−K

美辞麗句の花に彩られた美食の故に
怠惰を美徳とする不治の病に冒された者は
美しくも醜い現在の楽しみを忘れて
過去の破門された苦しみを思いおこすべきだ。
頼るべき人とてなく
人生の荒野に放たれたままに
なんとか自立せんとてもがき苦しんで
やっと手中にした過去のあの感激を
もう一度思いおこすべきなのだ。
かりそめの満腹感に踊らされ
あれほどまでに怠惰を憎んだ己の過去が
位攻めをされた現在の己によって打ち消されていく
そのような喜びに幻惑される
そのような悲しみが他にあるだろうか。



 T−L

確かに過去を忘れたい者にとっては
その苦悩の期間は長かっただろうし
さして輝かしくもない虚名を得た時は
人生の下り坂を歩んでいたという
その愕然たる思いは同情も出来よう。
そうかと言って
まるで独り善がりの仙人のように
怠惰を生き甲斐とする程の世捨て人になれるものでもない。
そうだ、たった一つでもよいのだ。
これからの汝の恋人が心底望むものを
わがことのようにして
心血注いで満たしてやるだけでいいのだ。
肉体が汝の魂を保証し
時代が汝の愛するものに心変わりを命じるまでは。


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