郷 愁 篇





                    楽しかった日曜日をさがしに行こう
                    見つかったら
                    もう黙って生きていよう

                       (立原道造「小さな墓石の上に」より)



    口上

三次元の世界で初めて白の視界が開けた。
その視界が私であったのか
私がその視界であったのか
他人にとれば、それは無意味な出来事だが
自分にとれば、それは意味ある出来事だった。
やがて三次元の世界が動き
白色の視界に色が着き
その色が次々変わるのが見えた。
他人にとれば、それは無意味な経験だが
自分にとれば、それは意味ある経験だった。
五十路の生を長らえるまで
郷愁のようにその意味あることの意味を模索していた。
他人にとれば、それは無意味な行為だが
自分にとれば、それは意味ある行為だった。



    @
昔からそれはあった。
生まれてからもそれはあった。
意味ありげにそれはあったようだった。
人はそれを大事にしていたようだった。
だがそれはあまりにも見慣れていた。
だからそれはいつもなれなれしかった。
そういうものに限ってそれを欲しなかった。
だからそれが値打ちものとは思わなかった。
時が経ち
時代が変わった。
軽い気持ちでそれを欲しようとした。
だがそれはよそよそしかった。
初めてそれが値打ちものだと分かった時
それを得るには年を取りすぎていた。



    A

一度悠久の海辺にたたずめば
年経ても人は潮の香りを味わうために又訪れる。
だがほんの少しずつ香りは以前の精気を失っている。
嗅覚を殊更に掻き立てようとするのに
年ごとにそれはよそよそしくなり
年ごとにそれは遠ざかろうとしている。
十代の頃はそれは己のために存在していたのだ。
そこに来るとそれは喜び勇んで媚をうったものだ。
だが今はそれは次の人を見つけたかのように
邪険なそぶりで過去の義理を果そうとしている。
この悠久の海辺には、これまで
同じ年ごろの同じ思いの人がいたのだが
気が付けば今年その人はいなくなっていた。
気が付けばそこには見知らぬ若者がいた。



    B

内から迸る生への衝動が
「何かをせねば」の思いに変わると
人間という名の生き物は過去を打ち砕く。
なるほど、そのために人間は
「何かをするための原理」を捏造しては
眼前に立ちはだかる障害物を突き崩していく。
しかし、そのために人間は
その捏造物に拘るために
己をただ守るための美徳へと誘なっていく。
かつては、生きるための武器であったものが
この世に取り残されまいとすればするほど
時の流れのえじきとなって砕かれていく。
ほんの少しずつ、
本当に、ほんの少しずつ…



    C

物事の終末を感じる時
時の流れのえじきとなった哲学者が誕生する。
これ以上のことを望まず
これ以上に身を使わず
ただ今あるものと一つになり
それをひたすら愛することに
ただ今あることの思いを増幅させる。
未練というのもない。
悲しみというのもない。
「もっと」の気持ちもなく
「やるぞ」の意志もない。
たった一つの覇気があるとすれば
今ある己をパックにして
元いたところに戻ろうと捻くれることだけだった。



    D

当り前のことを当り前にすることに
抵抗感があった黄色い嘴の昔が懐かしい。
当り前のことなのに当り前のことでないかに
抵抗したかった青い髭の昔が懐かしい。
さも捻くれて
凡庸でないことを主張してみたかった己が
経験という重荷を背負う内に
当たり前のことを当たり前にすることの
意味深さを感じとってしまっていた。
当たり前の中に真実がある。
凡庸さの中に誠実がある。
こう言ってぶっきらぼうに悟る背後には
脱色した赤髭なでる無能な小市民の
したたかな老獪さが隠されている。



    E

昔なら一つのことをしようとすれば
無能な人でも一つの知識でこと足れた。
今の世の中はややこしく
有能な人でも沢山知識を知らねばならぬ。
沢山知識を知ったとしても
役立つ知識は一つだが
それでも他の知識を知らずにいたら
一つのこともできぬ地獄に閉じ込められる。
そのために知って知って知ろうとしても
次々見知らぬ知識が我が身を襲う。
そんな毎日が続くなら
知っていなくても馬鹿にはされず
何もしなくても苦しみ起こらぬ
そんなユートピア描いてどこが悪いと言うものか。



    F

退っ引きならない苦しみを背負わされた時に
救いの手を差し伸べてくれた人のことは
いつまで経っても忘れないように
子供の頃に意地悪したり
大きくなって足を引っ張ったりした人のことも
いつまで経っても忘れないものだ。
だが癪に障るのは
いつのまにかそれを許してしまっているばかりか
反ってそれを懐かしむ気持ちさえ生じることだろう。
人間ができたからだと言い張るつもりはないが
偶然出会ったその相手から
「済まなかったな」と謝られて
「生きていてよかったな」とつい嬉しくなるのも
人の心とはもともと弱いからなのか。



    G

弱い者が強い者に負けるのが
生き物の宿命であるとしても
強い者が弱い者に負けてやるというのは
たとえ生き物がホモ・サピエンスであったとしても
そうそうできるものではないものらしい。
幼い頃に虐められ悔しい思いでいた者が
年月経つ内に力をつけ
いつしか虐めっ子を陵駕するまでに至った時
まず思うのが仕返しすることであったとしても
世の中の誰もが咎めやしない。
だからこそ今ある己の幸せが
その虐めっ子のお陰なのだとしみじみ思うようになった時
初めて人は
己の生まれ育った過去を語る資格が持てるのだ。



    H

都会という名のジャングルに住めば
便利と言えば便利だが
人や物の動いてこその都会に
初めから生まれ育った人は
結局淋しい思いをしなければならないだろう。
たとえひとかどの名士の称号受けたとしても
次第に無能になっていくそのわびしさに耐えかねて
生まれ育った都会の片隅にたち寄った際に
見知らぬ人や見知らぬ物ばかりを見たら
田舎という名の古里を持つ人以上に
「二度とくるべきではない」の思いに圧倒されるであろう。
その癖再び訪れる機会に出会った時に
「ここは自分の生まれ育ったところなのだ」と
殊更に古里にしてしまうのも哀れと言えば哀れな話だ。



    I

「俺、帰るところないんだな」と呟く
働き盛りを過ぎた人の寂しさは
古里を持たない根っからの都会人の宿命だ。
「都会が俺の古里なのだ」と開き直れる人は
恐らく働き生きていくだけのものを持っている。
だがそれは単なる幸運に恵まれたのにすぎない。
大抵の古里失った者は自ら古里を捨てたのではない。
古里を捨てさせられたのだ。
欲望満たす都会に憧れ一旗挙げんと来た者は
ひとつの幸福・ひとつの愛を願って
飽きればさっさと古里へ帰れるだろう。
だがそのお陰で都会に生まれた子供は
二階に上がったものの梯子を外されたような思いで
たった一度の生を都会に埋もれさせてしまうのだ。



    J

一度この世に生をうけたなら
道極め天下を治め名誉を占め
思うがままの生を全うしなかったならば
何の生きてる意味あると
気負ってくだまいた青春時代の大ぼらが
赤提灯の灯が紫色したネオンの輝きに変わる間に
どす黒い泡となって
いつのまにか姿を消していた。
巨大な機構の中で
小さな欲望を満たすことで一日を過ごしたその後で
夢とは所詮夢なのだと
悟ってやっと見つけだす己の姿を肴にして
旋律乱して慰めるたそがれ男の独り言が
少ない余命に檄を飛ばしている。



    K

秦の始皇帝ではないけれど
余命の少なさを実感するようになると
不老長寿の薬を探し求めたくなる気持ちを
五十路の誰が笑おうか。
老いたファーストではないけれど
限りある命の人間が真実求め足らないと
悪魔に魂を売ってまで
「若さ」を買って恋をしてみたいと思う気持ちを
五十路の誰が笑おうか。
世の中のどんな力の持ち主も
世の中のどんな知恵の持ち主も
それまでのありとあらゆるものを失っても
もう一度過去に戻れる魔法が使えるなら
老いたらすべてが使うだろう。



    L

ああ、老いたドン・キホーテはどこへ行こうとするのか。
かつてはドルシネーア姫に恋をし
風車に立ち向かっていった過去を持つ
あの若いドン・キホーテは一体どこへ行ってしまったのか。
あの時は
ドルシネーア姫への恋は間違ってはいなかった。
風車に立ち向かっていった挑戦も間違ってはいなかった。
だが窓際にたたずむ今は
ドルシネーア姫がドルシネーア姫でなかったことの冷たさを
風車がただの風車であったことの空々しさを
「現実」を知ってしまった見返りとして味わっている。
ああ、見果てぬ夢に絶望したドン・キホーテよ。
あの若いドン・キホーテはどこへ行ってしまったのか。
この老いたドン・キホーテは一体どこへ行こうとするのか。


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