弁 明 篇





                    人間は
                    人工的な自己弁護の動物でしょう
                    自己肯定の動物でしょう

                           (川端康成「たんぽぽ」より)



    口上

橋を幾つも渡って生きてきたからは
今更哲学者ぶるつもりはない。
だが五十路になり先も見えてくると
今まで生きてきた人生はよかったのだろうかと
反省することの多くなるのも不思議なものだ。
私が私である以上
私の人生を否定することができないとなると
たとえこれまでの人生が苦しかったとしても
たとえこれまでの人生に不満があったとしても
「それはそれで素晴らしかったのだ」と
自らを賞めて鉾を納めねば
私の人生もたまったものではないだろう。
たとえそれが愚者の弁明と聞こえても
愚者は愚者なりに知性もあれば意志もあるのだから。



    @

知性を持って生まれたからは
あれも知りたい、これも知りたいと思うのも
意志を持って生まれたからは
あれもしたい、これもしたいと思うのも
人として生まれたからは当然だろう。
残念ながらこの世の人は
時間と空間の囚われ人である以上
すべてを知りすべてができる
そんな力まで持ち合わせていないのだ。
それ故に己が知らないということを知り
己ができないということを悟れば
人としての義務は果たしたのだとする
そんな屁理屈が分かるようになるのは
己の器量を売り尽くした五十路になってからだろう。



    A

名が売れた人がよいとは必ずしも言えぬ。
冨のある人がよいとは必ずしも言えぬ。
地位のある人がよいとは必ずしも言えぬ。
名であれ冨であれ地位であれ
それらはかりそめの飾りなのだと言い切れる
そんな悟りを開いた人は
この世に本当にいるのだろうか。
所詮は凡人の哀しい性が
そんな疑問の言葉を吐かせるのは
自らを酩酊の世界に誘なった時でしかない。
しらふの時に野心を隠そうとしたお陰で
持てる才覚を認められなかった大多数が
この時にこそ生きることの無常を訴え
五十年の免罪を得ようとするのを一体誰が咎めようか。



    B

それなりに何でもこなす才覚を
努力の所為で身につけた
そのいっぱしのプライドが
頼まれ望まれおだてられ
つい便利使いに走らされる
そんな嫌悪に満ちてはいても
人からできた男よと言い囃されたことの幾たびか。
それなのにわが事柄に出会う時
あと一息の頑張りで
ことが成し遂げられるその前に
いつも息切れしてしまい
あぁあぁ又かと諦める
そんな苦汁にまみれていても
人から欲のない人と誉めそやされたことの幾たびか。



    C

過去に偉業を成し遂げたのでもない。
現在の社会を導いているのでもない。
さりとて未来を動かせる見込みもない。
それなのに凡庸さの中に混ざっている野心のお陰で
二番煎じの営みする内に
いつしか役立つ人というレッテルが貼られてしまっていた。
ものを打ち壊しことを荒だてることが
何となく恐ろしくなってきた今
上を見れば詮無いことなので
人よりは多少は立派な机を前に
ほんの数人の部下に取りまかれながら
気負うでなく衒うでなく
地位にふさわしい仕事だけをこなす
そんな五十路の人間になってしまっていた。



    D

一応世間が認める地位にいて
それなりの社会的貢献もし
従ってそれ相応の収入もある。
ただそれ以上の見込みもなく虚空遍歴始めると、
人はどのようにして己を納得させるのだろうか。
所詮はそれは己の器量のなさによって
落ち着くべくところに落ち着いたのだから
それでよいと言っておくのはよいことだ。
だがそれ以上の功を積み重ねられなかった時には
己の器量のなさを棚にあげて
例えば「巡り会わせ」が悪かったとか
例えば「家庭生活」がうまくいかなかったとか
例えば「上司」に疎まれたとか言って
あまたの言い訳を考えておくのもよいことだ。



    E

生きるという意味探し求めたその結論が
あまたの経験積み重ねることであったのか
それとも己に眠っている魂を呼び醒ますことであったのか
五十路に至るもとうとう知らないままにきた。
経験を積み重ねたところで
魂が呼び醒まされた記憶もなかったし
魂が呼び醒まされたところで
経験となって生きた感触もなかった。
それだけでも凡庸さを示すに十分だったが
それでは何かもの足らなく思い
魂が呼び醒まされたわけではないのに
今、過去の経験を得々と喋りだしたくなるのだが
そんな凡人の本性を晒したとしても
天才でないのだから誰も文句は言わないだろう。



    F

天才と言われる人ほど何もせず。
いつしか凡人の仲間に入り
並の人生でこの世を終える。
鈍才と言われる人ほど働き好き。
それでも凡人の仲間から抜けられず
並の人生でこの世を終える。
世の中うまくしたもので
天才凡才かきまぜて
行き過ぎもさせず遅れもさせず
適度に考え適度に歩む。
それならばそんな人生が一番と
思わせられて慰められて
名もなく冨ない凡人街道を
ひたすら歩いていくのが一番よいと言うことか。



    G

とても大事な人生街道で
「大丈夫、大丈夫」と言うだけ何もせず
いざ本番を迎えた時に
「こんなはずでは」と慌てふためき落ちこぼれ
ことがすべて終わってからは
「いつでも行けるのだ」と誇り残して諦める。
そんな輩がいるかと思えば
とても大事な人生舞台で
「大丈夫?、大丈夫?」とくどい程に念を押し
ついに迎えた本番で
「あがってしまって」と力残して失敗し
ことがすべて終わってからは
「これでよいのだ」と低いレベルに甘んじる
そんな輩もいるものだ。



    H

すべて人生というものは
差し引きゼロになるようだ。
そろばん片手に冒険しても
美しさ求めてさすらいみても
正義信じて吠えてはみても
帳じり合わせる神様たちが
今度は一つ冷ましてやれと
挫折挫折の擬音の笛を
吹きならしてはもてあそぶ。
逆に敗れ傷つき鬱いでいても
次は励ます順番と
嘘の勇気をちらつかす。
所詮人生というものは
差し引きゼロがお好きなようだ。



    I

所詮形あるものは崩れ
命あるものは絶えるのに
人のみが「名」という名のもとに
何かを残す力を持つと言う。
そう、この詩人もどきのたそがれ男も
形崩れ命絶えた時を意識して
何かを残そうとしてあくせく生きてきたようだ。
一体何のために何かを残そうとするのか。
一体誰のために何かを残そうとするのか。
「名」という名のもとに
何かが残ることを信じるおろかさのために
人のみが死ぬのにも形容詞をつけようとする。
所詮「生きる」とは「喰う」こと以外に
何も考えられないと言うのにだ。



    J
美味な経験をたっぷり喰うて
ことの善し悪しまでが味わえるとなれば
不幸にも仕出かしてしまった不始末の言い訳が
なかなかできにくくなるものだ。
たった一つの抜け道は
年取ることを逆手に取って
これみよがしに哀れみ乞うことだろう。
病気と言えば不始末許される社会にあって
年取ることもある意味で便利な病気と言えようか。
殊更に老いの歎き節を吟じつつ
他人の油断を誘ったその挙げ句
ついに己の夢を見たならば
死んだ振りして生を得る下等動物そっくりなのだが
生きてておいてけぼりにされるのよりはましだろう。



    K

十代には十代の夢と挫折があったとしても
二十代には二十代の夢と挫折があったとしても
三十代には三十代の夢と挫折があったとしても
四十代には四十代の夢と挫折があったとしても
「それは決して間違った生き方ではなかったのだ」と
人は後から考える。
それを兎や角言える資格は誰にもない。
どんなに偽った生き方であろうと
どんなに悪い生き方であろうと
どんなに汚い生き方であろうと
「それは致し方のなかったことなのだ」と
人は後から認めてしまう。
それを兎や角言える資格は誰にもない。
すべて五十代から積まれる経験で決まってしまうのだから。



    L
年を取り経験を積むその中で
人間必ずしも偉くなるとは限らないが
今の世で偉い人というのは
過去にそれだけのことをしているものだ。
賢い人は人並み以上に勉強しているし
金持ちは人並み以上に働いているし
名選手は人並み以上に練習している。
欲持ちそれを満たせば生きたこととされる今
偉い人というのは
所詮貪欲な生き物なのだと定義してみても
人並みのことしかできなくて五十路を迎えた輩にとっては
それは負け犬の遠吠えに等しい。
それならば生きて生きて生き抜いて
彼らの年を追い越すことこそ大事だろう。                         完


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 付記- 「男の独り言」は平成元年、朝日出版社より刊行されましたが、現在は絶版となり、
    入手不可能となっております。「八五郎屋の書庫」にてオープンするに当たっては、誤字
    等、若干の文言を訂正しております。(三橋 浩)