遊 楽 篇
もとより遊ぶということは
退屈のシノニムであり
遊びによって
人は真実幸福であり得るよしもないのである
(坂口安吾「欲望について」より)
口上
りりしく男が仕事をしたら
人生楽しまなくて何の意味あると
たびたび開き直ってみたのだけれど
持って生まれた性分なのか、
それとも人を気にしすぎるのか
とうとう五十路を迎えても
しんそこ遊楽の世界に浸りきれなかった。
それでもささやかな楽しみは
人並みに幾つか持ってきたとは思うのだが
所詮は年相応の楽しみ方でしかなかったのは
私が世間体を気にしていたからだったと
つくづく思い知らされる。
一体いつになったなら隠れた私をひっぱがせるのかと
あれこれ思い煩うのもやっぱり年の所為なのか。
@
表に現れる姿としては
紳士と言われる人達も
隠れた個人の世界の中では
秘かな趣味をもっていたとしても不思議ではない。
表と裏・本音と建て前・公と私が
便利に区分けされる今の世にあって
「謹厳居士」・「真面目一筋」・「石部金吉」の烙印が
不名誉の響きをもっていることぐらいは
年取る功で分かってきているからだろう。
それでもつい調子に乗りすぎて
巷間知られる破目になり
「へー、あの人が」と言われ一時の蔑み受けたとしても
笑って許される人ならば
文字通りに彼は紳士であるだろう。
A
文字通り金・金・金の世の中で
人より働き人より稼ぎ
地位と名誉を得た上で
暇でき何かせんものと
金にあかせてお大尽遊びのできる者はよい。
文字通り金・金・金の世の中なのに
欲もなければ名誉もいらず
世間のことなど気にもせず
ひたすら道を究めんものと
夢を信じて聖人暮らしのできる者はよい。
お大尽でもなければ聖人でもないその上に
少し欲持ち少し世間を気にする俗物には
手に少しの金だけは残そうとして
うっぷん晴らしをするのが関の山なのだ。
B
人の心は不思議なもので
なかなか手に入れられないとなると欲しくなる。
欲しいものほど値打ちが高い。
そのために人はあれこれ算段し
それが生きる力を与えたりもするのであろうが
これ又人の心は不思議なもので
いつでも手に入れられるとなると厭になる。
厭なものほど値打ちは低い。
そのために人はあれこれ算段し
それが浮気心を刺激するのであろうが
どっこい今度の心は無垢ではない。
無垢でないから要領のほども知っている。
要領を知れば知るほど賢くなるが
そのために人の狡さも味わわされる。
C
どんなに汚いことをしていても
どんなに屈辱を味わわされても
年月という悪戯者が割り込んでくると
忘却という名の魔法でもって癒してくれる。
どんなに些細なことをしていても
どんなに小さな喜びであっても
年月という悪戯者が割り込んでくると
美化という名の魔法でもって拡大してくれる。
まっこと年月というものは不思議なもので
過去の経験とやらの奇妙な調理人のようなものだ。
覇気ある人に対しては
創造のための強力なばねにしてくれるし
覇気なえた人に対しては
回想して楽しむという仕事を与えてくれるのだから。
D
金あまる日々平安の世の中で
「仕事が趣味です」とさらりと言える人がいるならば
それは過去に貧しい生活をした者だろう。
よんどころなくも戦争という大飯食らいに
飢えとは何であるかを教えられた彼らは
天地静大の世の中になっても
遊びの意味を喪失してしまったお陰で
遊びの時間まで仕事の時間にしてしまっていた。
仕事は仕事、遊びは遊びと厳然と区別する彼らは
仕事を生き甲斐とする術は知っていたが
仕事を遊び化する術は知らなかった。
仕事場で遊びのように仕事をしている人類を見た時
腹が立ったのは勿論であったが
鳥肌が立ったのも確かだった。
E
仕事は仕事、遊びは遊びと
区別をつけられ生まれ育ってきた旧人類にとっては
仕事を遊びのようにし
遊びが仕事になっているのだと振る舞える新人類の気持ちが
どうにもこうにも分からないでいる。
「時代の違いだ」と言ってしまえばそれまでだが
せっかくここまで生きたのだから
何とか時代に残ろうと
仕事のことは別にして
遊びに夢中になったとしても
旧人類は所詮仕事のことが気にかかるものだ。
三つ子の魂百までのたとえにある如く
体に染みついた習慣の前では
いかなる努力も泡のようなものなのか。
F
働くことは善いことだが
遊ぶことは悪いことだとする習慣を
物心ついた時から身に着けさせられた今の五十路の人間には
たとえ仕事帰りの赤提灯の中であっても
はたまた休暇を取っての釣り三昧に耽っていても
どこか仕事のことが気にかかるものだ。
公認の自由の時間なのだから
別段気にする謂われもない筈なのに
「遊んでいる」という思いが心に残り
仕事の疲れを癒しているのだとか
明日の仕事のための充電をしているのだとか
とかく理屈をつけたがる。
新人類と言われる今の若者には
仕事の鬼と言われる昔の人のこの気持ちは分からないだろう。
G
どれほど鬼足持ったスプリンターも
五十路になれば現役でおれない如く
どれほど感性が豊かであったとしても
五十路の階段昇ってからも
二十の感性を持続させたなんて話しは聞かれない。
何と言っても二十の感性の素晴らしさは
欲すれば一分ででも決着をつけられるということだ。
ほんの数秒で心を整え
ほんの数秒でことにあたり
ほんの数秒で感性を爆発させて
生のエクスタシーを満喫できることなのだ。
量を重ねてまでも昔の感性を取り戻したいと願う者にとっては
最小の量で最大の質を享受できる繊細な感性ほど
癪に障るものはないのだ。
H
遊ぶにも時間が必要な世の中でも
感性の繊細な人ならば
ほんの一瞬の楽しみでもそれを長くに保たせる。
遊ぶにも金が必要な世の中でも
感性の繊細な人ならば
ほんのわずかの入り用でもそこから多大の楽しみを引き出せる。
ところが人生は皮肉なもので
どんなに感性の繊細な人でも
何度も場数を踏んでしまうと
感性の繊細さを無くしてしまうようだ。
長い楽しみでももの足りず
贅沢な楽しみでも味気ない。
若い者と年寄りの間で繰り返されるこせこせした葛藤も
どうやらそのあたりに謎が隠されているようだ。
I
こせこせと欲望を満たして生きるのが
今の世の中だと言えるのだが
さりとて一人で生きては行けぬのは
同じ欲持つ他人がおって
男と男・男と女・女と女という如く
大人と大人・大人と子供・子供と子供という如く
はたまた上司と上司・上司と部下・部下と部下という如く
丁々発止としがらむからだ。
ところが人生不思議なもので
初めはともに意識して
お互い構えたりもするのだが
いつしか俗なる人は俗なるままに
高貴なる人は高貴なるままに
その見事なシンフォニーを楽しむ味が分かってくるのだ。
J
世の中は決して独りで行けないと
痛がゆいまでの代償を払って得た筈の人生の味が
外なる人間関係の煩わしさと
内なる血のしがらみによって
口の中で苦く変わっていくことがある。
別にそれらが厭だと言うわけではない。
別にそれらが恐いと言うわけではない。
外なる人間関係の滑らかさと
内なる血のぬくもりを
幾度も味わってきた過去は過去として
そのままにしておいたままで
ただただ独りになって生の時間と空間とを持ちたいと願うのは
己自身の存在が薄れていくことを気遣う
老いを感じだし始めた者特有のエゴイズムなのだ。
K
これから迎える老いの人生で
何かをする算段のとれない人にとっては
記憶の箱を開けて今を楽しむ一時だけが
リアリティーを持つものなのか。
それが同世代のいる中で開けられるのなら
そのリアリティーも倍加はしよう。
だが若い世代のいる中で開けられようものなら
本人は経験の重みとやらを伝えているつもりだろうが
それが糞の役にもたたないことを知る彼らにとっては
年の数に敬意を表してうなずいているだけの話なのだ。
それが一度のことならまだ愛敬がある。
それが二度、三度になってくると
「ああ、又始まったぞ」であしらわれ
存在の重みが風船玉のように軽くなっていく。
L
人から何と言われても一度羽目を外したい。
人から何と言われても一度破廉恥してみたい。
人から何と言われても一度無理を通してみたい。
人から何と言われても一度無体に振る舞いたい。
人から何と言われても一度われを忘れたい。
人から何と言われても一度わがまま通したい。
己の過去がそうであっから昔を取り戻したいと言うのではない。
己の過去がそうでなかったから憧れて言うのではない。
家庭が分かり社会が分かってしまったお陰で
良識という箍をはめられて
自分で自分を規制してしまうその根性が情けないのだ。
なまじ少しの地位、少しの金、すこしの力のあるお陰で
一から出直す気の毛頭ない五十男の
そんな夢想しかできない姿が情けないのだ。
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