虚 勢 編





                       雨ニモマケズ
                       風ニモマケズ
                       雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
                       ………………
                       サウイフモノニ
                       ワタシハナリタイ

                          (宮沢賢治「手帳より」より)



    口上

言の葉たける孔子によれば
四十にして惑わず
五十にして天命を知り
六十にして耳順い
七十にして矩を踰えず。
だが男の夢は文明と共に始まり
虚勢の仮面をつけた雄叫びとなって今も繰り返されている。
そして欲望を掻き立てなければ生きていけない現代は
四十、五十は洟垂小僧……
六十、七十は働き盛り……。
見事栄冠を勝ちえた少数者が
欲望を掻き立てられなくなった多数者に向かってそう叫んでいる。
窓際で聞くこの私も−洟垂小僧?
それなら虚勢の仮面を探す苦労をしてみるか。



    @

人が人であるためには
それなりの苦労をせねばならない。
人は考える力を持つが故に文化を持つが
それによって
人独特の不安を抱かされる。
人は自分がしんそこ理解されたいと思う一方で
他人からやすやすと理解されることを恐れる。
人は他人の力を必要としていることを知っている一方で
空っぽの自分をばらされないかと恐れる。
人はそれ故自分を守り
人独特の虚勢を張って
人と人との間をかき分ける。
人が人であるためには
やはりそれなりの苦労をせねばならないのだ。



    A

生き物が生きてる姿をよくよく見れば
やはり「何か」をしているものだ。
ところが人の場合は厄介で
常に値踏みされ賞められなければ
「何か」をしたとは言えないからに
いざ「何か」をしたとなると
二度も三度も言いまくる。
その癖「何か」ができないと
何のかんのと理屈をつける。
さもなくばいかにもできる振りをする。
そんな虚勢を張ってまで
生きてる値打ちをつけねばならぬ人間も
哀れと言えば哀れだが
天命知ってもそうなのは一層哀れに違いない。



    B

若ければ「すみません」の一言で
己の不始末が許される特権が
年とともに一層奪われていく。
若ければ「知りません」の一言で
己の未熟さが通用する幸せが
年とともに一層消えていく。
何事も猶予されない厳しさは
まともに生きる大人の名誉の勲章でもあるわけだが
出来ないのにいかにも出来るかのように
知らないのにいかにも知っているかのように
若者に振る舞ってみせなければならないのも
実際これ又厳しい話だ。
若者から尊敬されたいとは思わないが
若者から馬鹿にされたくはないと思うが故に。



    C

年だなと己は思うことはあったとしても
年だなと人から思われたくないために
気が付けば
若者紛いの馬鹿な振る舞いをしてしまっている。
いかにも力があるふりをして
いかにも気持ちのわかるふりをして
精一杯に若さを演じ得意になっていたのだが
若者が年故に調子を合わせてくれていることにまで
気づこうとはしなかったために
たちまちにして酷い代価を払わされてしまった。
たるんだ肉の悲鳴に踊り
戸惑う心の寂寥に焦る
そんな我が身を見透かされて
結局、年だなと思われ取り残されてしまうのだ。



    D

若い息吹の飛び交う集まりに入り込むと
時としてその前向きの構えに圧倒されてしまう。
取り残されまいとして
大久保彦左衛門もどきに激する惨めさは
「ご老体にはついていけないだろう」といたわられて
より一層に拍車がかけられる。
だから年配の者はいつも若者の純朴な夢を壊そうとするのだ。
「君達、異性との経験は済んだのかい」とか
「今度、かわいこちゃんのいる店連れてってやるよ」とか
いかにも彼らが人生のルーキーであり
いかにも自分が人生のベテランであることを謳って
年配の者なりの存在感を示そうとする。
たかが先に生まれたために
先に経験するだけの下世話なことなのに。



    E

例えば社会的地位も低く経済的収入も少ない。
例えば経験も乏しく考え方も甘い。
そのように嘴の黄色い若僧であると思ってはみても
一年一年と経つごとに
ぐんぐんと己に近づいてくるその勢いを見るにつけ
歩みの遅くなっている己を思えば思うほど
その場しのぎの体裁作りが横行する。
「十年まだ早い!」
「顔を洗って出直してこい!」
かつては言われて悔しい思いをしたその台詞が
知らず知らずに己の口から出てしまっている。
肩を並べてくるのが腹立たしいわけではない。
いつか追い越されそうなのが厭なわけではない。
そう言わなければ年喰う男の立つ瀬がないからなのだ。



    F

喜ぶべき時なのにそれほどに喜べず
悲しむべき時なのにそれほどに悲しめず
泰然とするさまを年喰う男の立つ瀬だと噛みしめて
ひたすら社会の奴隷を演じ続けた男の毎日が
作られた笑い顔と作られた泣き顔によって
皺の美学を仄めかせる。
かつては喜びたい時には喜び
悲しかった時には悲しんだ
あのありのままの自分が
未熟さの表れとして思わず知らず
自分を戒めるようになってしまっている。
人生のベテランともてはやされることによって
その帳じりを合わされたところで
獣の本性欠いてしまえば誰が感謝するものか。



    G

欠けた者には欠けた者の悩みがあるように
持てる者には持てる者の悩みがある。
欠けた者には欠けた者の悲しみがあるように
持てる者には持てる者の悲しみがある。
一昔前ならば
こんな台詞は持てる者のおためごかしとして
鼻もひっ掛けなかっただろう。
だが今は
持てる者の悩みというものが
持てる者の悲しみというものが
本当にあることがしみじみ分かるようになってきた。
いたずらに年を重ねただけなのに
いつのまにか持てる者の立場に立たされるなんて
人とは何と殊勝な生き物なんだろうか。



    H

人間が社会に生まれ社会で育ち
歴史を知って歴史を作るそんな殊勝な生き物ならば
何を考え何を望んだかは
時や場所でそれぞれ違っていただろう。
同じ人間なのだから
人の思いは一緒だと思うのは
悟りを得た聖人か単なる傍観者だけだろう。
それ故に図らずも当事者になった時の人間のエゴイズムは
どんな時や場所においても消え去らないだろう。
若者は若者で「年寄りは去れ」とわめくし
年寄りは年寄りで「今の若者は困ったものだ」と嘆く。
人生五十の時ではない今で
今が五十路の人こそが
そのどちらの台詞も言える楽しみ持てるのだ。



    I

年を取り経験を重ねるたびに書き込まれる
そんな心の日記帳があるならば
人から受けたひどい仕打ちの怨みの台詞だけは
いつまでも鮮明さを保っているだろう。
己だけが賞められもせず苦にもされず
ひたすらここまで生きてきたのだと
自慢気に語る気持ちがあるとすれば
怨みを与えた後ろめたさの方だけが
心の日記帳から見事消え去っているからなのだ。
これまでに面倒を見
引き立ててきた子飼いの者から
ここぞと言うときになって裏切られたとしたならば
彼は己だけの欲を満たすために裏切ったのではない。
怨みの台詞をかき消すための復讐をしたにすぎないのだ。



    J

同じ釜の飯を喰った仲間でも
それぞれ別の人生を歩んだお陰で
怨み逆巻く血みどろの戦いをしてしまう悲劇を
歴史は幾つも知っている。
たとえ打ち勝ち打ち敗れても
組織の奴隷となった個人を惜しみこそすれ
その個人を貶める人は誰もいない。
それに反して同じ釜の飯を喰った仲間から
昔のよしみを通じよと
誘なわれたとしても断ってしまう
甲斐性なく落ちぶれてしまった者の喜劇を
歴史は知ろう筈もない。
己を貶めるが故に
己を消してまで体面を保ちたいのだから。



    K

全く体が保てぬというわけではない。
全く人についていけないというわけではない。
事実はむしろその逆なのだ。
人より以上に励んでいるし
人を導いていたりもする。
だのに時として聞こえてくる
「もうそろそろだな」のうわさ話に
働き盛りの現役であることの自負が
弱みを見せまいとする精一杯の気負いのような気がしてくる。
人の寿命が延びたご時世で
いずれは「ボケ老人」と言われる破目になるを思うに
知なく徳なく名もない高僧の
都合気にせぬ悠々たる人生が
何とはなしに羨ましくなってくるような気がしてくる。



    L

人の都合で妻合わされ
生まれてきたのは幸いだけど
ただ走ることのみ期待され
稼ぎに稼いだわけだけど
すべて人のためになる。
年老い稼ぎがなくなると
人のためには役立たないと
人の都合で始末され
見知らぬ人に食べられる。
それが生あるウマの定めだと
言ってしまえばそれまでだけど
妙に気になる我が身の定め。
せめて救いを求めれば
人とウマとは異なることだ。


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