精 神 篇





                   美しい肉体は亡びやすいが
                   美しい精神は永久に輝くと
                   お前さん方は言いたいんだろ
                   だがおあいにくさまに
                   その「精神」がやっぱり年をとるんだ

                        (武田泰淳「森と湖のまつり」より)



    口上

独りでに科学のさばる世にあって
病気とはどこか体の異常のために
起こるものだと承知はしても
気を病むことと書き記される。
気を病むからに病人なのか
病人だから気を病むのか
いずれにしても己にだけは当てはまらぬと
これまで大きな病気に罹っても
持てる精神力を奮い立たせてきた私だが
今は病気でもないのに
どこか体のあちこちを気にしだしている。
もしやそれが年取ることとつながっているのでは
もしやそれが「老い」なる病気と関っているのではと
そぞろ寂しい思いが過りだす。



    @

家に帰れば家庭があって
「血」でつながった妻もいれば子供もいる。
家の周りに町並みあって
「地」でつながった男もいれば女もいる。
外に出れば職場があって
「知」でつながった仲間もいれば敵もいる。
年取るたびに知る人が増え
その人達としがらんで
生きるために喰うために
何かをしては何かを作り
そして何かを残してきたつもりだ。
それなのに白髪増えるこの年になって
先が見え欲望捨てたわけでもあるまいのに
過るこの寂寥感は一体何なのだ。




    A

欲望なければこの世は生きてはいけぬ。
欲望ありすぎてもこの世は生きてはいけぬ。
そうかと言ってこの世では
欲望持てば生きた証しと言われる以上
欲望持たねば取り残される。
かつては若さ故の欲望があって
その心は大きく育てとぎらぎらしたが
未熟の故に世間も寛容であった。
近くは大人故の欲望があって
その心は社会のためにと捧げられたが
名分だけでいつもおのが利益のためだった。
そして五十路の今になり
社会の役にも立たず己も満たされないままに
惰性という名の欲望に踊らされて生きている。



    B

もしも社会が乱れていたら
こんなだらけた気分にならなかっただろう。
もしも己が貧しかったなら
こんなゆるんだ気分にならなかっただろう。
恵まれた環境に住めた幸運に感謝もしないで
腹の出た物持ちが贅沢な惰性の悩みに耽っている。
社会の片隅に潜む乱れにあえぎ
社会の裏面で貧しく生きている
同じ世代の人間が数多くいると言うのに
「それは気の毒だ」の一言で片付け
自分の悩みだけを誇張する物持ちの腹の底では
社会の乱れの少しでもある不運を恐れ
己の持ち物の少しでもなくなる不運を避けようと
安定志向好きの虫が存在している。



    C

己が存在したという証しは
記憶の中にしか見いだされないものなのか。
これまでに何かをしてきたという感じは掴めても
これぞと言えるイメージの思い浮ばぬ人の哀れさよ。
確かに人の過去の存念は
あるときは書かれたものとして
あるときは作られたものとして
又あるときは用いられたものとして
生きてきた証拠を残すようには思えるが
それでもって己が存在したと言い切るのは
いかにも手前みそな感じがするものだ。
もの言わぬかつての物証が幻影であり
記憶の中から飛び出る今の鮮明なイメージこそ確かなのだが
そう思えば思うほど人は過去の人へとなっていく。



    D

かつては命令されてばかりいた。
それは教えられることであり喜びであった。
それで自分が膨らむことを感じた。
しだいに命令するようになった。
それは教えることであり怒りであった。
それで自分が漲ることを感じた。
やがて再び命令されるようになった。
それは諭されることであり哀しみであった。
それで自分が縮むことを感じた。
いつしか命令されることもなくなった。
それはないがしろにされることであり楽であった。
それで自分がいなくてもよいことを感じた。
自然の樅の木は残ったとしても
人の心の止まり木はいつも残るとは限らないと分かった。



    E

年齢が人の心を悲観主義の牢獄に閉じこめるのか。
経験が人の心を楽観主義の御殿から追放するのか。
若い時にあれほど「無謀」を許した心が
年とともにそれを咎めるようになってきている。
若い時にあれほど「勇気」を賞め賛えた心が
経験とともにそれに倦きるようになってきている。
失敗とか挫折とかを恐れぬ昔の心は何だったのか。
失敗とか挫折とかを恐れる今の心は何であるのか。
「もう一度できる」のは若さの特権なのか。
「もはやできない」のは老いの宿命なのか。
「破廉恥」という言葉に鈍感なわけではないのに
昔はできないと分かっていてもあえてしようとした。
「慎重」という言葉に敏感なわけではないのに
今はできると分かっていてもしようとしなくなってきている。



    F

その時々の新しい息吹を身につけなければと
常々心に思うのだが
ついつい日常性に振り回されて
後回し後回しする内に
新しい息吹もみるみる過去へと澱んでいく。
昔はそんなに慌てずとも
追い追い身につけ時代に応えることができるのだと
おさおさたかをくくったものだが
こんなに次々めまぐるしくも
新しい息吹が生まれて消える世の中に
手持ちのわざが次第次第に通用しなくなって
おたおた体が立ちすくむのも
時代の心がせかせか動く所為なのか。
それとも己の心が老いて動けぬ所為なのか。



    G

健康は病気の時に痛感され
平和は戦争の時に痛感されるものだが
「老いた」という気持ちは
若い時には決して痛感されはしない。
この「老いた」という気持ちだけは
老いてからでしか痛感されないものなのだ。
老いたからと言って別にどうこう言うわけではないが
健康の時に健康を思い
平和の時に平和を思えば
人として素晴らしいことだとされるのに
老いた時に老いたことを思えば
当たり前のことだとされてしまうのは
これほど間尺に合わない話はないだろう。
本人にとればこれほど深刻な話はないと言うのに。



    H
人と人との関係だけで
一日を過ごすことが当たり前になってきた現在
こうすべきだ、ああすべきだと
いかにも現実をとり仕切っているように見えながら
実は人を宥めたりおだてたりしているだけで
新しい事は何もしていないのだとふと気づかされる。
地位上がり人の話だけを聞くようになると
どうやら人は過去のイメージを鮮明にするものらしい。
ごま塩混じりの赤茶けた顔を
アルコールで一層に紅潮させながら
昔はこうだった、以前はそうだったと
説いてクダをまくようになるのも
新しいイメージを想い描く現実性のないことを
ただただ押し隠そうとするからなのか。



    I
まるで湯水を使うが如くに使うという形容が
持てる現実性に酔う者にふさわしいならば、
まるで爪に火を灯すが如くに使うという形容は
持てる可能性に乏しくなった者にこそふさわしい。
ましてや湯水の如くに使わなければ身の持てないのが
若い者に与えられた特権であり
ますます爪に火を灯さなければ身を保てないのが
年取る者に負わされた宿命ならば
数少なくなる度に
大事に使おうという気になるのも
真の怒り、真のよろこびのかわりに
人間関係とりさばく知慧が働くからだろうか。
それとも若い時に湯水の如くに使えなかった
その呪縛が続いているからなのだろうか。



    J

まるで呪縛をかけられたように
昨日まで顔を合わせていたその人の名前が浮んで来ない。
決して忘れる筈のない名前だったのに
たった一日のその人の不在が
その人の尊厳性を奪っていく。
何事も興味に惹かれた十代の頃
本で出会ったラスコリニコフやシラノ・ド・ベルジュラックは
それ自体は何の意味も与えない文字の連鎖でしかないのに
数十年の長きに亘っても
その言いにくい文字の連鎖を言葉にして
いつでも記憶の箱から弾け出る。
ああ、それなのに昨日まで顔を合わせていたその人の名前だけは
何にもまして大事なこの必要な時に
記憶の箱の中で眠ってしまって出ようともしないのだ。



    K

何もする必要のない時間がときおり襲う。
何かをするでなく
何かを待つわけではない、
ただ息をすることだけで
自分が生きていることを実感しているような
そんな空白の時間が襲う。
かつてはそれは望まれた時間だった。
なぜならばそれは体が休息しようとし
心が反省しようとする生の媒介者であったからだ。
然るに今はそれは望まれない時間となっていた。
ただあるだけで意味のないそのような時間が
覇気なくしたこれからの友となるのも
次々と人生の階段を昇るたびに
人は無能になっていくからなのだろうか。



    L

「お前」、「俺」と呼びあっていた友が
次々とデビューしていくのを横目で見て
「こんなことでよいのだろうか」と焦りながらも
大器は晩成するものだと自らを慰めながら
楽観主義の夢に浸っていた昔だった。
現実はブービーメーカーのデビューで
どうにか「一人前」になったのだが
経験が己の器量のほどを教えてくれるようになると
いつしか「一番になれなくても二番になればよい」になり
それが又いつしか「そこそこ出来ておればよい」になり
今ではデビューの時のように
ブービーメーカーであることだけでも
プライドが保たれるようになってしまった。
後は「しんがり」を楽しむ聖人の道だけが残されている。


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