肉 体 篇





                     衰えることが病であれば
                     衰えることの根本原因である
                     肉体こそ病だった

                          (三島由紀夫「天人五衰」より)



    口上

のびのびと伸びる背丈の若い時
「気力・体力・精力の減退した時…………を」と
よくよく宣伝聞かされて
こんなものよくも買う馬鹿いるのかと
時を忘れて笑ったものだが
五十路を迎えた時になり
何かをした時疲れが残り
何かをしようにもその気がわかぬ。
それがいつものこととなった時
わが肉体もその時きたかとおののいた。
一度そんな体験してからは
酒で紛らす時も増え
昔笑ったことまで忘れ
時々薬の効能書きを見つめる私となっていた。



    @

酒飲めば肝臓すぐさまやられるぞ。
煙草を吸えば肺がすっかりやられるぞ。
賭けすればずぶい神経やられるぞ。
軟派をすれば変な病気にやられるぞ。
体気遣う心やさしい仲間から
幾度も忠告される中
どうやら五十路のここまできたということは
我ながら大したものだわいと
いっぱしに自画自賛はするものの
「ほどほどに」しかできなかった自制心にも
何となくもの足りなさを覚えてくる。
心から「遊び」に取り憑かれなかったという後悔が
これからの人生を煽りたてたところで
艶のなくなりかけた体はその証しを立ててくれるのだろうか。



    A

人である証しは何であるのかなどと
いっぱしの口たたいては
美しい魂を求めてきたつもりだったが
何をするにも体を使わねばならぬとなると
人も又生身の存在なんだと思われてきた。
生きていく限り生臭くあって当り前なのに
洗練という名のオブラートで包み込みさえすれば
人であることの証しをたてられたと信じてきたが
それも馬鹿馬鹿しく思われてきた。
生きていくことは生臭くてもよい。
ともかく蠢くことができるその上に
体がいつまでも疲れを知らず
そして柔らかく温ったかであってほしい。
そう願うことが意味あることのように思われてきた。



    B

体を使えば当然体に疲れが残る。
しかし体はものではない。
だから休めば当然元には戻る。
こんな理屈は子供でも分かることなのに
理屈通りにしないのがホモ・サピエンスの習性だ。
それでも体に備わる神秘の業は
こんなホモ・サピエンスの横暴にもどうにかついていく。
激しい運動をしたが翌日はケロッとしていた。
徹夜をしたが一晩寝れば治ってしまった。
萎えたペニスの戻りは早い。
こんなに祝福された肉体の祭礼は
「若さ」という限られた一瞬にしか催されないのだ。
打てば響くような肉体のパートナーシップは
年取ると共に紛れもなく薄れていくものなのだ。



    C

何事も分相応にしておくことが
ことをうまく運ぶための極意なのだと
悟るようになってきたのは
年を取ってきたことの印しなのか。
かつてはそんな言い種を
覇気ない者の敗北宣言であると憤り
自分はそんなことはしないぞと
いきがり見栄を張っていたのであるが
体のあちこちで起こる不協和音の調べが
これまでの立ちい振る舞いにブレーキをかけ始めてから
心の鞭だけではどうにもならないと知らされるようになった。
年取る者の傲岸な営みを戒めるには
心によりも体にしっぺ返しをした方がよいとは
いやはや若者だけには聞かせたくない話だ。



    D

光陰矢の如しとはよく聞かされる話だが
ここ十年の短かさを思うのは五十路の人間だけだろうか。
一時の気まぐれで書いた古びた楽天旅日記を見ると
まるで嘘のように感じられる今日だが
この間に「一人前」のレッテルを貼られたとしても
それはほんの二、三歩でしかなかったような気がする。
年を取るたびに一年が短くなっていく肉体の感触は
一年が繰り返しの三百六十五日であったが故に
一日を二十四時間使うことに
もはや倦きてしまったからなのか。
それとも心が精一杯に努めても
十年一日の如くに繰り返されたなら
どれだけ十全の一日でもない混ぜにされて
三十年間でも一つのファイルに収められるためなのか。



    E

頭髪に初めて白さが入る三十代
これは病気ではなく老いの印しだと
最初に感じる印象で
一晩や二晩の徹夜をものともせずに
息はずませて生きてきた昔の元気をつい考えさせられる。
それなのに
依然として若くて力のあることを誇示したいがために
人知れず鏡の前で一本一本と抜いていったり
小遣い欲しい子供に一本いくらで抜かせたりして
この厄介ものを追っ払おうとするのは何故なのか。
年取って存在の重みを感じさせる人でさえ
頭髪少なければ鬘をつけ
頭髪白ければ毛染めをするのだから
よっぽど人は昔の姿に憧れるようだ。



    F

人間は四十の年を越してから自分の顔が定まると
昔の人はよく言ったものだ。
顔の皺の一つに至るまでの微妙な特徴に
多くの経験を背負い込んだ痕跡を見いだす時
人間が生きることの重みとやらを痛感するのは
経験が換え難い宝であるからだろう。
それなのに
そんな同じ世界の者同士でも
何年も会わずにいての再会で
挨拶もそこそこに交わす言葉が
「お互い老けたな」であるとは情けない話だ。
せっかく定めた顔なのに
日立ち年立つその内に又々変わっていくなんて
自然は何と変化がお好きなんだろう。



    G

人間が魂だけのものでなく
形・重さを持つものだけに
どれだけ精巧に作られたとしても
日立ち年立つその内に
所謂「ガタ」が来るのだと
今になってしみじみ実感されたことはない。
病気とは外から入る敵であり
それさえ外に追い出せば
己の命は不滅だと信じてやまなかった昔が懐かしい。
紛れもしない今の今
目かすみ肩こり腰痛むそんな現実迎える中で
「まだまだ若い者には負けないぞ」と
突っ張り示す態度をしたら
昔のようにはったりだけで生きられるだろうか。 



    H

どんなに速く走ろうとも昔のように走れるわけはない。
どんなに高く跳ぼうとも昔のように跳べるわけはない。
どんなに強く跳ねようとも昔のように跳ねれるわけはない。
年取る人の筋肉はいつしか硬くなっている。
どんなに多く磨いても昔のように映えはしない。
どんなに白く化かしても昔のように隠せはしない。
どんなに厚く手当をしても昔のように治りはしない。
年取る人の皮膚はいつしか皺っぽくなっている。
どんなに強く覚えようとも昔のように確かではない。
どんなにうまく働かせようとも昔のように素早くはない。
どんなに高く考えようとも昔のように鋭くはない。
年取る人の脳細胞はいつしか壊れ消えていく。
ああ、年よ、年よ、年よ
お前は人の望む「美」をいつも喰っては楽しんでいたいのか。



    I

ダ・ビンチが刻む肉体がほしいのではない。
ルナールが描く美に憧れるのではない。
白いシャツは必ず鼠色になるように
この人の体ってやつも
生きている代物であるから
変化するっていうことぐらいは誰も知っている。
それなのにほおっておいてもよくなる変化の時期が
ほんのわずかであると言うのは
いかにも口惜しい限りだ。
とうに盛りがすぎて
ほおっておいたら悪くなる変化を目の当たりにして
その代わり貫録がついたではないか
その代わり落ち着きが出たではないかでは
筋肉たるんだ人間には心強くも何もならないではないか。



    J

人の体の筋肉は鍛えるほどに強くなる。
別に学者でなかっても
そのことわりはすべての人が肌で感じているものだ。
だがその法則性をうたった学者も
「但し若い内ならば」という条件を忘れてはいない筈だ。
回復力が強く
全力を投入しても損なわれない
そんな夢みたいな筋肉があるならば
有り金はたいてもわがものにしたいと考える五十路の人は
そりゃあ、ごまんといるだろう。
そのごまんの一人一人は
おのが体の将来をおもんばかって
全力を出し切って決着を着けなければならない時でも
余力を残そうとするものなのだ。



    K

同じ生活空間を共有した者達が
力を残して一人、又一人と消えていく。
そんな年でもあるまいにと
悲しみ隠し己を慰めたところで
年重ねる者に特有の病気の所為だと聞かされて
「致し方のないことだ」とどうして言えようか。
ましてや生と死が同じであるなどと
悟りの境地にも到らぬ年喰うだけの未熟者には
それまでに何もしてこなかった思いの後ろめたさがあるだけに
このまま朽ち果ててしまうのが何とも恐ろしくなってくるのだ。
だから何かをして早く死ぬよりも
何かをしなくても生きている方が勝ちなのだと
変な小理屈をこしらえあげては
今在り今思うことの己を殊更持ち上げようとするのだ。



    L

もはや今は何も言うことはない。
思ったことはおおよそ実現できるし
欲しいものは何とか手に入れられる。
人からもそれなりの信用を得ているし
与えられた仕事も無難にこなせる。
そこそこのところで己の欲と妥協しさえしておれば
これまでの蓄積が身を守ってくれる。
だから今は何も言うことはない。
五十年の生を持ち堪えてくれた体についてのこと以外なら
今は何も言うことはない。
ものが見えにくくなり
しみと皺に塗りたくられ
足・腰・肩が衰えていること以外には
もはや何も言うことはない。


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