家 庭 篇





                      子供を育てるってことはねえ
                    育てられた当人が思っているほど
                     そう簡単なものじゃありませんよ

                            (森本薫「女の一生」より)





    口上

男として弱みを持っているわけではない。
人として主義を持っているわけではない。
だから普通に生き普通に悩んで
五十路のここまで来る内に
人並みに私も家庭人となっていたというのが真実だ。
そこまでの苦労話ができなくもない。
そのための理屈もつけられなくはない。
だがそれを自慢気に話せるほどに
新しがり屋の世代でもない。
ところが五十路になった今
いっぱしの口をたたけても
伴侶持ち子供を持ったそのつけが
幾つもの思いとなって付いてまわるのも
親ならではの因果な話だろう。



    @

何の因果か知らないけれど
戦争始めて人手がほしく
産めよ増やせよと言われた銃後の「昭和」
国の宝と祝福されて
生まれた人も五十年。
半分は親の力で育ったからに
子育て苦労は知らないけれど
学校出てから独立し
妻持ち子を持つ身となって
愛と義務とに縛られながら
家と職場の行き来によって
名も「平成」と改まり
知らず知らずに迷惑かけた
親の苦労がしみじみ分かる。



    A

何も知らずに無邪気に眠る
そんなわが子に見惚れた挙げ句
「大の字に寝る子大きく育つなり」と
都合勝手な理屈をつける
そんな親の気持ちに見る如く
零から出発するものに
何故か人は期待を寄せたがる。
所詮己は己であり
己にできないことを己以外のものに託す気持ちは
己が無能であることの告白以外の何者でもないのに
希望を持つという人間の執念が
それを美しい衣に包んでもてはやそうとする。
何ができ何ができないかが分かりかけてくると
そろそろ人は子供の腕に期待をかけだすものらしい。



    B

腕によりをかけて作った御馳走を
「もういらない」と事もなげに
食べ残す子らを見て
「もったいない」と口走る仕種に
もはや怒りの心はない。
一昔前の「はらへった」とは
食べたくても食べられない無念さを表していたのに
今の子の「はらへった」とは
食べたくて食べる前の言い種でしかない。
「時代が違うのだ」と言うには
あまりにお粗末な諦めの境地では
生んで育てた子供に対し
「昔はよかった」の自己顕示のあがきも
もはや失笑を買う質種となっているのか。



    C

生んで育てた子供が
親とは違う考え方なのが腹立たしいのではない。
生んで育てた子供が
親とは違う生き方なのが口惜しいのではない。
生んで育てた子供が
親の考え方を分かろうとしないのがやるせないのだ。
生んで育てた子供が
親の生き方を認めようとしないのが情けないのだ。
子離れを見事にこなす動物を見るにつけ
人間の親だけが
子供に永遠のつながりを求めてうろたえる。
それほどまでに己のしてきたことが認められたいのか。
それほどまでに己の過去が素晴らしかったのか。
それほどまでに己自身がいとおしいのか。



    D

目の中に入れても痛くはないといういとおしさが
親のみに許された感情だとしても
日増しに大きくなっていく子供の体を見るにつけ
さぶざぶとした思いに駆られることがある。
それでもまだ
親の背丈を越さない内はどこか安んじられたものだが
声変わりと同時に子供に見下ろされるようになった時の
あの戸惑いの気持ちは一体どこに起因するのだろうか。
人間が成長する生き物であることを
これほどまでに苦く受け入れたその背景には
子でも負けたくはないとするホモ・サピエンスの本能が
たとえ親でもちゃんと働いているからだろう。
それだからこそ肉の力では負けても
心の力では負けないぞと精一杯気負ってみようとするのだろう。



    E

力持つ名家でもなければ
傑出の名士を出したこともない
ごく普通に生まれごく普通に終える
そんな家から出た者も
父母いて祖父母いて曽祖父母いてというように
先祖の血に感謝してくるようになってくるのも
所謂年の所為なのか。
やっぱり父母は偉かった。
父母も祖父母を偉いと思っただろうし
祖父母も曽祖父母を偉いと思っただろう。
せっかく苦労して育てた子供から「粗大ごみ」と言われ
影の薄くなった今の姿を見るに
「一体誰のお陰で大きくなったのだ」と開き直りもできず
親と同じ白髪頭に感慨ひとしきりだ。



    F

妻がいるのに妻がいず
子供がいるのに子供がいない。
こんな人影薄い光景がおこるのは
年月という悪戯者の所為かもしれない。
妻にはあまりにも慣れ親しんでいるが故に
子供にはあまりの変貌についていけないが故に
家族は一つの思いがいつとはなしに薄れてゆく。
昔覚えた感触が甦らなくなったのは
これまで独り善がりに生きてきた己の心の所為なのか
それとも主であることを誇ってきたしわ寄せがきた所為なのか。
家庭とはどんなに血で結ばれていたとしても
所詮は意識を異にする人の集まりである以上
いつまでも「妻」や「子供」に拘ると
いつかはそのエゴイズムからしっぺ返しを喰らうだろう。



    G

生き物の定めと言うか
文化持つヒトのエゴイズムと言うか
「家庭」という奇妙な怪物を一度作ってしまうと
それを維持したいという奇妙な感情に
何故に囚われてしまうのだろうか。
妻や子供を愛するという奇妙な慣習に翻弄されながらも
確かに家庭とはすべての人にとって
憩の場であり拠り所でもあると思われるのだが
妻や子供達からの要求が多くなってくると
「家庭」を壊すことまでできないために
そこから逃げ出したいと思う気持ちにふと襲われてしまう。
己が己自身のためにこしらえあげた家庭なのに
そのこしらえあげたものによってしっぺ返しされる
そんな奇妙な悔恨はこしらえあげた者しか分からぬだろう。



    H
惰眠を貪る奇妙な伴侶の寝顔を見るようになったのは
いつの頃からだろうか。
目覚めを知らせる音を聞くこともなく目覚めるようになったのは
いつの頃からだろうか。
沈黙だけが最初の相手となる一日が始まったのは
いつの頃からだろうか。
気が付けばこの空間の中で生きてある存在は
自分独りのようであった。
もの憂いというのではない。
何かに取り憑かれているというのでもない。
淡々と蠢く細胞の教えに従って
過去を凝縮したまま艶失った肉体が
何とかこなせるであろう一日の緊張感に備え始める。
まるで年喰ってまで生きてあることに感謝せよと言わんばかりに。



    I

それなりに年を喰い地位もあるから
よその人は意見を聞いてもくれれば
指示にも従ってくれる。
だのに家の中ではどうなのだ。
初めは何でも興味深げに話を聞いてくれた妻は
いつしか寡黙になり
今では不満のための言葉しか発しない。
初めは何でも聞きにきた子供は
いつしか寡黙になり
今ではもの頼むための言葉しか発しない。
誰だってこの世に生まれたというだけで
非難されるいわれはないけれど
これほど「親父」であることの切なさが
感じられる年代はないだろう。



    J

「これは親父の形見だぞ」と言われて与えられたものならば
たとえがらくたであったとしても
ただあるだけで意味を持つのだが
「これは役にたつのだぞ」と言われて与えられたものならば
たとえ宝であったとしても
寸時の内にあることの意味が消えていく。
一つのことをするのにも
昔なら時間もかかり無駄もかけたものだが
それは悪いことだと思わされる今
もっと早くできもっと役立つ何かが幅をきかせてきた。
今の世は役立つ何かであったとしても
もっと役立つ何かの前では
形も崩れないのにがらくたにされ捨てられる。
丁度今の世の親と全く同じ様に。



    K

人間以外の生き物なら
いつかは独り立ちして親から離れていくだろう。
人間以外の生き物なら
いつかは独りに戻って子供を忘れていくだろう。
独り人間だけがいつまでも
親に甘えて脛かじり果ては残した物まで奪いとる。
独り人間だけがいつまでも
子供を愛し面倒みて果ては物まで残そうとする。
この、親離れならずに
まるで権利とばかりに親に拘る子供達よ。
この、子離れならずに
まるで義務とばかりに子供に拘る親達よ。
これがホモ・サピエンスの生き様としたなら
「家庭」とは何と厄介なパラダイスなのだろうか。



    L

一度この世に生を受けたらば
何をしてから生を終えるのだと
とりつかれたように思うことがある。
己があるということに
兎角勿体をつけたがるホモ・サピエンスの
どうしようもない血の性が
何かを残したいという
とんでもない知の野望となってさまよいだす。
だが、あれやこれやとばかり
己の所業を並べ立てたとて
一体それが何になるとでも言うのだろう。
何のかんのと言ったとて
所詮人のしてきたことは
子供を作り育て上げたということだけか。


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