諦 観 篇





                     昨日またかくてありけり
                   今日もまたかくてありなむ
                   この命なにをあくせく
                   明日をのみ思ひわづらふ

                        (島崎藤村「千曲川旅情の歌」より)





    口上

れんめんと続く歴史に生を得て
それなりに年取り貫録備えたようだが
所詮凡愚は凡愚の知恵か。
初めに抱いた「やれる」の感触が
途方もない錯覚だったと気づく内
とうとう五十路の道にきて
「もうだめだ」の感慨に取り囲まれると
凡愚は凡愚なりの諦観がはびこってきた。
それでも凡愚であることを拒絶して
悟ったふりして己をてらう私なのだが
どうやらそれは一朝一夕に出来上がったのではないようだ。
それなりに何かをしてきたが
それなりのことしかできなかった己の影が
ついに己の本性を明かしただけのようなのだ。



    @

何事も初めは期待の影がさすものだ。
どんなに社会が悪かろと
どんなに素質に欠けようと
夢持つすべての人にとって
思いはすぐに現実的なものであった。
現実的なものは思いそのものであった。
しかし経験はいかなる人をも悲観的にするものだ。
思いはいつも現実にならず
違う現実が思いのまえに立ちはだかりだす。
やっぱり社会が悪かった。
やっぱり素質に欠けていた。
そこまで開き直りそこまで省るなら立派だが
「努力」の二文字忘れた半端な人が
似合いの椅子を探すのもやっぱり一つの人生なのか。



    A

自然という与えられた空間の中で
人は立つが故に座るべき椅子を模索する。
体が大きくなって座れなければ
大きな椅子に換えればよい。
だが社会という作られた空間の中では
人として生きていくために
単に座るための椅子ではなく
人を見下ろせる椅子を模索しなければならない。
汚く生きる術を知らず
思いと現実的なものをばらばらにされた者は
そんな座るべき椅子を確保することができず
一人一人と奈落の底に落ちていく。
それなのに落ちたは落ちたで又あくせくするのは
人は己の生き方だけには逆らえないからなのか。



    B

失敗を恐れず誤りに臆しない生き方に邁進できるのは
経験を積まないロマンティストの特権だ。
挫折にたじろがず非難をものともしない生き方に共鳴できるのは
屈辱を知らないオプティミストの特権だ。
若い時自らをチャレンジャーとして
生を賭してきたつもりでも
経験の苦い香りを嗅ぐ内に
いつしかひねくれたリアリストに変身していく。
成功するよりも失敗しない方に
的を得るよりも誤らない方に
出世するよりも落ちこぼれない方に
称賛されるよりも非難されない方に
そぞろ人生の真理を見るようになれば
そろそろ因果の納め時とでも言うべきか。



    C

まだまだ因果を納めたわけでもあるまいに
これまでの人生を決めるほどの幸福に
恵まれたとの思いがなかったのを幸いに
これからの人生に終わりを告げる不幸に
出会うなんてはありえないと思ってみたりはするのだが
それは無能な生き物に特有の楽観主義だろうか。
人にある幸運が己に起こらないことを悲しむよりも
人にある不幸が己に起こらないことを喜ぶことの方が
人にとっては幸せなのだと思うようになってきたのだが
それは死という最大の不幸を実感しだしたからだろうか。
そしてついには
もうこれ以上のことは望まないから
今のままであってくれよと思うようにさえなってきたのだが
それは無能でも夢見る生き物の最後の願いと言ってよいだろうか。



    D

神様頼りお上に仕えることにより
夢見ることのできた昔ならいざ知らず
己の欲を満たそうとすることが
生きることの証しであると公認されてる今の世で
「もっと」の気持ちに支えられて生きることが
どうして悪いことだと言い切れよう。
所謂まともな人ならば
死ぬまで「満足」の言葉が使えない筈のものなのに
顔に年輪が刻み込まれてくると
それを承知で「もうこれでよい」などと
言うつもりもないのについ言ってみたりする。
「ほしい、ほしい」と喚くより
耐えて控えて欲満たすのが
ながい坂の人生渡る無難の道と悟ってきたからなのだろう。



    E

失うものの何一つないと言うならば
今まで何してきたのだとその怠惰を責められる。
持てるもののありすぎて困ると言えば
今まで稼ぎすぎたのだとその強欲を責められる。
いくら欲持ち欲満たすのが
今の世を生きるすべてであると言われても
時には何かを失って
保守の心を悲しませねばならない。
時には何かを求めて
革新のポーズを示さねばならない。
失うことと求めることのバランスシートを見遺りながら
適度に己を演じることも
無能でないが有能でもない五十路の人間の
とにかく好きな処世の一つなのだ。



    F

もって生まれた資質の所為か
それともあくなき努力の成果か
そんな理由づけはどうでもよいのだが
とにかく「頭のきれる」すごい奴はいるもので
いつも人とは違う考えをしては
鞭を振り振り並の頭を指図する。
約束ごとで成り立つ今の世で
人とは違う考えは打ち出せないが
人の打ち出す考えが分かる者にとっては
それが何よりの癪の種となる。
だが感じる心で反発しながらも
考える心で受け入れてしまう五十路になってくると
そんな屈辱はどうでもよくなってくるのは
所謂「人間」ができてきた証拠なのか。



    G

ほんのわずかな差で
二番手に甘んじたその屈辱の繰り返しが
勝利の美酒を味わわなくとも
人生の階段を昇れるわざをいつしか会得するものだ。
だから残った命を生き抜くために
五十路の航海を始めた今も
相変わらずの二番手となって
一番手の成し遂げた偉業の跡をなぞらえ
現在の己の地位を守るに越したことはないだろう。
その内にかつての一番手がその切れ味をなくし
人生の後始末にあえぐのも垣間見れるだろうし
そうなればここぞという時になって
いつも己を萎縮させたなじみの器量にも
メンツをたてたと言えるのだから。



    H

この世には自分よりも劣った者がいるのと同様に
自分よりも秀でた者がいる。
自分より劣った者がいれば驕り
自分よりも秀でた者がいれば妬っかむ。
年若く己の器量が分からぬ内は
そんな人間らしさの感情が
生きる良さであり悪さであるとされたものだが
年取り奸智に長けだすと
人はすべて天才でなく馬鹿でなく
所詮はみんな普通なんだと信じて疑わなくなるものだ。
それ故に人間努力の必要感じていても
時代の流れに逆らい苦しむよりも
流れに乗って楽しむ方に
世渡る秘訣を見ようとしてしまうのだ。



    I

まるで心の病にかかったように
常に己に鞭打って世を渡る癖の者がいる。
それが未熟者に課せられた試練なのだと
切れもしない能力を全開させながら
一つ一つ階段を昇ろうとする。
こんな手合いの心中見れば
すでに己の人生が見え始めていても
いつも己の未熟さを楯にとり
いつまでも挑戦者である振りをする。
それがポーズなのかマコトなのか。
五十路を迎えてまでもその癖が直らなければ
それは問題ではないだろう。
それも又一つの生き方なんだという風に
いつしか見切ってしまっているのだから。



    J

見切りをつけれる人はよい。
尻をまくれる人は更によい。
出任せ喋れる人はよい。
嘘の喋れる人は更によい。
悪口たたける人はよい。
暴力振るえる人は更によい。
お世辞言える人はよい。
ずけずけ言える人は更によい。
要領よく生きれる人はよい。
図太く生きれる人は更によい。
清く正しく美しく生きたつもりもないけれど
ここまで至った人生で
こんなに強い人達が
いくたび羨ましく思われたことだろう。



    K

おもてづら強い己を謳っていても
何かをする段になって
いつも破局を先に考えてしまうのは
確かに小心者の弱点だろう。
だがそれはそれで悄気る必要はない。
何故ならば
先達のおこぼれ頂戴することで
風船玉のように自らを大きくする
そんな経験ため込みため込み
成長した己を自画自賛できるからだ。
そんな経験でも一度記憶の箱で守られると
何かをする段になって
いつも過去のパターンを取り上げるようになり
その場しのぎの名人となることができるのだ。



    L

世の中をひっくり返すなんて
思いもよらぬと思い込む小心者が
有り合わせでその場しのぎができただけでも
大したことだと見直してやらねばならないだろう。
いかに人の本性を
産んで造り増やすところにその意義を見ても
産んでは死なせ造っては壊し増やしては減らす
そんな所業に明け暮れれば
今あるものをあるままにしておくことの大事さが
年取れば取るほど身にしみて分かってくるものだ。
だから狡智長けた神様は
有り合わせで済ますその場しのぎの術使いに
「生き甲斐」という名の仮面を与え
ことを成し遂げうる者と同等の値打ちをつけるのだ。


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