The Encounter World −4−
眠りは深かったとも、浅いようでもあった。途中で目を覚ましたようにも、誰かと話をしたようにも思える。捕らえ所のない奇妙な感覚。疲労に加えて、事前に服用した睡眠導入剤がよく効いたのだろう。薬物の残留による倦怠感や朦朧とした感覚はなかったが、体のあちこちに妙なこわばりを感じる。しかも、極めて空腹だ。
「おはようございます、マスター黒崎。お加減はいかがでしょうか」
ベッド脇の雫は黒崎に向かって会釈した。
普段よりもやや光量の絞られた室内は、紛れもなく自分の寝室だ。プラスチックのフレームで出来たベッドに、合成繊維のマットレス。同じく合成繊維の掛け布団。毛細管現象によって汗の水分を速やかに外へと排出し、湿って重くなることもない、機能性に優れた掛け布団、という触れ込みのものだ。確かに、この布団に不満を感じたことはない。それでも、天然繊維の布団で寝てみたいとは思う。確かに寝て、時間が経ったという証のある布団。それは驚くべき価格でしか手に入れることの出来ない贅沢品だった。
贅沢が不便を高値で買うことだというのは何とも皮肉な話だ。
まるで干したばかりのように軽やかな布団を跳ね上げながら、黒崎は上半身を起こす。
それ確認した雫は手にしたコップを黒崎に差し出した。コップには黄桃色のオレンジジュースが半ばまで満たされている。
「おはよう雫。なんかたっぷり寝たって感じがするわ」
黒崎は雫から手渡されたジュースを一息に飲み干し、深く息を吐いた。甘さと酸味が身に染み入るようだ。
「ところで今何時かしら」
「朝8時です」
「意外と寝てないわね。眠りが深かったのかしら」
「はい。およそ80時間ほどお休みになられていました」
「ふーん。80時間ね……80時間!? 8時間じゃなくて!?」
黒崎は時間の経過を確かめるように部屋の中を見回した。ベッドサイドに埋め込まれた時計は確かに8時15分を指している。だが、眠ってから80時間とは。
「概算ではありますが。途中で二度ほど生理活動のためにお目覚めになりましたが、意識レベルが極めて低いように思われましたので、無意識に近い行動と見なしてコンタクトは取りませんでした」
何となく途中で目が覚めたような気がするのはそのせいか。
「それで、ええと……寝ている間に変わったことは」
「特にありません。都市管理局より4回、リチャード・メイスンより16回の呼び出しがあっただけです」
それは十分「何かあった」の範疇に入るのではないかと思いつつ、黒崎はベッドから立ち上がった。ずっと寝たままだったせいか、腰のあたりが少し痛い。膝への力の入り方もふわふわとした感じだ。
「伝言は?」
「都市管理局へは心的外傷により療養が必要なため、謝絶の旨をお伝えしました。必要であれば管理局からカウンセラーの派遣を要請するとのことです。リチャード・メイスンへは不在と回答」
雫の対応はそつなく、十分に及第点と言えるが、管理局とメイスンへの対応が差ありすぎるのではないか。回数から考えれば、より差し迫っているのはメイスンの用件とも考えられる。
だが、何より腹が減った。
「リチャードには連絡を取らないといけないわね。その前に雫、何か食べるものはあるかしら」
「ご希望があればお作りいたしますが」
「ピザ」黒崎は本能の赴くままに答えた。
「お言葉ですが、長時間にわたって空腹状態の続いたマスターの状態を考慮すると、急速に血糖値が上がる食事、しかも脂肪分を多く含む食事は身体への負担になると思われます」
確かに、もっともな話だ。食べたいのは食べたいが、確実に腹にもたれることも予想は出来る。
「それじゃ、雫のお勧めは何なの」
「お粥などいかがでしょうか」
「せめてお肉が欲しいわ」
「ランチョンミートの缶がございますが、多量のナトリウムと脂肪分を含むためお勧め出来ません」
「駄目なの?」
「駄目です」
お粥以外食べさせる気がないなら最初から聞かないで欲しい。
「いいわ、お粥を頂戴」
黒崎は返答した後、ベッドへ再び沈み込んだ。
身体から力を抜くと、目のちらつきが少し収まった。ぼんやりと天井を眺めたまま時間が過ぎていく。雫がキッチンで調理器具を操作しているようだが、黒崎自身が使うのとは大違いで驚くほど静かだ。皿や鍋の音さえしない。本当は器具ではなく魔法を使っているのではないか。
それにしても、寝過ぎたのはまずいが仕事が入っていなくて良かった。黒崎は安堵の息を吐く。メイスンとの案件を片付けたら、仕事を探そう。
そうこうしているうちに雫がプラスチックのトレイに載せたお粥を運んできた。
ボウルに入れられたお粥とレンゲ、それに皿に載っているのはスライスした肉。見覚えのあるピンク色は缶詰のランチョンミートのものだ。
「ランチョンミートは駄目なんじゃなかったの?」
「油分及び塩分は取り除いてあります」
雫からトレイを受け取り、お粥より先に口へ運んでみる。なるほど。肉の香りがするゴムのようだ。
粥は適度な柔らかさで海苔が入っており、塩鮭も一緒に煮込まれていた。
「そういえば雫、お米はどこから? 記憶が確かなら、家には無かったと思ったんだけど」
「はい。時間的な問題から、米から炊くよりも別の方法をとった方が早いと判断し、通りの和風料理店からテイクアウトの鮭おにぎりを調達、調理しました」
雫の回答を聞き、黒崎は手元のボウルをしげしげと眺めた。
つまり、これは、おにぎりをほぐしてお湯で緩くしたもの、ということか。
海苔と鮭はその副産物らしい。
手抜きとなじるべきか、アイデアと認めるべきか。
黒崎は逡巡するが、空腹には勝てない。食べた以上は、文句は言えまい。空腹に免じて許そう。
それにしても、と黒崎は毎回考える。雫の、この料理における応用力の源は一体どこなのか。いやに所帯じみて、しかも手慣れている。ワーカーデトニクスのデータベースから持ってきている、と本人は言うが果たして本当なのか。嘘を言う機能はない、とも言っていたので疑いはないのだが、やはり不可解でもある。
その辺りの条件付けの仕組みが判れば、ワーカーデトニクスは家庭用リブロイドの分野にも十分進出できるのではないか。太鼓判を押してもいい。
元の素材が良いのか、味はなかなかの物だった。塩気が抜けてピンク色のグミと間違うようなランチョンミートも、付け合わせとして食べてみればそう悪い物ではなかった。
トレイをサイドテーブルに置いて黒崎は伸びをした。はや、いくらか活力が戻ってきたように感じる。食物は偉大だ。
「雫、リチャードとは連絡とれるかしら。管理局への返答は後回しでいいと思うけど、リチャードがそんなに何回も掛けてきているんじゃ火急の用件かもしないし」
「呼び出してみます」
程なくして壁面に内蔵されたスクリーンにグレーのツナギを着たリチャード・メイスンの姿が映し出された。
彼が現場で直に作業している姿を見るのは久しぶりだった。
「やぁ、やっと顔が見られたね」
メイスンは油まみれの手で眼鏡を押し上げ会釈する。
「ごめんなさい、何回も連絡してもらったのに」
「気にはしてないよ。それよりも、体調の方はいいのかい?」
「ええ。十分に休養は取ったわ」
「ふむ、やっぱり寝込んでいたか」
「あ」雫の偽装工作を自分で壊した瞬間だった。
「雫は執拗に不在って返すんだが、どうもそんな気はしなくてね。それにしても君は判りやすいな」
モニターの向こうのメイスンは笑いをかみ殺した表情をしている。
憤慨したいところだが、嘘が下手なのは周知の事実だ。
「ごほん」わざとらしく咳払いして黒崎はメイスンに向き直った。「ま、ここのところ忙しくして疲れが溜まっていたのと、薬が効きすぎたのが原因みたいね。それで、16回も呼び出したのはどういう用件?」
「おいおい。話が聞きたいと言ったのは君じゃないか。こっちから連絡するとも伝えただろう」
そういえばそうだった。
「ああ、ごめんなさい。寝起きで頭が働かなくて」
「大丈夫か? 何ならもう少し間を置いてから……」
「いえ、いいわ。事件の顛末を聞いておきたいの」
「そうか。わかったよ」
黒崎の返事に頷くと、メイスンはパイプ椅子を引っ張り出して腰掛け、モニタに向き直った。
「顛末と言っても、ワーカーデトニクス自身は事件とは無関係という見解を出しているし、僕自身もそう思っている。理由は二つ。一つは事件、いや事故を起こしたのは純正品ではないこと。もう一つは君も知っての通り、リブロイドは規定によって人間に危害を加えることは出来ない。基礎OSに大幅な改変を加えればもちろん意図的に人を攻撃できるだろうが、それはワーカーデトニクスとは何の関係もない話だ」
「つまりあれは誰かの手によって人為的に引き起こされた可能性がある、ということ?」
「穿った見方をすればね。ろくに知識のない奴が駆動プログラムに手を出した結果かも知れない。たしかなのは、今回の事故を起こしたのは純正品ではないこと、そして今までも純正品ではそんな事故は起きていないって事だ」
「ねえ。他のはどうなの?」
「他の、というのは?」
「管理局がうちの会社だけ呼んだって事はないでしょ。何件かそういう事件が起きているらしいじゃない」
「なかなか耳ざといね。――管理局もさすがに無関係な僕に漏らすほど迂闊ではないが、外からその手の話は耳に入ってきている」
「あなたの見立てでいいんだけど、誰かが意図的に事件を起こしているということは?」
黒崎の問いにメイスンは肩をすくめた。
「噂だけでは何ともね。ただ、そう考える人間もいる。仕組みはわからないが、リブロイドの知覚を狂わせるようなもの、たとえば遠隔操作のような装置やウイルスのようなもの、だ」
「痕跡は?」
「今回の件では何も。ただ、これはあくまで僕の感触だが、管理局は『能力者』の関与を疑っている。強力な感応系能力者あたりなら、そういう事件が起こせても不思議じゃないだろう。リブロイドの知覚は人間に遠く及ばないとはいえ、感応系の能力に反応しないという保証はない。それに、プログラムする側を洗脳して目論んでいる可能性だってある。管理局は事件の傾向から特定の社を狙ったのではない、と言う線で動機を探っているようだ」
「でもリブロイドで事件を起こしてどうするっていうの? テロが目的とか?」
「単にあの会社に恨みのある個人、人類至上主義団体のリブロイド反対運動、ライバルメーカーの追い落とし、不正経理隠しのための自作自演、目的なんて僕でさえ10は思いつく。事件なのか、事故なのか判別は付かないが、純正品では起きていない以上は経営陣は深入りするつもりはないようだ。わざわざ追いかける必要性もない、ということさ」
日和見ゆえの静観なのか、動向を見極めるための沈黙か。自社の製品に不具合の可能性があると捉えられ、株価が下がるのを防ぐためか。ワーカーデトニクスは少なくとも表立っての調査に乗り気ではないらしい。
「ねえ、リチャード。それって『新品では』ってことよね? 中古品の履歴を追っていったら、関連性のある事例にたどり着かないかしら」
ほんの数秒だけ考えて、リチャードは顔を上げた。
「つまり、中古のリブロイドを狙って細工している、ということかい?」
「そう。中古なら安いし、足も付きにくく出来る。そこに鍵があるんじゃないかしら」
「中古のリブロイドを狂わせて事件を起こす、か。秘密裏にやるならそれなりの施設と技術は必要だが、あり得ない話じゃない。ひょっとして犯人に心当たりでも?」
「わからないわ。推理は得意じゃないのよ。いくつか思うところはあるけれど」
「それは是非とも聞きたいところだな」
「ご飯があると口が軽くなるかもね」
「酒、と言わないところが君らしいな。いいだろう、この案件は個人的にも少々興味がある。直接の関係者でもある君の意見は聞いておきたい」
黒崎は内心ほくそ笑んだ。これで一食浮いた。
「オーケー。今は仕事もないから、いつでも良いわよ」
「では都合が良ければ、明後日の夜にしよう。最近良い店を見つけてね。いつか案内しようと思っていたところだ」
「それは期待しているわ」
「では、待ち合わせはいつものところで」
「はい。それじゃあね」
メイスンは手を振って答え、映話を切った。
ワーカーデトニクスの対応は、予想できたものだった。まっとうな企業ならわざわざ自分の所のシェアを落とすような真似はしない。
黒崎自身の予想だが、おそらく新品ではこれからも起こらないだろう。
整理するにはまだ情報が足らない。全てが憶測だ。
「ねえ、雫。あなたは今回の事件を何が原因だと思ってる?」
「マスターはあれを事件と称していますが、リブロイドは人間を殺傷は出来ないようになっています。このリミッター機能は全てのリブロイドのアーキタイプに規定されており、改変は容易ではありません。あのリブロイドは結果的に人間を死傷させたに過ぎず、殺意はなかったのではないかと推測します」
「つまり?」
「制御プログラムの異常などによる事故ではないかと」
ワーカーデトニクスと同じ見解か。そこに至った経緯は興味深い。
「私は事故じゃないと思っているけど、雫はあれを事故だと思っているのね」
「はい。敵意があるのだとすればあまりに非効率すぎます。殺傷が目的ならもっと効率的にやっていたはずです。少なくとも、私が破壊するまでに全ての車両と人員の殺害を可能にするだけの時間がありました。しかし、被害は死亡一名に重軽傷者が5名程度です。最高責任者である現場監督がもっとも軽傷で、ただの作業員が死亡というのも不合理です。以上の点を考えると、リブロイドは殺意を持って暴走したのではない、ということが結論づけられます」
「でも雫、あそこで暴れること、暴走することが目的だったとしたらどう?」
「データが不足しているため、判断がつきません。しかし、示威行動ならもっと目立つ場所でやるべきではないか、と考えます。工事現場からわずか30メートルの位置には商店街が存在し、多数の人間がいました。対象が現場から即座に街へと移動した場合、マスターの避難後すぐに追いかけたと仮定しても、20人以上の人間を殺傷、3店以上の店舗の完全破壊が可能でした」
「筋は通っているわね」
黒崎は腕を組んで考える。
そもそも、リブロイドを犯罪に使うのはハイリスクだ。どういう訳か、都市管理局はリブロイド犯罪に異常なほど神経を尖らせている。足が付いた場合は、裁判無しで射殺もあり得るほどだ。
何らかの示威行動なら、リブロイドを暴走させてみるのは一つの手ではある。ただし、それは広く社会に知られなければならない。工事現場で暴れるよりはもっと効率の良い方法がたくさんある。
この点で雫の指摘は正しい。
「雫、リブロイドを狂わせるようなシステムがあるとして、それを使ってテロを行うような可能性は考えられる?」
「不合理です。普通に爆発物等を使う方が安上がり、かつ確実です」
「リブロイドそのものを標的にしている可能性は」
「それならばなおのこと公的な場所で活動しているリブロイドを標的にすべきです。民間で窓口業務を行っているリブロイドを狙った方がはるかに容易で、社会に与えるインパクトも大きいと考えられます」
その通りだ。ではなぜ、あの工事現場でなければならなかったのか。
あの現場に何かあるのか。それとも……あの死んだ青年に何かあったのか。だが、人ひとり殺すにしては大げさすぎる気もする。
判らないことだらけだ。何かが引っかかるが、判らない。そして、黒崎に「関わるな」というメッセージを寄越した人物にも、だ。
ため息をついて、椅子に背を預ける。
何にせよ、事件については好奇心の域を出ないし、推理ゲームで賞金が出るわけでもない。仕事を見つけなければ。それも土木関係以外でだ。
長期に雇ってくれるような所があればいいのだが、メーカーが外部の技術者を設計に関わらせることはほとんど無い。業界に名が知れ渡っているレベルにでもならないと無理な話だ。好事家のカスタムオーダーは実入りが良いが、なかなか回ってこない仕事でもある。
ふと気がつく。メイスンに仕事の当てがあるか聞けば良かったではないか。
インフォメーターから良い返事がなかったら、考えてみよう。
「それにしても、丸4日近く寝るなんて初めてだわ。薬が合わなかったのかしら」
「使用した睡眠導入剤がマスターの体質と合わなかったようで、効果が規定よりも強めにでた模様です。申し訳ありません」
雫は頭を下げたが、怒る気持ちや咎める気持ちは起こらず、ただそういうものか、と言う感慨を抱いただけだった。
彼女が持ってきた薬は以前にも使った事があった気がするが、ここまで強くは効かなかった。何とはなしに自分の手を見つめ、手を開いて感覚を確かめるが、特に異常は感じない。
「体質、変わったのかしらね」
「医療用データベースに実例が載っていないため定かではありませんが、可能性としては疲労による耐性の低下、直前に摂取したカモミール茶との相互作用、マスター自身の身体に何らかの変化が起こったため、等が考えられます」
引っかかる言い方だ。
「身体の変化って何よ」
「原因は不明ですが、最近では特定の成分に対して永続的に耐性を失ったり、感度が高まる事例が報告されています。ご心配なようでしたら、一度精密検査を行うことを提案します」
「ああ、あの眉唾な話ね。それはちょっと大げさよ、雫。あなたの見立てでは何ともないんでしょう? だいたい、そんな異常があったら自分でも気づくわよ」
地下都市における疾病罹患率の高さは、テクノロジーの進歩と比較してもかなり高いと言われている。大破壊の遺伝子的影響、管理局の母体であるエクスィードによる大規模な人体実験、そもそも人間の種族寿命が尽きている、そういった話は枚挙にいとまがない。
人間は本質的に欠けた因子を持って生まれてきており、その本質的不完全さが原因だ、などというオカルトとも宗教とも付かぬ意見もある。
しかし医療技術の進歩とナノテクノロジーの伸展、それにサイバネティック技術の向上により、一般市民における生身の肉体へのこだわりは少なくなってきている。肉体に不都合があるなら、代替手段は豊富にあるのだ。生身にこだわるのは、肉体改造が力の低下に繋がると噂されている高位ランクの能力者ぐらいだろう。
哲学的な意味以上に、肉体は魂の牢獄なのかも知れないのだ。
進歩したテクノロジーは、魂の思い描くままに、肉体を書き換え、再構築し、その在りようと現実の齟齬を埋めていく。人工義肢のメーカーが声高にそう主張するのは、そこに意義を見いだす人間が少なくないからだ。黒崎自身も十分な資金があれば仕事用にコネクタや外部端末、脳の外部領域の増設も悪くないと思っている。ブレイン・マシン・インターフェースは便利だが、ハードウェアをもっと増設できれば仕事も早い。
「私はあくまでデータベース上の事例から確率の高い物を提示しているに過ぎません。診断は医師が行うべきです」
「まあ、実感できるような症状が出たら、の話よね。今のところ、体調に関わることはお腹が空いたことぐらいだもの」
「現在の体調と消化能力から考えると、もっとも適合しているのはサイボーグ用の滋養ペーストかと思われます」
「うえ。あれって人が食べるようなものじゃないって聞くけど」
「高カロリー、高タンパクで必須栄養素を満遍なく含み、極めて消化効率の高い食品ですので、絶食後の消化器官にも好適です。人が食べるようなものではない、と言うマスターの表現は不適当です」
「はいはい。私は味の話をしているのよ、雫」
「検索の結果からはグレープ味、レモン味、ソース味等が確認されており、成人女性の嗜好を満たしていると考えられます」
雫は説得モードに入っているので、これ以上話しても無駄と黒崎は悟った。
サイボーグ用の滋養ペーストは、改造によって簡素化された人工の消化器官でも無理なく消化できるようにした、言わば経口摂取できる味付きの点滴のようなものだ。効率的ではあるが、それは料理とは言い難い。
そもそも、視覚と触感が伴わなくては食事とは言えない。単なる栄養摂取だ。
黒崎は食事というのは精神をも満たすもの、という考えを持っている。雫にとって、食事は生命維持のためのものという認識だ。味や視覚を楽しむということを理解はしているものの、栄養摂取が主であり、そのほかは従でしかない。価値観が違うのだ。
嗜好に合わせて相応の、いやそれ以上の味付けを行う雫ではあるが、味と必須される栄養を秤に掛けたときは間違いなく後者を取るだろう。
「雫の意見はありがたく頂戴するとして、私はチーズスフレが食べたいわ」
「在庫はありません」
雫は無表情に即答した。想定通りの答えだ。
「じゃあ買ってきて。オーランタンのがいいけど、商店街の安物で良いから」
「わかりました」
「止めないの!?」
そちらの答えは予想外だったので、黒崎は思わず身を乗り出して突っ込んだ。
「脂質はともかくとして糖分は速やかにエネルギーに変わるため、適度な摂取であれば現時点では有効と判断します。またチーズスフレの取得はマスターの精神衛生の改善に役立つことも統計的に明らかであり、マスターの提案は十分に妥当性があります。反対する理由がありません」
雫はよどみなく答え、黒崎は逆に不信感に駆られた。
「何か企んでいるんじゃないの」
「いいえ。私に嘘を言う機能がないことはご承知かと思います」
それが怪しいのだ、と黒崎は思ったが、チーズスフレの誘惑には抗いがたい。
結局、黒崎は雫にカードを渡して送り出した。
4日間付きっきりの看病から解放されて気分転換したかっただけではないか、と言う疑念を抱きながら。