The Encounter World −2−
預かったリブロイドを報告書と共に依頼人に返却する。
仕事としては診断料のみの、安い上がりだった。商売としては成り立たない金額だ。
調べ得た事項の全てを記載したが、何の解決にもならないだろう。
黒崎が得た物と言えばDALIAが手の付けられないプログラムであるということだけ。結局感染源を特定することも出来なかった。防壁のアラートさえなかったということは、DALIAは接触感染するタイプではないということだ。決して口には出さなかったが、可能性として考えられるのは依頼人が自分の意志でDALIAを入力してみたこと。興味本位で試してみて取り返しがつかなくなった、というシナリオは十分想像できる。
真相が何にせよ、もう黒崎の手を離れた事例だった。
「後味の悪い仕事だったわね。儲けもないし」
黒崎は深いため息のあと呟いた。
「しかし対処方法がないという事実がわかりました」
慰めるように雫がいう。意外な答えに黒崎は驚いた。
「変なところで前向きね」
「感染方法さえ判れば、回避の方法はあるのではないかと考えられます」
雫の指摘は正しい。もっとも、それを避けるためには、DALIAとは何なのか、ということを知らねばならないことも事実だが。
「どんなリソースなのかは見てみたいけど、流石に電脳に潜るのはちょっとね。あれだけのデータ量が乱雑に暴れていることを考えると、防壁があってもデータに触れただけで自我が吹っ飛びそうだわ」
「実際にデータを目にしていないので推測に過ぎませんが、過剰な負荷に接触した場合、短時間で脳の焼き付けを起こすことが予想されます」
つまりそれは死ぬ、ということを暗示していた。
「でしょうね。興味はあるけど命あっての物種だわ。『好奇心は猫を殺す』って言うしね」
雫は少し間を置いてから口を開いた。
「質問をしてもよろしいですか、マスター黒崎」
「雫が質問とは珍しいわね。なに?」
「DALIAは、性的逸脱者がリブロイドの自壊を目視して楽しむためのプログラムと聞きました。自分の所有物を自ら破壊して得られる快楽というのは、いったいどのようなものなのですか?」
難しい質問だ。
黒崎は顔をしかめて返した。
「答えられないような質問をしないで欲しいわ。変態の趣味なんて判らないもの」
「申し訳ありません。何度推論しても適切な答えが得られなかったので、同種であるマスターであれば理解していると思ったのですが」
「同じ種族と言っても、人間ほど不可解な生き物はいないわよ、雫」
「多くの哲学者がそのように述べていることは知っています」
「そうね。だから、パターン化して人間を理解しようとすることは無意味だし、危険よ。性的嗜好の多様性は、まあ、私には理解できないものの方が多いわね。その質問は、たぶん精神科医に聞いた方が望みに近い答えが得られると思うわよ。ところで私も質問したいんだけど、なんでそんな推論を始めたの?」
「今回のケースが特殊であるということは予想できましたが、そのような対象に接触した場合の行動予測が出来ませんでした。類似した事例から推論を行いましたが、十分な結果が得られなかったため、情報源としてマスターにお聞きするに至った次第です。しかし、パターン化することは無意味だ、と言うマスターの意見には一考の余地があるものと思われます」
模範解答だ。リブロイドの「思考」は与えられたデータから、確率の高い物を選択していく。データがなければ、対話やデータベースから情報を取得しようと試みる。雫もそれにならい、黒崎に対して質問することでより精度の高い情報を得ようとしている。
黒崎は雫の言葉に頷き、続けた。
「行動や言葉だけで相手を予測するのは無理と言ってもいいわ。笑った顔の奥で怒っていることもあるし、約束したと見せかけて裏切ったりもする。言葉の裏を読む、という言い方があるけれど、言動と行動の不一致を見抜くのは難しいわよ。本当に予測したいのなら、その対象のことを知らなければならないけれど、知った上でも裏をかかれることもある。人間の一番優れたところは、嘘をつくところかも知れないわね」
「すべての人間が、虚偽の発言をする可能性を内包しているのは理解しています」
「そりゃ人間は嘘をつく生き物だけど、私は雫を騙したりはしないわよ」黒崎は憮然として言った。
「矛盾です。すべての人間が嘘をつくなら、マスターもまた私に嘘をつくはずです」
雫は相変わらず、何の感情も感じさせない声で返す。
黒崎は眉間にしわを寄せた。
「嘘つきのパラドックスね。『嘘をつくはず』って断定されるのは気に入らないけど。それじゃあ聞くけど、雫は私に嘘をつかないってわけ?」
「そのような機能は搭載されていません。私の役目はあなたを守ることです。虚言はマスターの状況判断に重大な過誤を発生させる可能性があります」
「あーはいはい。機械は嘘をつかないって言いたいわけね」
「それはマスターの著しい誤認です。心理ケアプログラムには、認知療法のために現実的でない発言をすることがあります。これは広義の嘘に該当します。リブロイドが嘘をつかないのではなく、私が嘘をつく必要がないということです」
鉄壁の回答で雫は黒崎をやり込める。黒崎は椅子の背もたれへ押しつけるように身を預けながら、長く息を吐いた。
「あなた、こういうときだけ妙に理屈っぽくなるのはどうして?」
「論理的に説明するためです」
黒崎には雫が胸を張って答えたように見えて、もう一度顔をしかめる。
「なんか物凄く腑に落ちないわ」
「感情的に物事を捉えると、論理よりも自尊心が優先される事が多いと聞きます」
こうなったときの雫は容赦がないし、絶対に勝てないのだった。
黒崎は頭を掻いて唸った。何せ相手は論理の固まりだ。アナログ思考の人間は敵うまい。
「この話はここでおしまいっ」黒崎は投げやりに話を打ち切った。「遅れを取り戻す、じゃないけどちょっと実入りの良い仕事を見つけないといけないわ」
蓄えがあるため生活がどうにかなるようなことはないが、今はとにかく考えたくなかった。
途中で話題を変えた黒崎を追求することなく、淡々と雫が告げる。
「インフォメーターからはいくつか返答待ちの依頼が入っています」
飛び入りの仕事ではない、というのはいい兆候だ。
「お金になりそうな物はある?」
「一件、急ぎの案件で大型リブロイドの調整が入っています。期間は三日以内、内容は他社製脚部のマッチング」
「うーん。何かめんどくさそうな仕事だけど。泊まり込みの突貫作業かしらね」
概要を聞いただけでもまともに眠れるような仕事とは思えない。
「断りますか」
「急ぎの仕事は稼ぎ時よ、雫」
「そのような格言は聞いたことがありません」
「ノリが悪いわね。もっとこう、盛り上げるようなことが言えないの?」
雫は逡巡するように少しの間黙ったあと、やおら口を開いた。
「ごめんなさい☆ご主人様。そうですよね。やっぱりお金あっての人生ですよね。わたし、断然応援しちゃいます。やっつけ仕事で大もうけ、濡れ手に粟の一攫千金です。フレー、フレー、ご主人様」
雫は全く抑揚のない口調で媚びた台詞を並べる。本人は黒崎の要望に応えたつもりなのだろう。
黒崎はしばし呆然とした後、絞り出すように言った。
「………何処で覚えてきたの、そんな言葉」
「マスター黒崎が先日ご覧になっていた「魔法のお手伝いさん☆家政婦は見た〜トリプル不倫は死の投げキッス」のデータベースからもっとも嗜好に合いそうな人物をエミュレーションしました」
確かに見ていた。だが嗜好に合いそうな人物とはどういう事だ。あんな媚びた女は自分の好みではない。というか男でも駄目だ。なおさら駄目だ。
「よろしければ、以後もこのままマスターを鼓舞いたしますが」
それでも、それでもこの無骨者は応援しているつもりなのだ。
雫なりのいじらしさを見た思いがして、黒崎の頬は緩んだ。
緩んで、そのまま止まらなくなった。
「ぷっ……くっ……あははははははっ」
真面目にやっているから余計におかしい。反則だ。
テーブルに突っ伏したまま笑いを堪えようとするのだが収まらない。
腹筋がつりそうだ。
ひとしきり笑った後ようやく雫に向き直る。
直視するとまた笑ってしまいそうだ。
「あんまり人を笑わせるもんじゃないわ、雫。死ぬかと思った」
「お気に召さなかったのは残念です」
憮然としたような口調で雫が言う。
「芸としては悪くなかったわよ」笑いすぎで痙攣する腹を押さえて黒崎は呼吸を整えた。「せっかくの雫のお勧めだから受けてみましょう。先方に、必要な機材と細かい内容を文章で送るように返事を出してちょうだい」
「わかりました。こちらから見積もりを出しますか」
「外向けに出してる金額の2割増しでね。ああ、最初に言っておくけど『この料金は割増しです』なんて書かないように」
その程度の判断が付かないはずはないのだが、雫はたまにそういうことをやらかすのだ。
あらかじめ釘は刺しておかねばならない。
頼りになるし、欠かせないパートナーだが、肝心なところでは気が抜けない。その融通の利かなさがギャップであり、魅力なのかもしれない。人は他人の欠点に美徳や魅力を見いだす生き物だ。
メールを返信するためか、雫が居間を出てラボへと向かっていくのを見送る。
その後ろ姿を見てふと先程の台詞を思い出し、黒崎はしばらくの間笑い転げた。
目の回るような一月だった。
依頼は立て続けに入り、休みを取る間もなく仕事に忙殺される。そのほとんどが大型リブロイドの調整の仕事だった。動作の最適化や納品された新品の調整、あるいはパーツ単位からの組み上げを突貫作業で。他には購入についてのアドバイス等々。
急ぎの仕事がほとんどだったが、支払いそのものも悪くはなかった。
多脚型の下半身に油圧駆動方式のパワーアームを取り付けた、いわゆる産業ロボット然としたリブロイドは瓦礫の撤去などに用いられる。もともと大型のリブロイドの需要はそれほど多くはなく、流通しているルートも狭い。大型リブロイドに出来る作業は、人間が操縦する重機でも事足りるからだ。
それでも大型機の需要が伸びているということは、リブロイドが代替できる部分、つまりは昼夜問わずに作業し続けられる自律性と耐久性が求められている事を示唆している。人間よりも高く付くランニングコストを許容してでも行う作業と言えば、ジオフロントの拡張以外には考えられない。都市国家アナトリアの拡張計画はまことしやかに囁かれてはいたが、ここ最近の大型機の需要はそれを暗に裏付けているとも言える。開拓した土地は地表に近い層になるほど相当な高値が付く。もちろんその裏では入札の名を借りたカルテルが存在し、様々な利権が絡み合っていることだろう。
大型リブロイドの流通が限られているのもそれが一因だろう。頻繁に舞い込んでくる大型リブロイドの調整がそれを裏付けている。新型を導入すればマッチングなど必要ないが、製造元からの直販ルートは大企業が優先されている。中小企業が大型機を導入するとなれば、中古のパーツを寄せ集めて組み上げるのが安上がりだ。
そして、そこに黒崎のような技術者の飯の種がある、というわけだ。この辺りの事情は通常のリブロイドと同じだった。専門的な作業、誰にも出来ない仕事には常に需要がある。
もっとも動作の調整は専門的な知識と技術を要するが、技術者にとっては大して難しい仕事ではない。単に面倒なだけだ。
パーツの特性さえ理解していれば、接続そのものは難しくない。ただ、他社製のパーツを組み合わせると言うことは、各メーカーが使っているライブラリが使用できない、あるいは制限されるということを意味している。
そこを騙し騙しやるのか、即興で組み上げてしまうのかが腕の見せ所だ。
黒崎の手法は雫の処理能力に物を言わせて複数のライブラリから継ぎ接ぎして作る、さしずめ複合方式と言える。一から組むことも出来るが、ある物を組み合わせる方が手っ取り早い。
工事現場で動作確認しながらの作業は久しぶりだった。
現場で正式な機材を望むのは難しく、偏見を抜きにしてもこういう現場ではリブロイドの扱われ方もおおざっぱだ。ポータブル端末と雫に内蔵した機器、それに外部式の冷却装置という組み合わせは定番のものとなっていた。黒崎と雫、それに手荷物だけで作業をまかなえる機動性は、何物にも代え難い。
「それにしても」黒崎は目の前で鎮座するリブロイドに目をやってため息をついた。「パーツを組み合わせるにしても、もうちょっとセンスってものが……」
多脚タイプの下半身に中程度の出力をもつ高密度水素吸蔵合金と燃料電池の制御ユニット、パワーアームはショベルタイプの大型の物。上半身のバランスが著しく悪いが、それでもなんとか歩行が出来るのは六つもある足のおかげで接地圧が低くなっているからだ。
「とりあえずでっかいアームがあれば仕事は早いからな。電源はあんまりいいのが買えなかったけど、それでも足が一杯ついてればひっくり返らないだろ?」
というのが現場担当の弁だが、黒崎としてはとりあえず正座で説教をさせたくなる話だった。
一番金を掛けるべきは制御ユニットだ。ましな出力があれば何だって出来るし、稼動時間も延びれば複雑な作業も出来る。電脳の性能によっては複雑な作業、繊細な行動も取れる。バランスを崩すほどの大きさのアームは逆に慣性で振り回されて作業効率が落ちるし、電脳にも余分な手間がかかる。多脚型の足が多ければ転倒しない、というのは確かだが、それを制御するための負荷と電力はどこで賄うつもりなのか。
×だ。採点表があるなら全部に×を付けたい。
自分ならアームは二回り小さい物にして、足も四脚で機動性を確保、その分制御ユニットに金を掛けて作業効率を上げる。アームを小型化した分はそれでお釣りが来る。
それにパーツのデザインもよくない。下半身は見覚えがある。ワーカーデトニクスの「タイタン13」のものでデザインは直線主体だ。内骨格ではなく外骨格式で、脚部は分厚い鋼鉄製のプレート二枚で駆動部を挟み込むように構成されており、板自体が駆体を支える構造になっている。色はこの手の大型脚部の定番で、警戒色の黄色と黒で塗装されている。
一方上半身のユニットは見たことがないタイプだが曲線主体の細身のタイプで、外見から判断すると円筒形の内骨格式の構造に、保護板として曲面にプレスされたものが取り付けられている。保護板自体の厚みは薄く、作業中に跳ね返ってくる小さな破片が内部に入るのを防ぐ程度の強度しかない。その厚みから考えて、黒崎は改修か、正規品が脱落したあと別の駆体の物を流用、あるいはその場で叩き出した物を使っているのではないかと考えていた。色は薄い紫色で塗装されているが、どうやら塗り直した物らしく、本来あるはずのメーカー番号などが読み取れない。
アームはこれもメーカーがよく判らないが、見た目からすると生物的なデザインと構造を模した物だ。電磁伸縮型ポリマーによる人工筋肉を収めた円筒型のケースが三つ、油圧ダンパーを兼ねた内骨格の外周に取り付けられ、その上をリング状になった保護フレームが取り囲んでいる。保護フレームは濃緑色の樹脂製防塵カバーで覆われていた。
これらが渾然一体となって、強烈な違和感を発している。デザイン、色彩、全てに於いてだ。
どうにかやりようはなかったのか。自分に見積もりから調達までやらせてくれればこれ以上の仕事が出来るのに。
とはいえ、心中で文句は言えども仕事はこなすのがプロだ。
雫を経由して動作をエミュレーションしながら最適値を探す。
「どれも似たり寄ったりの数値ね……作業速度落として省エネ重視で動作を組むのが一番マシかしら」
黒崎が来る二週間前に稼働を始めたという大型リブロイドも、その大きさのわりにのろのろとした動きで掘り出した岩塊を片付けている。あちらの構成はワーカーデトニクスのタイタンシリーズの型番違いを組み合わせた物だ。
外骨格はプレスされた鋼鉄の板で構成されており、関節部はグレーの防塵カバーで覆われているのが特徴だ。ブロックを組み合わせたような四角さが、逆に工業製品としての力強さを表現している。ロボットらしさを強調することで安定感を与える。デザインとはそうした物だ。タイタンシリーズの開発には、黒崎も少しだけ関わったことがあるだけに、愛着のある駆体だった。それに同一メーカーの物であればライブラリの共通点も多い。いじらせてもらえばもうちょっと作業効率を上げられるだろう。進言すれば小銭稼ぎが出来るかもしれない。
端末から修正データを送り込み、動作を組み上げる。
この悪趣味な物のテストは食事を取って午後からにしよう。
黒崎は携帯端末の画面を閉じると、傍らの雫に尋ねる。
「今日のお弁当はなあに?」
「辛子と生ハム、ピクルスのサンドイッチです。スープはラビオリと季節の野菜を使った物をご用意しました」
生ハムは好きな材料だし、スープも想像するだけで生唾のでるような組み合わせだ。とはいえ、ここ最近の食事は洋物に偏っている気がする。もうすこし、和の物があっても良いのではないか。
「ねえ、雫。たまにはご飯物を作ってみないの?」
「マスター黒崎。我が家には炊飯器がありません」
「そんなはずはないでしょ。炊飯器ぐらい……あれ?」
そして少し記憶を手繰る。時々ご飯物が出ていたし、白飯もあった。
米が出ていないはずはないのだ。
「でも先週はお米を食べた記憶が」
額に手を当てて思い出そうとつとめる黒崎に、雫が言った。
「通常は白飯を外部から調達しています。本日は早朝からの出勤でしたので、用意するのは不可能と判断し、サンドイッチを主食とさせていただきました」
黒崎は眉間に皺を寄せて考え込んだ。
炊飯器がない。その事実を指摘され、キッチンの構成を思い浮かべてみる。コンロ。食器棚。ポット。コーヒーメーカー。ミル。オーブン。
炊飯器は、ない。
「そうね。炊飯器はなかったわ」
確認するように呟いて宙を仰ぐ。この数年間、炊飯器がないことに気がつかないなんて。間抜けとかそういうレベルではない。私の日々の生活とは一体何だったのか。
雫だ。全面的に家事一般を雫に押しつけていたからだ。しかも文句一つ言わないで完璧にこなすから、炊飯器の存在など頭になくても平気だったのだ。『便利すぎる道具は身を滅ぼす』という格言を唐突に思い出し、頭から振り払う。
炊飯器が無くても気にならないぐらい、雫は素晴らしい。
「完璧よ、雫」
「仰る意味がわかりません」
雫はあくまで冷静に切り返す。
黒崎は視線をずらし、そして思った。雫は素晴らしい。この、突っ込みの激しいところを除けば。
仮設されたテントの中は食堂と言うにはあまりに粗末な物だったが、雫の手料理の本質が損なわれることはいささかもない。
パイプと天板を組み合わせたテーブルの上にクロスを拡げ、弁当を包んだ白いナプキンを解く。
乳白色のプラスチックのふたを開けると、テントに立ちこめる土埃の匂いを打ち消すようにピクルスの甘い香りが漂った。
脇に立つ雫がポットから野菜スープを器に移して黒崎の前に置く。
「それじゃ、いただきます」
黒崎は食事を前に両手を合わせた。
匂いが指し示すようにピクルスは甘みが強めで、一緒に挟まれた生ハムの塩気と合わさって複雑な味を構成する。適度な歯触りと酸味の残響が、黒崎を次の一つへと駆り立てる。
長い時間を掛けて抽出された野菜の滋味、溶ける寸前で辛うじて形状を保つ肉入りのラビオリがたっぷりと入ったスープも格別だ。
めくるめく美味の劇場。
過酷な戦場にあっても、奮い立たせるような食があれば人はどこまでも戦える。
その格言はまさしく事実だと感じながらも、テーブルの上の品は次々と消えていく。
手が止まらないとはまさしくこのことだ。
「腕を上げたわね、雫」
「お褒めいただき恐縮です」
「やっぱり美味しい物を食べるっていうのは大事よね。エンゲル係数が高くなっても断固食事の質は落としたくないわ」
「食材のグレードを上げた方がよろしいですか」
「……手加減して」
贅をこらした食卓のビジョンを垣間見つつも、黒崎は答えた。
マイホームと食の夢を秤に掛ければ、辛うじて家が勝つ。
「しかし、安くて美味しい物を、というのには限度があります。質の向上を求めるのであればそれなりの投資は必要です」
「あなた、ひょっとして私を誘惑しているの?」
「当然の事実をお話ししたまでです。増資が望めないのであれば、現行の水準で対応せざるを得ません」
今のままでも十分に満足しているし、後悔もないのだが、そう宣言されると物凄く惜しいことをした気分になってしまう。
「雫には訪問販売の才能があるわね。そっちで家計を助けられそうよ」
冗談半分、本気半分でそういってみる。
「私の役目はマスターの護衛です。そのような目的のために建造されたのではありません」
雫は厳かとも言える口調で会話を打ち切った。
黒崎としても小銭のために名料理人を外に出すつもりはなかった。
「人の形を模しているのは、知性を保護するための擬態に過ぎないんですよ。本来はどのような形であってもいい」
「それじゃリブロイドとは呼べないわ」
「なぜです? ご存じの通り、この世の人間はどこかしら欠けている。貴女にだって欠けている部位がある。あるいはこれから出てくるかも知れない。私には常識、つまりは通常の人間のような倫理観が理解できない。私は天才なのではなく、物事を別の側面から捉えてそれを効率よく実現しているに過ぎないのです」
彼は銀縁の眼鏡を人差し指で押し上げて位置を正し、続けた。
「腕が2本ないと人間ではないですか。私は4本持っている人を知っています。視覚を機械で補っている人も居るでしょう。私の友人は、脳以外全て作り物です。では彼らは人間ではないか。否。彼らは人間です。なぜなら自分で自分をそう定義しているから。リブロイドも同様です。人の形を模す必要はない。人の仕組みを模す必要はない。人の固定観念に縛られる必要はない」
「それじゃ電脳そのものがリブロイドの定義を体現している?」
「電脳はただの器ですよ。人間の脳だって似たような物でしょう。人間を人間たらしめる、外部的な保存装置と出力装置でしかない。人間の本質はもっと別です。もっともソフトウェアとハードウェアは相互に関係し合っているので、完全に別物とも言い切れませんが。我々が人間と称している物は、ソフトウェアとハードウェアが一つのパッケージになったものですが、その根本はソフトウェア側にあります」
「同様に、リブロイドをそれ自身として定義しているのは自らの意志によるもの、って言いたいわけ? 私には眉唾な話に思えるんだけど」
「リブロイドの思考形態は人間のそれとは別種の物ですよ。理解なんて出来るわけがない。ベースになっているのは、人格を再現しようと試みた大破壊前のデータベースですが、流通後にフィードバックされ経験と最適化を繰り返されたリブロイドの知性は模倣人格を離れた別の物になりつつあります」
「もし彼らが自分を人間だと言い出したら?」
「人間なのでしょう。偽りなくそう思っているのなら」
「なんか宗教的な問答みたいになってきたけど、リブロイドに知性がある、という事実は私も突き止めたいと思うわ。でもそんな証拠も、兆候も、ソースもない。意志と見られているものは、実際には推論と選択の結果でしかない。たとえ本当にそれが意志かどうかは確かめたくても、『意志とは何なのか』は観測者の主観によって定義されてしまうわよね?」
「リブロイドのやっていることは私たちとたいして違いませんよ。それに」
「マスター黒崎。逃げる準備をしてください」
視界が白くなる。
黒崎の意識は雫の言葉によって割り裂かれた。
「ん……?」
見回せば、そこは薄く土埃の積もったプラスチックのテーブルと冷蔵庫のある簡易テントの中。今までのは、夢か。椅子に寄りかかったまま船を漕いでいたらしい。
傍らに直立不動で立つ雫が、いつものように抑揚のない声で言った。
「繰り返します、マスター黒崎。荷物をまとめてここを離れましょう」
まだぼんやりとした頭のまま黒崎が尋ね返す。
「どうして?」
「大型重機の暴走のようです。念のため安全圏までの避難を提案します」
視覚に頼らず音だけで周囲の状況を把握するのは、護衛用リブロイドの面目躍如と言ったところだ。 外が騒がしいのはそのためか。
「重機って……人が乗っているのに?」
質問の答えはない。代わりに雫がこちらに躍りかかってきた。
抗議の声を上げる間も無く押し倒され、背中を打ち付けながら地面にひっくり返る。
雫に覆い被られた状態で黒崎が見たものは、先程までテントであったものが横凪に吹き飛んでいく光景だった。天幕から、人工地殻の描く空へ。光量の変化に黒崎は眼を細める。
雫の脇から少しだけ見えたのは暴れている大型のリブロイドの姿。
先程のような遅々とした動きではなく、まるで一個の台風になったかのように左右のアームを振り回し、あらゆる物をなぎ倒している。黒崎のいたテントはその一つだったわけだ。
雫は既に立ち上がり、周囲を警戒している。
黒崎も何とか上半身を起こして辺りを見回した。
巨大な粉砕器と化したアームから逃れるために、他の作業員達も逃げ回っている。現に怪我人も出ているようだ。フォークリフトやトラックなどがなぎ倒され、漏れ出した燃料に引火したのか黒煙を上げている物もあった。
リブロイドの動きは完全に不規則で、何か目的があるようには見えない。
4つの脚が地面を踏みしだき、歪なステップで蹂躙する。仮設の事務所が半ばから削り取られ、建物全体が傾いだ。曲がりかかったドアを押し破って、中から人が逃げ出している。
「あぶな……っ!」
刹那に全てが凝集する。逃げ遅れた人間がアームに巻き込まれ、溢れんばかりの物理エネルギーによって粉砕され、こちらに飛んでくる。
黒崎の斜め前方の壁にそれは付着し、ずるりと赤い血の尾を引いて地面に落ちる。それが人間という生き物であった事を理解するのは難しい。
手足はない。線と、管と、白い物と、それから半分だけの顔。
それはもう人間ではない。だが黒崎はそれを人間と知っている。認識している。それはつい今し方まで生きていたもの。まだ若い、見習いの、少年とも青年ともつかぬ年頃の、人間。
言葉を交わしたことがある。実入りは悪くない、なんて軽口を叩いていたのも見た。
それがこの、赤い物。
「危険です、マスター。待避を」
鈍麻した状態の黒崎を雫が促すが足が動かない。
視線は前方にある赤い染みに釘付けになっている。
本当に恐ろしいときにはどうにもならない。狂乱するリブロイドはアームを振り回しながら敷地内を動き回っている。
逃げなければ、と命令する脳と凍り付く足。
視界が横に流れた。腰は何かにガッチリと固められ、身体が宙に浮く。
一瞬、あの大型リブロイドの腕で握られているのかと思い、戦慄で叫び声を上げそうになる。
それが間違いだと気がついたのは、風になびいて尾を引く黒髪を見たからだ。
雫は両腕で黒崎を抱え、走っていた。時間にして数秒足らずだったに違いない。それでも表情を変えぬ雫の横顔が、黒崎を護るという鉄の意思の表れに見えて、黒崎は胸に安堵が広がるのを感じる。
十分に離れた後、雫は黒崎の身体を静かに横たえた。
「ありがとう雫。助かったわ」
ようやく言葉を発する。歯の根が合わさったまま、口を開けることが出来ない。食いしばったままの歯の隙間からどうにかして送り出した言葉だった。
黒崎の感謝の言葉には反応せず、雫はなおも暴れ回る大型リブロイドの姿を凝視している。
「破壊します」
雫は一言だけ言った。
「待ちなさい、雫!」
黒崎の言葉さえ置き去って雫は走り出す。
雫は護衛用リブロイドである。デチューンされ、規定の装備を外され、その出力は大幅に抑えられているとはいえ、性能は一般リブロイドとは比べものにならない。
黒崎はそれを知っている。カタログスペックとして。
汎用品とは一線を画す性能とはどのようなものか、黒崎は始めてその目で知った。
暴走するリブロイドへと突進する雫には迷いも恐れもない。彼女は戦うべくして生まれ、そのために作られた。雫はその本来の役割を果たすべく、生まれ定まった運命を貫く機械仕掛けの魔弾。
身を低くして走り寄る雫を遠ざけるようにアームが宙を薙ぐ。
雫はそれを滑り込んでかわし、さらには振り抜かれる腕にしがみついた。
リブロイドが異物を感知し、滅茶苦茶に腕をスイングさせて雫を振り落とそうとする。
雫はそれに耐えた。あまつさえ、取り付いた部分から本体の方へと移動を開始する。
動きそのものはロッククライミングのように着実だ。三点支持を基本とした動きで、振り回されるアームを登っていく。
しかし着実さを基本としながらも、速度は桁違いに速い。
黒のボディスーツに身を包む雫は、夜で出来た螺旋のように姿勢を入れ替えながら腕を這い上り、本体へと迫る。
動作を止める方法は三つ。駆動系を止める、胴体内部にある電源ケーブルを切断する、頭部を破壊する。
雫が取ったのはもっとも確実な方法。
首筋のくぼんだ部分にたどり着いた雫は、大型機の肩に両足をかけて体を固定した。そしてそのまま両手を突き入れる。両腕の人工筋肉が、外観からも判るほどに大きく膨らんだ。最大稼働。瞬間的に引き揚げられた出力は、リブロイドの装甲板を無理矢理引き剥がすほどの膂力を発揮する。
雫は煩わしげに剥がした装甲板を投げ捨てた。
鋼板の落下音はリブロイドの起こす地響きに比べれば砂の零れる音にも等しい。だがそれを目にした者には教会の鐘のように響いた。
雫が右掌をリブロイドの頭部に押し当てる。巨体が痙攣するように揺れた。
何が起きたか理解したのは黒崎一人だけだっただろう。彼女自身も存在をすっかり忘れていたが、雫の右手には接触式スタンガンが仕込まれている。内蔵火器を取り外した雫に残されている唯一の武装。その出力を瞬間的に引き上げて電脳を焼き切ったのだ。
一瞬遅れてアームがリブロイド自身の頭に振り落とされる。
飛び退く雫の前方で、頭部を失ったリブロイドはゆっくりと擱座した。
脅威の排除に沸く歓声もなく、ただ沈黙だけが残った。