そして仕事は始まった。
  入っていた問い合わせは全部キャンセルし、法令データベースへの常時アクセス回線を設置する。
  こういった問題は時にデリケートだ。ついでに言うなら利権も絡む。
  予算が潤沢というのは部品調達がしやすいが、今回は交渉を含むので楽な仕事ではない。
  相手の病院へ最初に打ったメールの回答は、もちろんノーだった。
  だが、これはラッキーなことでもある。
  最初の回答を渋ったときほど、条件を小出しにしてこちらを有利にすることが出来る。
  グレーな案件にすぐ食いついてくるようでは先行きが心配だ。
  攻め手はいくつもある。だが基本的に有利なのは相手側。提示する条件は出来るだけ魅力的に、そして担当する人間をいかにして丸め込むかが焦点だ。
  相手が恐れているのは何よりも「病院の物資横流しと思われること」だ。その回避のための方策、方便を雫を使って探させる。
  法令データベースには膨大な判例が付属している。判例は、いわば公式的な法解釈だ。
  似たような案件を探し、提示する。
  担当者の警戒を解きつつ、「旨味」も匂わせる。
  旨味の種類には色々ある。今後の取引に関する特約やオプション、値引き、手っ取り早く現金など。
  新品一台と交換する、該当の駆体は「廃棄処分」という形で所有権を手放し、回収業者を経てレストアという形で再登録する。
  都合10回に及ぶ交渉で何とかこぎ着けたのがこの条件だ。
  袖の下を使えばもっと話は早かったのかも知れないが、医療関係の資金の流れはチェックが厳しい。
  手数料として「新規購入するメアリの調整費用」を黒崎が受け取らずに関係者に横流しすることで鼻薬を嗅がせる代わりとした。
  時にはこういう裏技も必要となる。
  フリーになってから得た処世術だ。
  ただ、メアリを身請けするにあたって絶対遵守しなければならない問題が一つ。
「データは全消去してもらわなければ困る」というものだ。
  当然の話だった。
  病院の駆体から情報が漏れるような事態はなんとしても避けなければならない。
  メアリそのものに保存領域がほとんど無いとはいえ、データの断片だけでも不安材料にはなる。
  予想はしていたが、バスカークにそれを伝えるのも気の重い話だった。
  それは事実上、バスカークの求めている特別性の喪失を意味する。
  懸念があるとすれば、これをもって依頼の打ち切りということだが、その場合は経費だけでも回収できたとして「良し」とすべきなのであろう。
  最善を尽くす、それだけが黒崎に出来ることなのだから。

 メアリの「身請け」が実現したと言うことでバスカークと再び会うことになった。
  場所は以前と同じホテルのスイートルーム。
  お気に入りの場所なのか、黒崎に気を遣っているのか。
  それはともかくとして、今回もテーブルには紅茶とスコーンが用意してあり、クロテッドクリームと瓶たっぷりのクランベリージャムも置かれていた。
  まずはお茶を、というのが定番になっていたので今回もそれにならう。
  バスカークは相変わらず見ているだけで胸焼けしそうなほどクリームとジャムたっぷりのスコーンを平らげ、それから話に入った。
「交渉がまとまったと聞いて一安心したよ」
「まだ駆体の搬入には至っていませんが、法的な問題、書類上の問題は全てクリアしました。仔細は報告書にまとめておきましたが、仕様に関していくつかご提案が」
「聞かせてもらうよ」
「ご存知の通り、メアリは医療用です。下半身は信頼性の高い全方向型の駆動輪で構成されています。段差の無い病院では非常に有効性が高く安定した駆動方法ですが、段差に弱い欠点があります。別途料金をいただく形になってしまいますが、通常型の脚部をご用意して付け替えることも出来ます」
「そうか。スカートの中はそんな風になっていたのか」
「まあスカートをめくって見るわけにはいきませんからね。メアリのスカートはエアクッションになっていますから、患者が転倒しそうになったとき受け止めて、自身も転倒しないような措置が取られています。ただ、一般的には必要ない機能ですし、段差の多い通常の邸宅で使用するなら自由度の高い脚部の方が適しています」
「ふむ。なるほど」
「基礎OSには二脚タイプの制御プログラムが完備されていますので、マッチングにそれほど手間はかかりません。ただし、下半身を全交換にする形になるので身長や外観に若干の差が出るかと」
「君はどちらのほうが可愛いと思うかい?」
「か、可愛いですか……フレアスカートも悪くないですが、脚があった方がバリエーションは増えますので、ごく個人的な意見を述べさせてもらえば二脚タイプに付け替えることをお薦めします」
「ではお願いするよ。ところで……彼女はいつごろこちらに来られるのかい」
「あとは引き上げの時期と代わりの躯体の納品、パーツ交換、基礎システム書き換えなどが残っていますから、どんなに早くても一ヶ月はお待たせすることになるかと」
  黒崎はためらい、しかし伝えるべき事として口を開いた。
「それと病院側の最低限の用件として機密保持のための有機メモリの初期化を確約するようにと言われています」
「ちょっとまってくれ。有機メモリの初期化ということは、記憶が完全に無くなってしまうってことじゃないか?」
  当然の反応だった。
  有機メモリは、人間の脳を模した構造であるとはいえ通常のハードウェア同様に外部から内容を消去し、初期化することが出来る。
  本来ならば全く新規の有機メモリを用意すべきだが、出来うる限り現存しているパーツを使い、外観も内部機構も維持するのが黒崎の流儀だった。
  ハードウェアとしての観点から言えば全てを新品にすべきであろう。けれども、「古さ」には意味がある、と黒崎は考えている。思い入れとはすなわち古さに宿る、と。
  それでも機密保持という観点から有機メモリの初期化は行わざるを得ない。ましてメアリにいたっては実際に多数の個人情報を扱いながら運用されてきた現役の躯体である。万に一つも記録を残すわけにはいかない。
  何より問題なのはメアリの特殊性だ。
  ローカルエリアネットワークで相互に連携しあう個々の躯体に、確固たる自我や性格は存在しない。
  メアリは文字通り端末であり、その本体は病院のエキスパートシステムだ。メアリの行動はエキスパートシステムの振る舞いがそのまま端末として表現されているに過ぎない。
  つまりはバスカーク自身が見出している個性や人格に該当するものはもとより存在しないものなのだ。
  黒崎は同情するような顔で説明する。
「前にも申し上げたとおり、メアリの躯体に記憶というものは存在しません。メアリのデータは相互にエキスパートシステムと補完しあっていて、データは常にフィードバックされているので「個々の記憶」は存在しないのです。
  彼女が持っているのはあなたの個人的なデータと対話のためのライブラリだけで、治療データをのぞけば全てリセットされてしまいます。
  つまり、「記憶」と呼べるようなものは最初から彼女には残されていません。むしろ、有機メモリを初期化するのは「これから」のためです」
「なんて残酷なシステムなんだ……」
  呆然とつぶやくバスカークに、黒崎は同情する。
  リブロイドはつまるところ機械である。
  そこには曖昧さの存在しない、厳密な領域が存在する。生物にとっての死がそうであるように。
  データを初期化すると言うことはソフトウェアの死を意味するのだ。
  少なくとも、バスカークにとっては。
  弁明は無意味だった。
  慰めは嘘になる。
「お止めになるのも一つの選択肢です。このまま続けることも。与えられた部材を最大限に使って可能な限り元の環境に近づけることはお約束できます。ですが、システムから切り離されて構築された物は元の物ではありません。それと向き合うことはとても残酷な結末をもたらすかもしれません」
「……君は、それを予想したうえで『覚えていない可能性がある』といったのだね?」
  有無を言わせない口調だった。
  黒崎は頷く。
「病院の駆体である、という時点で想定の範囲でした。繰り返し申し上げますが、システムから切り離されたメアリはただの端末に過ぎません。詭弁かと思われるでしょうが、ただの端末にパートナーたり得る機能を付加してお届けするのが、技術者として出来る私の最大の仕事です」
  バスカークはため息をついた。
  長く。
「いいだろう。君は確かに僕にそう言った。続けてくれたまえ……結末はその時受け入れよう」
  奇跡の芽を摘み取ることは罪になるのだろうか。
  罪かも知れない。
  しかし技術者としての倫理に背いたところで、もとより存在しない記憶が創出される事があるはずもない。有機メモリを初期化しない、という選択を取ったところで何かが生まれるわけではないのだ。
  バスカークの思い描いていた「記憶」そして「感情」は転移の産物であり、虚像だ。
  技術者とは、夢の担い手であると同時に夢の粉砕者でもある。
  夢を形にすること、憧れのために手を加えることで失われていくものもある。
  依頼人はそれでも壊れてしまうかも知れない結末を選んだ。
  ならば。
「判りました。以後の案件も、誠心誠意努めさせていただきます」
  それは黒崎の本心。
  唯一、出来ること。


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