治りかけていた肋骨の痛みで気を失ったハンスが目を覚ましたのは、白い壁で囲まれた部屋だった。
  見ると服も白い入院服に替えられている。
  手にある違和感は点滴が繋がれているせいだった。感覚が鈍いのは、鎮静剤のせいか。脇腹は痛むが、鋭さはない。
  ブラインド越しの光はあくまで柔らかく、その清潔感はハンスを逆に不安にした。
  何故自分はこんなところにいるのか?
  答えはすぐ得られた。
「目を覚ましたわね」普段着のイェナは優しく微笑んだ。リネンのシャツにローライズのジーンズという格好は、年の離れた弟を見舞いに来た姉のように見えるだろうか。「取りあえず精密検査の結果は異常なしということだけど、しばらく寝てなさいな。治りかけのあばらが軽い炎症起こしているらしいから、まだ色々調べたり湿布貼ったりするみたいだけど」
「…………お手数を掛けます」
「ま、保護者としてはこれくらいは手間の範疇かしら? それにしても────油断したわね」
  叱責するまでもない、しかしどこか怜悧な言葉。
  ハンスにとってはむしろその方が好ましい。いや嬉しい。自分が求めているのはこの緊張感なのだから。
「…………はい」
「でも殺さなかったのには点をあげてもいいわね。命を奪わなかった、ということにではないのよ? きちんと自分を鎖に繋いでおけた、という意味。────まあ、ジョーンズを殺されちゃうと色々面倒だし、私としても後味が悪いからお礼を言っておくべきかしらね。動物みたいな奴だけど、あれはあれでなかなか憎めないところがあるのよ」
「僕は気に入りません」
  イェナは苦笑した。頑固者なのはジョーンズだけではない。
「仲良くしろとは言わないわよ。ただ、生殺与奪の選択はきちんと出来るようにならないとね」
「此度の不手際は単に僕が未熟だったためです。「仕事」であったなら死んでいてもおかしくありません」
「弱いのは許せない?」
「はい。弱ければ死ぬという真理が回避されている現状に違和感を感じるだけです」
  イェナは椅子を引いて座ると足を組み、ハンスへ向き直った。
「ハンス、私は思うのよ。
  私たちは進んで罪を犯すわ。きっと地獄にしか行けない。
  でも、それでも、それで成せることがあるのなら、私たちの生には意味がある。
  強さとは信じることよ。
  自らを正しいと信じる事。それがどんな罪、どんな痛みを伴うことであっても自らを信じ自らの理想を貫くこと。
  これはとてもずるくて身勝手な考えだけど、私たちが自らの理想を貫き、罪を肯定し、受け入れることで、私たちは正当化される。
  私たちはそうなるべくして生まれ、そうなるべくして生きている。
  私たちはそう言うものなの。理不尽で身勝手で、ずっと一人ぼっちの生き物。
  強いと言うことは限りなく弱いと言うことよ。
  でも弱さを持たない強さは本当の強さじゃないの。それはただ悲しいだけなのよ」
「どうして?」
「ずっとね」
  遠くを見つめるようなイェナの瞳に、僅かながら陰が差す。
「ずうっと前に、あなたとよく似た人を知っていたわ。
祖国を失う悲しみ、侵略者への怒り。
誇りを奪われ、自らを奪われ、憎み、戦いに染まっていくうちに、自分を喪って行ったあの人に。彼の中には、悲しみと怒りしかなかったわ。
憎悪や怒りといったものが、どんな風に人間を変えていくか、想像できる?
暴力に支配され、恐怖に怯えたあげく自分自身が恐怖になろうとした人間の末路は、死よ。自分だけじゃない。係わるもの全てを死に追いやってしまう。
  大義名分なんてなくて、あのころはもう殺すためだけに反逆者を装っていたわ。
  最期は骨も残らないぐらいに粉微塵になってしまったけれど」
「きっとその人は幸せだったのですね」
  イェナは驚いた。
「どうしてそう思うの?」
「一つの気持ちを自分に塗り込めて、心の赴くものになれたんですから。雑念も未練もなく、たった一つの、揺るぎないものに」
「ああなるほど。そう言う考え方もあるわね────心の赴くものに、ね。なるほどそれは新しい視点だわ。でもやっぱり、残された身としては寂しいわね。私より、そっちを取ったと言うことだから」
「一人になってしまうから、ですか?」
「そうね。何も求めなければそう言う喪失感もないのだけれど…………業が深いわね」
  過去を思い出すことは、深く刺さった棘のもたらす疼痛に似ている。それは時に甘く、切ない。幸福だっただけに、束の間の平穏であっただけに。
  胸を焦がすような、熱い想いではなかった。それは戦いを通じて得られた、魂の底からの信頼。その想いは形となってイェナのもとにある。
  今ならばこう言えるだろう、それは紛れもなく愛であったのだと。
「さてと。昔話はおしまいにしてちょうど良い機会だし、訓練を始めましょう」
  イェナが差し出した白いものを、ハンスは左の手のひらで受け取った。
「これは?」
「卵よ、ただの。毎日これの中身を想像しなさい。
  空想の中の卵を限りなく本物に近づけていくの。
  今日一日よく観察して、明日は卵無しでそれをやりなさい。
  形、手触り、殻の厚み、黄身と白身の割合、味、粘度、それら全部。
  割ったときどういう風に壊れるか、まで完璧に思い描けるようにする事」
「これが訓練なのですか」
「意外そうね?」
「はい。正直な話、そう感じています」
「まあ普通はそう思うわね。でも、これからあなたが覚えることで一番大事なのは、力の流れをイメージすること。内部から沸き上がる力の正体と、その経路をきちんとコントロールすること。
  どんな時でも、正しく力を把握することが大事なの。そうでないと、運が良くても死ぬわよ」
「そんな特殊な力が僕に…………?」
「あるじゃない、森羅万象に満ちあふれ、かつ如何なる者も持ちうる神秘が。命というのはそれ自体が奇跡の源泉なのよ。湯水のように消費されるものだけれど」
「わかりました。それが訓練だと仰るのなら」
「それともう一つ。あなた神様を信じる?」
「信じません」
  ハンスは即答した。
「たぶんそうだと思ったわ。まあ、信仰の有無にかかわらず、やって貰うんだけど」
「何を、ですか?」
「お祈り。声に出しても出さなくても良いわ。だけど、一字一句違わず、きちんと復唱すること」
「祈りの言葉なんて知りません」
「じゃあ覚えなさいな。…………復唱して、―────神よ、私をあなたのために用いてください」
「私をあなたのために用いてください」
「神よ、を足して」
「…………神よ、私をあなたのために用いてください」

  唱和する。

「憎しみのあるところに慈しみを」

  重なる。

「争いのあるところに調和を」
「分裂のあるところに一致を」
「疑いのあるところに真を」
「絶望のあるところに希望を」
「悲しみあるところに喜びを」

「闇あるところに光をもたらすことが出来ますよう」

「私たちを導いてください」

  いつしか、祈りの言葉は美しいユニゾンとなって病室に響き渡った。

「神よ、わたしに、
 慰められることよりも、慰めることを、
 理解されることよりも、理解することを、
 愛されることよりも、愛することを望ませてください。

 わたしたちは、与えることによって与えられ、
 自ら赦すことによって赦され、
 他者のために死すことで永遠を生きることができるからです」

 その瞬間、ハンスを再び幻視が襲った。
 赤い血。リボン。微笑。少女のビジョン。
『あなたは赦される』
 神など信じない。
 この世に満ちる絶対の真理は、死と破壊だ。それだけがハンスを裏切らない。ハンスはその中で生を掴み、自分が死と破壊の化身となった。多くを殺し、いずれ自分も死ぬだろう。それがこの世の摂理。殺すものは殺され、殺されたものは別の死を呼び寄せる。
 少女の幻視、死に瀕しながら無上の笑みをもたらした、眩く赤い残像。
 彼女を手に掛けたことは永遠に付きまとうだろう。
 それが罪だというなら、彼は常に罪を直視する。そしていずれ知るだろう、救済の意味を。
  閃光の果てにあるビジョンは、彼が信仰するに値するものだった。


 

「ふうふうふう。いい記事が書けそうな街ですなあ」
  歩くのも億劫そうな肥満体の中年は、よろけるようにバスから降りた。
  薄くなった髪は汗で額に張り付き、窮屈そうなスーツに押し込められた腹の贅肉はふとした拍子にはみ出てしまいそうだ。
  しわくちゃになったタオルで汗をぬぐう。バスから降りただけで体力を浪費してしまったかのようだ。
  海から漂う霧が、その丸い体躯を隠していく。
「道が判らないのは困りましたなあ」
  一人呟くと、男は当てもなく歩き始めた。


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