帰宅したイェナの家には誰も居なかった。
  玄関前に搬入されていた「ゲルダの嘆き」と「怯える妖精」を収めたケースにも手を触れた様子はない。
  二つのケースを苦もなく持ち上げると、イェナはドアを開けて部屋に入った。
  部屋の中には誰も居ない。気配もなかった。
  空気はあくまで落ち着いていて、流れが感じられない。
  ロッカーにケースを収め、水を一杯飲んでからイェナは部屋を見回して一言言った。
「そろそろでてきたらどう?」
  沈黙の横たわる部屋に、突然生の気配が満ちる。
  そこには誰も居なかったはずだ。
  見回しても人影はおろか足跡一つ無かった。
  それでも、少年はそこにいた。部屋の隅に、片膝を付いて。
  居ながらにして気配を絶ち、意を絶ち、自らを岩と化すような秘術があると聞き及んだことはあるが、実際眼にするのは初めてだった。
  年端もいかぬ少年がこのような技を身につけていると言うことは純粋な驚きだった。
  世界はまだまだ広い。
「…………気づいていたんですか?」
「いいえ。たぶんいるだろうな、と思っただけ。あなた結構義理堅いものね。挨拶も無しにここを出るとは思えなかったから」
「そのご様子では、僕のしたことを知っているんですね」
  イェナは肩をすくめた。
「だいぶ派手にやったらしい、ということはね。ヘクターの所にも担ぎ込まれるぐらいだから」
「では、罰をください。僕はあなたに罰せられるべきです」
  瞳の向こうにあるものは虚無。
  決意も後悔もない。あるのは、繰り返し繰り返し与えられてきた暴力と制裁への諦観。それは求めればならず、拒むことなど許されない。
  与えられる痛みが大きいほど、罪は赦される。
  あるいは、罪より先に罰がある。
  イェナは静かにハンスを見つめた。
  真紅の双眸には言いよう無い光を湛えている。慈愛は違う、深い何か。
「いいこと、ハンス。あなたは私の代理であそこに行っている。
  だから全ての責任は私にある。
  あなたが勢い余って人を殺したとしても、それは私が殺したのと同じ事。あなたがやったということは、全て私がやったという事よ」
  ハンスは露骨に不満を表した。
「しかし、私はあなたの名を汚しました。従僕として罰を受けるべきではないのですか」
「あなたが職務以外の目的でそうしたのなら、そうするでしょうね。でも、程度の問題はあれども、あなたは『仕事をした』のよ。私の名代として。
  子供と侮って怪我をしたのなら、それは相手が油断したということ。
  話を聞けば、非は相手にある。 あなたの仕事は折れることではないわ。胸を張って、相手を叩きのめす事よ。
  暴力でしか維持できない秩序なら、私はそれを肯定するわ。
  私はずっとそうやって生きてきた。愛や赦しで守られるものもあるけれど、今、この瞬間すべき事が力のみで為し遂げられるなら、私は迷わずそうするわ。
  だからあなたは正しいわ、ハンス。間違ってはいない」
「イェナさんは、甘すぎます」
「甘く生きるのは強者の特権よ」イェナはうそぶいた。
「しかし、遺恨が残るのではないでしょうか」
「その気がなくなるまで叩きのめせばいいわ。ただし、殺しちゃ駄目よ。余所者は図々しくあれ」
「でも……」
「不満そうね? そんなに罰が欲しかったら、ボリスの店の片づけでも手伝ってきなさい。壊した物の代金は給料から差し引いてあげるから」
「本当に、それだけで良いのですか? 僕を匿うことでイェナさんの立場が悪くなるようなら?」
「くどいわねえ。私が良いって言うんだから、いいのよ。
  文句言ってきたら私がぶちのめすだけなんだから。
  だいたい、陰で化け物扱いされている私の立場なんてこれ以上悪くなりようがないのよ」そう言ってからイェナは苦笑した。「こんな事ぐらいでどうにかなるような生き方なんてしてないの。気にせず行ってらっしゃい、ハンス。手に負えない揉め事なら私が行けばいいだけなんだから」
  ハンスは困惑した表情のまま家を出た。
 
  ハンスにとって、イェナの優しさ、その寛容さは理解しがたいものだった。
  何かの見返り無しにハンスに対してそう言う態度を取った人間はいない。少なくとも、記憶にはない。ハンスはそのことに恐怖を感じる。求められていないのに優しくされるのは怖い。
  捨てられるのならまだいい。自分の深い部分を静かに侵蝕されていくような、得体の知れない気分が殻に染みこんでくるような、その感覚が恐ろしい。
  目的は、道しるべだ。目的があるから、利用価値があるから、人と人は繋がっていける。
  無償と言うことは、何を求められているか伏せられたポーカーのカードのようなものだ。
  手札が明らかになったとき、そこにあるのはきっと死よりも恐ろしい結末。
  だが。
  ハンスは自問する。
  もはや自分に売り渡すものが、これ以上残っていようか? 過去も未来も自分にはないに等しい。この身体、汚れきったこの身体でさえ、何の価値もないだろう。洗い流せない狂気と血と、死の匂い。事あるごとに甦る幻視。少女の残像。どうしようもなく自分が壊れていくことを感じるのに、彼女は彼を日常に繋ぎ止めようとする。
  それは哀れみなのか、それとも新たな罰なのか。
  ボリスに片づけの手伝いに来たことを話すと、彼は何も言わずにハンスの頭をくしゃくしゃと撫でただけだった。
  魂が倦む。
  憎まれたり怒鳴られたりする方がまだマシだった。そうすれば自分が正しかった、自分の意志で事を成したという実感がある。
  正しい事とは、常に相手に不都合なこと。相手が厭うと言うことは、そこに自分の意志が介在している証拠だった。
  ここでは理屈も勝手も違う。当然のことだとはいえ、違和感は拭えない。
  受け入れられること自体が、異質なのだ。そう言う世界は普通ではない。少なくともハンスにとっては。
  適応出来ているのは、皮肉なことだがシュナイダーの教育によるものだ。
  自分は何処にでもいると同時に、何処にも居ない。どうすれば誰でもない人間になれるか。その技術と理論は、ハンスを生きながらえさせてきた基幹の一つだ。
  壊れた椅子を積み上げ、割れた瓶の欠片を拾い集める。
  ボリスの姿はない。おそらくは今晩の仕込みに入っているのだろう。
  本来なら盗み見てレシピを知りたいところだが、片づけを終えることの方が先だった。
  ふと、明るいはずの酒場に影が差す。
  顔を上げると、記憶にある顔がそこにあった。日に焼けた坊主頭と巨躯がハンスに影を落としている。
「酒場で派手な喧嘩があったと聞いたが、やったのはいつぞやの小僧じゃねえか」
  確かジョーンズという男だ。
  イェナ暗殺の時に自分の邪魔をした男。
「掃除の邪魔です」
  彼女はこの男に一定の評価を与えているようだったが、ハンスはそれを認めていない。
  力は強いがそれだけ、ただの獣だ。
「イェナのお気に入りだからって随分と幅利かせているみたいだな? 一体何が目的でイェナに取り入っているんだ?」
  妙に絡む。
  お互いに、お互いを不快に思っているのは確かなようだ。
「答える必要はありませんし、答える気もありません。そんなに知りたければ、御本人に直接聞いたらどうですか?」
「お前に直接聞くって手もあるんだぜ?」
  ハンスは侮蔑の笑みを浮かべてジョーンズに向き直った。
「あなたでは無理ですよ、ハゲ野郎」
「誰がハゲだ! これは剃っているだけで禿げてるわけじゃねえ!」
「そうですか」
「ずいぶん反抗的な態度だな」
「何か問題でも?」
「俺の感に障る」
「それはよかった。そのように振る舞った甲斐があります」
「────口の利き方ってもんを教えてやるぜ」
  ジョーンズの手が閃く。
  下げた拳を前に突き出す、ただそれだけの動作だが、元となる腕力が違う。100キロを超える荷物を軽々と持ち上げる男である。その威力、推して知るべし。
  とはいえ、ハンスもその動きは察知していた。
  顔を狙ってくる拳を僅かに身を屈めてかわし、バネの要領で大きく飛び上がる。
  ジョーンズがそれに気がついたのは、見下していたはずのハンスの顔が自分よりも高くなってからだ。
  瞬間の戸惑いが致命的だった。
  完全に延びきっていたジョーンズの腕は、防御に回るまでにほんの僅かな間が生じる。その事実はハンスに二度の攻撃をする機会を与えた。
  ジョーンズの喉へ爪先を叩き込み、俯いた顎を反対の足で蹴り上げる。
  急所への的確な二連撃。
  並の男なら脳震盪を起こし、喉を強打された事による窒息と合わせればしばらくは起き上がれない。
  が。
  ジョーンズは並の男ではなかった。
  たたらを踏んで二歩下がったものの、倒れるどころか怯んだ様子さえない。
  顎を蹴られたせいで足下はフラフラとしているが、目立った外傷はない。
「へえ。打たれ強いんだ」
「この糞餓鬼、首をねじ切ってやる」
  茹でた蛸のように、ジョーンズの顔が頭頂まで赤くなった。
「出来るものなら」
  ハンスは掴みかかったジョーンズの腕の間を、ひょいとすり抜けた。
  如何にジョーンズの身体能力が優れていても、ハンスのそれとは次元が違う。才能を持ち、そして極限まで鍛え上げられた差は、運や怒りでは埋められない。自慢の拳は空を切り、逆にハンスは執拗に顔への打撃を繰り返す。
  どんなに屈強な男でも、顔への連続的な攻撃は戦意を喪失させる。
  顔への打撃は感覚器の多くを狂わせ、現状認識を困難にしていくからだ。
  さらに、負けことを「一目でわからせる」事は相手のプライドをさらに細かく砕く。
  殺すのは簡単だ。だが、殺してはならない、というイェナの言いつけは守らねばならない。
  ジョーンズの顔を蹴りつけ、踏みつけるのは憂さ晴らしにも近い。爪先で、膝で、足の甲で、裏で、踵で、あらゆる角度から蹴る。荒事で一度折られたらしい鼻からは血が滲む程度だが、他の部分には容赦のない青痣が塗り重ねられていく。
  人を御するのは恐怖だと言うことをハンスは知っている。
  なぜならば、今なおハンスを縛り付けているのは畏敬でも羨望でもなく、イェナという圧倒的な存在がもたらす、底の知れない恐怖だからだ。
  都合十数回の蹴りを受けて、さしものジョーンズも地響きを立てて床に倒れた。
  殺す気はなかったが、手加減はしていない。恐ろしくタフな男だった。
  運び出すのも一苦労しそうだった。いっそこのままここへ置き去りにするか。
  見せしめとしてはその方が意味もありそうだった。
  そんな考えに一瞬気を取られた隙の出来事だった。
  気絶したと思われていたジョーンズが突如動き出し、ハンスの右足首を掴む。
「しぶとい」
  掴んだ腕を蹴る。
  だが、まるで足枷でも嵌めたかのようにしっかりと捕まれていて動かない。いくら蹴ってもびくともしない。圧搾機の如く締め上げる力に、骨がきしむ。
  足首を砕かれる。
  捕まれていては「すり替え」も出来ない。後は足首の関節を外して逃れるか。
  その時間は与えられなかった。僅かな逡巡の間もなく、その体が横薙ぎに投げ飛ばされる。
  受け身すら取れず、ハンスは積み上げた椅子の山に突っ込んだ。
「へっ。ざまあ……みろ」
  積み上げた椅子の山に崩れ落ちたハンスを一瞥した後、ジョーンズは今度こそ気を失った。


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