第6話 report#21456


  事の起こりは些細ないざこざだった。
  酔った男が小競り合いを起こし、ハンスが仲裁に入った。
  たったそれだけのことだった。
  酔いは些末な口論を生み、今や二人は一触即発の状態にあった。
  鼻息も荒く真っ向から睨み合っている男の間に、ハンスが割ってはいる。
「お願いですから、お店の中で騒がないでください」
  この小さな闖入者に、男達は苛立ちの視線を向けた
「子供がしゃしゃり出てくるんじゃねえ」
「でも、静かにしてくれないと困ります。それとも追い出されたいんですか」
  乱暴に振るわれた腕が、ハンスを突き飛ばす。
「餓鬼が偉そうな口を叩くなッ」
  床に尻餅を付いたハンスに嘲笑が降りかかった。
「粋がってもその女みたいな顔じゃ怖くも何ともないぜ、お嬢ちゃんよ」
  その瞬間ハンスの目が憎悪に揺らぎ、眼前の男は酔客では無くおぞましい影に代わる。
  燃えるような黒い怒りは血流に乗って四肢を駆け、影を振り払うべく弾ける。
足首、膝、腰を経由して得られた回転力はハンスの小さな体格を補って余りある速度を拳に与える。
  握られた掌を男の顎へと叩き込むと、だらしない笑い声は止み、代わりに顎関節の外れる鈍い音とくぐもった呻きへとすり替わった。
同時に、酒場に満ちていた喧騒、野卑、笑い声は止んだ。息をする音さえ掠れるほど小さくなる。
  不気味な静寂を破ったのは怒りだった。
「この……小僧がッ」
  酔客の仲間なのだろう。酔いか怒りかも判らぬ青紫の形相でハンスに殴りかかる。
  が、一時とは言えイェナと拮抗するほどの格闘能力を持つ少年である。
  荒事に慣れているとはいえ、素人相手に遅れをとる筈もない。
  身をかがめると同時に相手の軸足を払う。
  振り上げた拳は空を切り、体重が集中していた右足を払われてカウンターテーブルへ倒れ込む。
  だめ押しに、回り込んだハンスの肘打ちが後頭部を打った。
  勢いよくテーブルに突っ伏した顔からは赤黒い血が伝い、痙攣したまま起きあがらない。
  二人の男が両側から掴みかかる。
  伸ばした指と指の間に、ハンスの手刀がめり込む。手刀は甲の半ばまで食い込み、その機能を破壊した。
  鼻息荒くハンスに食って掛かった男たちは、その数秒後にはうずくまって呻くだけになっている。
  出血こそ無いものの、打撃を受けた部位はほぼ例外なく折られており、立つことさえ出来ない。
  ためらいも無く、容赦もない暴力。それはごく当然にこの街にあるものだ。それを振るう者も、振るわれる者も、この街に尽きることはない。
  だが、それがこの街の者で無いとしたら、それは何をもたらすのか。
  怒りだ。
  それは理不尽に伝染する。当事者ではない者にも。
  平凡な人間が暴徒と化す、ありきたりの光景。それが誰の庇護にあるか、それは理屈には入らない。余所者は敵だ。知らない者、得体の知れない者は敵なのだ。かつて、この街がそうすることで自治を勝ち取ってきたように。
  強者には、余裕があるものだ。怒りに我を忘れ、数にたのむのは弱者の思考に他ならない。
  まったく騒ぎに関係のない3人の男が立ち上がり、ハンスに迫り寄った。
手には刃物と、ブラックジャックと思しき革の袋を提げている。
  明白な殺意。ハンスはそれに、殺意で答えた。
  鮮やかな手つきで洗物のシンクからフォークを掴み取ると、無造作に、しかし正確無比の動きでそれを投射する。
  狙いを違うことは無かった。銀の尾を引いて飛来したフォークは、男たちの腕に深々と突き刺さる。
  一瞬ひるんだ男の顔にハンスの膝蹴りがめり込み、宙で身を翻して蹴りを。地に着いた瞬間、掌で別の男の膝を打つ。
  ハンスの感覚は鋭敏になっていた。
  殺気に呼応し、暴力の匂いに反応する。伸張され、鍛え上げられた感覚は、見ずにして酒場に居る男たちのすべての殺気を把握した。
  思考はない。機械的に、今までの経験と技術が肉体を動かす。
  殺気の源を絶つ。
  すべからく、そこにある者はハンスの武器になった。
  割れた食器、ガラスのコップ、折れた椅子、食べ残しのケチャップソースも。
  満ちた殺意の潮が引いていくのに、そう時間は掛からなかった。

 酔いも喧噪もなく沈黙だけがあった。
  明け方まで開いているボリスの酒場も、今宵だけは静寂の帳が落ちている。
  そして、これは極めて奇妙なことだが、酒場には警察が来ていた。
  事実上、公権力としては歯牙にも掛けられていない存在である。犯罪に係わること無しには何一つ出来ない、といわれるこの街にあって最も無用なもの。
  しかし、呼べば当然やってくるし、おざなりでも場は収めてくれる。
  重傷者が相次ぎ、酒場が屠殺場になる前に誰かが呼んだのだろう。
  怪我人は運び出され、酒場に残されているのはハンスとボリス、それに二人の警官。
  夜勤の二人は不機嫌な顔でハンスを取り囲んでいる。
「で、手を出してきたのは相手なんだな」
「覚えていません」
「相手は何人だった」
「覚えていません」
「何で喧嘩になったんだ?」
「知りません」
  黙秘を通す。それは拒絶といってもいい。夜中に呼び出された警官達の神経を逆撫でするが、それも意に介さない。何者にも屈しないこと、それだけがハンスの意志。
  権力というものに懐疑的である彼自身が、警官に協力することを拒む。
「こいつは話にならないな」
「ああ。ちょっと頭を冷やして貰うしかないな」
  もとより職務熱心な警官など居ない。
  呼び出されればろくな捜査もせずに留置所へぶち込んで、適当に冷やかした後に解放する。その程度だ。
  手錠を取り出し、ハンスの手に掛ける。
  いや、掛けようとした。
  警官は、自分が地面に倒れ込んでいることに気が付いた。
  足に力が入らないのは、膝が砕かれているからだ、と判ったのは一瞬後だった。
  警官を薙ぎ倒したハンスの顔にあるものは恐怖。弾かれたように飛び出したハンスはそのまま店を出て、霧の中へと駆けていく。
  一部始終を見ていたボリスは思案し、受話器を取った。
  いまさら怪我人が二人増えても大した違いはない。
  ここではよくある話だ。喧嘩に、警官が巻き込まれるのは。

 一方、港に着いたイェナは一部始終をゲイルに話していた。
  船長には謝礼を渡して一足先に帰してある。
  事務所にはゲイルとイェナの二人だけだ。テーブルにはテイクアウトのピザとインスタントのコーヒーが置かれている。
  着替えの代わりに防弾コルセットと革のショートパンツを着込んだイェナは、コーヒーだけを手にとって、一口飲んだ。
  シャワーを浴びたはずなのに、まだ何処かに潮の香りがする。コーヒーの香りに混じったそれは、まだ海の上にいるかのような錯覚を起こさせる。
  戦いの後、妙に感傷的な気分になるのは不思議だった。
  パピヨンとその一部始終聞いたゲイルの顔には、困惑の色が浮かんでいる。
「まさか、そんな化け物を本当に擁していたとは…………しかし本当に死んだのでしょうか」
「死んだでしょうね。………たぶん、また生き返ってくるとは思うけれど」
「生き返る? 再生する、という意味ではなく生き返るのですか?」
「そうよ。あいつは、あの女は正真正銘の不死身、よ。バラバラにしても、焼いて灰にしても駄目だったわ。一度は溶鉱炉に落としたことあるけれど、やっぱり生き返ってきた。殺し方によっては、生き返るまで大分時間がかかるみたいだけど」
「そんなことが………」
「あり得ないと思う? 死なない化け物は、あなたの目の前にもいるのに?」
  化け物。
  そう呼ぶ者もいる。不老と、圧倒的な暴力。人外の技。それらは、人間が通常目にする現実とは余りにもかけ離れたものだ。
  負の奇跡、そう表現してもいい。
  しかし、神話で語られるように、人の味方をする怪物は本当に怪物と呼ぶべきなのか。
  その答えを、ゲイルは持たない。
  質問には応じず、ゲイルは念を押してたずねた。
「完全に殺す方法はない、ということですか」
「太陽にでも放り込んだらさすがに生き返らないんじゃないかしら」
「いたちごっこですね」
「そうね。動けなくして海に沈めたから当分浮かんでは来ないでしょうけど、これで終わりということはないわね。まったく、面倒な奴を連れてきたものだわ」
「まさかとは思いますが、マクガイアは姐さんに対抗する駒を集めている、ということなのでしょうか」
「まさか、ではないわね。あの男は私に因縁のある奴を集めている。あるいはケヴィン・マクガイアに味方する誰か、が」
「そんな入れ知恵が出来る、ということは」
「たぶん同じでしょうね。私と同じ、異能の者。断言してもいいけど、私のような化け物の数は決して多くない。それを集めるということは、その手の知識と広い手をもっているという事よ」
「こちらも手駒を揃えるというのはどうでしょうか」
「難しいんじゃないかしら。少なくとも、私の味方はいないわ。みんな死んでしまったもの」
  永遠の孤独。本当にイェナが不老ならば、時の流れに取り残された存在であるなら、そこにあるのは絶対の孤独。誰も滅びずにはいられない世界に、たった一つ残されたマイルストーン。
  その孤独を推し量れること余人には出来ないのかも知れない。
  だが、ゲイルの仕事は街を守ることだ。このウォーターフロントを守ることが、ひいては街を守ることになる。
  無限と有限、どちらに価値があるのかといわれれば、有限だ。
「当面はやはり、武装を強化する以外には無いですか」
「そうね。一番現実的な案だわ」イェナが微笑む。その瞳に宿った剣呑な光をゲイルは見逃さなかった。「けれども、いずれはオフェンスが必要になるでしょうね」
  戦いによる結末は、常に最悪の選択肢だ。資金、人材、時間、全てが浪費される。
  だが、それを回避することは出来ない。いずれ選択しなければならないだろう。
  憂鬱になっていると、胸ポケットの携帯電話が振動した。
「ゲイルだ―――――わかった。姐さんにはそう伝えておく」
  手早く携帯電話を折り畳むと、ゲイルはイェナに視線を移した。
「姐さん、ハンスが揉め事を起こして店から逃げたそうです」
「あら、意外と辛抱したわね」
「人を出しますか」
  イェナは肩をすくめた。
「いらないわ。家出少年は、自分の家に必ず戻ってくるのが相場だから」


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