イェナが動いた。
陽光の下で何かが煌めく。
イェナが持参したもう一つの荷物、巨大な円筒形のケースから取り出した、それは。
巨大な、あまりにも巨大な鋸。
それは大きく弧を描いた形をしており、内側に並ぶ刃はシダを思わせるほど長く、およそ10センチ以上もあった。
そして鋸自体は、材質さえ窺い知れない半透明の素材で出来ているため、光を透過して向こう側の景色さえ見通すことが出来た。
鋼板をしならせるような、たわんだ音が鳴り響いた後、唐突にそれは起こった。
波間に漂う微かな音に、引き金を引く指が固まったのだ。
いぶかしく思う間もあらばこそ、視線はイェナに釘付けになった。
イェナが体を回転させ、遠心力で投げたその鋸に。
「キャイイイイイイイイイイイイイ!」
それはまるで悲鳴だった。
その場にいた誰もが、およそこの世のものとは思えぬ叫びを耳にし、身を竦ませた。
僅かな、ほんの僅かな戦き。それでも、刃が全てを薙ぎ倒すには永遠にも等しい時間。
『それ』の通過したあとは血しぶきとともに肉の塊が横たわる。
切断、などという生やさしいものではない。残酷なまでに長い刃は肉を掻き出すようにして対象を抉り、裂き、断面をズタズタにしながら高速で通り過ぎていく。
それがイェナの手元に戻ってきたとき、一方の船に息をするものはなかった。
耳にする者は戦慄に身を震わせ、咎ある者は刃にひれ伏す。
罪人屠殺用鋸『怯える妖精』
七つの下僕でもっとも無慈悲とされる咎人殺し。
不自然なほどに長い刃が振動し掻き鳴らす超高音の波長は、人間の意識に直接作用し恐怖を掻き立てるという。
男達にもはや抗う術はなかった。
頭を上げれば鋸が、じっとしていればあの鉄くずが船を沈める。
もはや切り札に頼るしかない。ジョーカーと呼ぶにはあまりな危険な手札だが、それを連れてきたのはこの時のためだ。
「パピヨン! 何をしているパピヨン! 出番だ!」
「うるさいわねえ」
全身を血糊で赤々と染めたその魔女は、気怠げに現れた。
手には剥き出しになった人間の下半身を引きずっている。
損壊が激しく男女さえ定かではないが、「調べもの」の最中であったことは明白だ。パピヨンはそれを邪魔されることを酷く嫌う。
とはいえ、そんなことに配慮している場合ではなかった。もはやこの魔性の生き物、怪物に頼るしか手はないのだ。
「お前の出番だ、パピヨン。あの船を片づけろ」
「私に命令する気? 私に命令していい人間なんて居ないのよ? 私は私、私は蝶。私は謳う、わた────」
ざん、とばかりにその上半身が崩れて落ちた。
『怯える妖精』、二度目の投射。男は伏せていたために無事だったが、立っていたパピヨンはその身に『怯える妖精』の刃を受け、戦うことさえ出来ずに倒れた。
倒れたのだ。確かに。
だが、分断された上半身は這い回り、未消化物と血潮を吹き上げる下半身は別の生き物のように蠢いていた。
男はその光景を目にして、吐いた。
死なないのだ、この女は。どんなことをされても死なないと言うのは本当だったのだ。
やがて別々に動き回る上半身と下半身は互いに引かれ合うようにして接合し、再び立ち上がった。
「キ、キキキキキキ」
金属が擦れるような笑いを立てて。
「ああ、久しぶりだわ、二つになったのは。凄く痛いの。痛いのは幸せなのよ、幸せなのだから。この痛み、覚えがあるわ、私の妖精、私の天使、私の秘密」
ざんばら髪から覗く瞳は狂気を帯び、歌うように呟きながらパピヨンは縁に足を載せる。
そして海を隔ててイェナもそれを見ていた。
予感は確信に変わった。
そこにいるのは古き因縁の敵。いや、敵ではない。過去から響き続ける足音だ。
パピヨンは海に身を躍らせると、そのまま海上を歩き始めた。
歩くとは言っても浮いているわけではなく、くるぶしのあたりは海中に沈んでいる。
泥沼を歩くように、ひたりひたりと海を歩くその姿は、波が穏やかなだけにことさら不気味に写る。
だがイェナはその技を目にしたことがある。驚くほどではなかった。
パピヨンが媒介にしているのは血。『怯える妖精』によって惨殺された船員達の血と海水とを触媒に足場を作っているのだ。
『怯える妖精』を手元に引き寄せると、身体を半回転させて勢いを付ける。
投射。
またしても空気を裂く絶叫と共に鋸はパピヨンの身を分断する。
繋ぎ合わさる前に、もう一度。
都合四分割されたパピヨンは、それでも生きていた。断片は波間を漂い、それでものたりのたりと船へ近づいてくる。パピヨンの再生が終わるまでの時間は、ざっと10秒。しかしこれでもかなり遅いほうである。
鋸による切断面が鋭利ではないが故に。
通常の打撃や斬撃でパピヨンを殺しきることは至難の業だ。
それは知っていた。ただ、確かめただけだ。この程度では足止めにさえならない。
過去、数度刃を交えた末、ついに完全に殺す方法さえ見つからなかった相手だ。
「ああああ、やはり、そうなのね。私の探しているものはきっときっときっとあなたのなかにあるんだわ」
波間に漂うパピヨンの生首は恍惚とした表情で言葉を紡ぐ。
「相変わらず探し物を続けているようね。一度や二度殺した程度では収まらないかしら」
単純に強さから言えば、それはイェナの方が圧倒的に上と言わざるを得ない。
戦闘経験、身体能力、魔性の技量。それら全てはパピヨンを軽く凌駕する。
それでもなお、パピヨンは死なないと言う絶対のアドバンテージを持つ。
故に、この場で殺すという表現は正しくはない。
足止め。
それが人の一生にあたるほどの期間という差違こそあれど。
「見つけるのよ、私は。見つけて見つけて、見つけなければならない。私の明日はそのためのもの」
船が傾いだ。
足元を見れば、切断されたパピヨンの腕が船に取り付いている。
地上では相手に分があるのは判っている。だからこそ、彼らは船を襲ったのだ。イェナが海へ来るように。
主無き腕はナメクジか蛇のように暴れ回る。そして凄まじい怪力だ。蹴り戻しても五指がクモのように船へ食い込み、小さく穴を穿ちながらよじ登ってくる。
もう一度蹴り上げて海へ叩き込んだ。
パピヨンの身体は腕以外、全て元に戻っている。
海水と血の混じった不気味な液体が絡みつく蛇のようにパピヨンの断片へと伸びる。
引き寄せて、接合。
ぼろをまとった不気味な来訪者は、再び船への前進を開始する。
引き返して逃げるか。なるほど、そういう選択肢もある。
しかしイェナはここへ戦うために来た。逃げるためではない。
パピヨンと対峙したことによって解放された相手の船員達が銃撃を再開する。
流れ弾は当然パピヨンにも当たる。しかし正真正銘の怪物である彼女がそれを意に介した様子はない。弾丸は貫通し、幾重にも身に風穴を開けつつ、それでも一歩一歩イェナの船へと近づいている。
軋る笑いをあげながら。
「船ごと沈めて、それから死体を引き上げて、たっぷり時間を掛けて探してあげる」
「嬉しくない申し出だわ」
パピヨンが近づくまでに倒しきりたいところだが、銃撃が邪魔だ。
まずは船を沈めるか。しかし、ゲルダの嘆きを投擲するにも、怯える妖精を使うにも、少し離れすぎている。
どちらも複数の相手を同時に倒すことの出来る武器だが、海上戦闘に適した装備かと言えば、実のところは扱いにくい部類に入ってしまうだろう。
射程まで届く武器。相手まで届き、かつ相手を破壊できる武器。
線を考える。軌道にあるもの。海。風。血。それと敵。
その向こうにもう一つの敵。
線を辿る。どうやれば届く?
射程を伸ばすに必要なもの。
それは単純にして明快。敵の敵は味方。にじり寄るパピヨンに怯える妖精を投げつける。
己の不死性に絶対の自信を持つパピヨンは避けることもしない。再び上半身と下半身は分断され、宙を舞う。
絶叫をあげながら弧を描き、手元に戻ってくる怯える妖精を受け止めつつ、その勢いでもって自ら回転。遠心力でもってゲルダの嘆きを投擲。
重量300キロの砲弾は空気を裂くような音と共に、空中の物体に炸裂する。
すなわち、パピヨンの上半身。
粉砕されたパピヨンの肉体は、砲弾と化して相手の船へと飛散する。
銃撃は止んだ。
バラバラになったパピヨンの断片を受けて、射手の何人かが昏倒する。
が、それでは終わらない。
ゲルダの嘆きを引き戻し、再び海へ。
砲弾は波間を叩き、浮かんでいた下半身を海水もろとも打ち上げる。
落下する前に、もう一度投射。
四散。
銃撃は止み、パピヨンは船へと戻された。ならばこそ、今が好機。
両手の枷からゲルダの嘆きを繋ぎ止めていた鎖を外し、自らも波間に身を躍らせた。
波を蹴る。文字通り。
南米に住むバシリスクという水トカゲは短距離ならば水上を走り抜けるという。
それが、鍛え上げられた者に出来ないはずがあろうか? ましてや魔物が住むというクロスリバーの、魔女と呼ばれた人外の者に?
潮汐がもたらす僅かな上昇力、イェナ自身の体重と拮抗する、瞬きにも満たない僅かな静止時間を断続的に繋げることによって可能となるこの歩法は、無論イェナといえども永遠に続けられるわけではない。
だが、その圧倒的速力は常識を超えた錯覚を生み出す。
すなわち、魔女は水に沈まない。
パピヨンと同じ、この女も魔女であると。
身一つで船上に立ったイェナは再生の終わったパピヨンと対峙する。
「無駄よ、無駄無駄。私は死なない永遠の歯車この世の果てで歌う」
「二度と喋れないように舌を溶接してやろうかしら」
「キェッ」
奇声を上げるパピヨンの爪が床を抉る。
怪力では、パピヨンのそれもイェナに劣らない。床板を貫通した指は力に耐えかねて圧壊しているが、それでも数秒で腱が再生し、指の位置は矯正され、復元されていく。
デタラメだ。生物としては、このような原理での再生はあり得ない。
だが、それは事実であり現実的な驚異として存在している。
紙一重でかわし、剥き出しになった腹へ膝の一撃を加えるが、明らかに内臓が破裂しているにもかかわらずパピヨンはひるまない。
当然だ。パピヨンは不死身だ。人の形をした影なのだ。
影を殺せるものはない。
受けの二手を考えず、闇雲に繰り出される連撃は切り返しにくく、打撃も斬撃も効果がない。不死身という絶対のタフネスに支えられた極めて粗野で幼稚な暴力表現。
船上の射手が機関銃を放つ。弾道も定まらぬそれをイェナはパピヨンの陰に入り避けた。
銃弾がパピヨンを引き裂き、肉片となって飛び散る。その間隙に射手へ躍りかかり殴殺。
すかさず再生の始まったパピヨンの腕を拾い上げ、武器にする。
イェナの怪力だからこそ出来る技。
振り回されたパピヨンは、笑いながら、うち砕かれる。腕は銃も人も巻き込みながら再生し、混ざり合い、砕かれる。
狭いこの場所では軽機関銃でも有利にはならない。
パニックで男達は乱射するが、フルオートで撃てば弾切れは早い。
弾を撃ち尽くした相手を3人ほどをパピヨンの腕で撲殺し、頭蓋を握りつぶし、胸を突いて心臓を止めたところで反撃は止んだ。
ちぎれて飛んだパピヨンの腕の、僅かに残った部分を投げ捨てる。
数十秒足らずの時間だったが、パピヨンはもう元に戻っていた。
やはり打撃でもこの女は殺せない。
「見る、見る。見るわ。私の」
意味のない呟き。
正真正銘の不死身が相手では、さしものクロスリバーの魔女と言えども屈するのか。
かつてなら、そうであったかも知れない。
数度の対決を経て、イェナはパピヨンの『仕組みを熟知している』。
伸ばされる腕。指はひしゃげ、骨が鮫の歯のように突きだしているそれをイェナはつかみ取った。
「ずっと考えていたわ。どうやったらあなたの顔を見ないで済むかをね」
イェナの二の腕が盛り上がり、その恐るべき膂力がパピヨンの腕に加わる。
怖気の走るようなはっきりとした音を立ててパピヨンの腕が再びもげた。それだけでは終わらない。僅かな筋繊維で繋がったままのそれをイェナはさらに曲げ折り、パピヨンの腹に押し込む。
再生は始まっている。だが折り曲がったままだ。
指も腕も肘も、全てが歪に間違ったまま繋がる。
「葛技の三『群雲』の変形版と言ったところかしら? 」
パピヨンの顔が驚きに染まる。再生はされている。しかしされない。元に戻らない。動けない。
イェナが膝関節を蹴り折り、パピヨンを倒す。
踏みつけ、踏みにじり、足が足としての形を留めぬままに。
「これはなに? 動かない?」
全く未知の技。技とは呼べぬものかも知れないが、その再生力を動きを封じるために使われたのは初めてだ。傷口は癒着し、それを引き剥がそうとしても砕かれて別々に繋がってしまった骨格では十分な力を発揮しきれない。
「切断も打撃も駄目だけれど、その再生力を逆手に取ればこういう事が出来る、と踏んだのは間違いではなかったようね」
骨子術、関節技、合気の複合的な武術体系のうち、葛技と称されるのは人体の構造と力学的な原理に基づく組み技を指す。群雲は、月に雲のかかるが如く相手の力を受け流しつつ手首、肘、肩部の関節を連鎖的に外し、受けから攻撃へと連携させる技である。
イェナの用いたのはそのような芸術的な過程を経たものではなく、膂力でもって腕をねじ切り、通常ならば外した腕を始点として攻撃に派生するところを相手に押し込んで終わりとする乱暴極まるものだ。
関節を外されたぐらいでは何の影響も受けないパピヨンではあるが、筋肉も骨格も癒着してしまっては肝心の力を生む源がない。
が、念には念を入れたほうがいい。
イェナが再び常識外れの腕力を振るった先は船のマストである。
そのへし折った尖端でもってパピヨンを串刺しにし、縫い止める。
戦場にあっては過剰とも言える猟奇的な殺害方法。それでも、なおパピヨンは生きている。
聞くに堪えない呪いの叫びをあげて蠢くパピヨンを横目に、イェナは床に落ちているRPGの発射筒を手に取った。
持ち主は首をあらぬ方向へ折り曲げて既に召されている。
「ちょっと借りるわね」
狙いもおざなりにRPGの至近射。
搭載されている成形炸薬弾頭は船の半ばを貫通し、派手な炎をあげた。本来ならもっと遠距離で使用するものなので、威力が中途半端だったのだろう。イェナはこの手の火器の使用にはもっぱら疎い。使い方は知っているがまともに当たった試しはなかった。
今回はそれなりの場所に当たったらしい。
「船ごと沈めるなんて海にはちょっと悪いけど、この場合は仕方ないわよね」
爆音と共に船が傾ぐ。発射筒を投げ捨てたイェナは早々に海へ飛び込んだ。
泡立つ波の音に混じり、パピヨンの呪いの叫びが聞こえてくる。
幾度と無く聞いた叫び。
不死の定めを負う者の、慟哭。
彼女の探し求めたものが何だったのか、イェナはそれを知らない。だがその手に掛かった数多の犠牲はどのような理由があろうと肯定はされない。
死を賭けることが出来る者は生者だけだ。死ねない者が死を賭けることは出来ない。死せる者が死を賭けることも出来ない。
波に揉まれ、沈んでいく。その不死者の棺桶をイェナは離れて見つめる。
パピヨンは死に続けるだろう。水底で。
それが本当の意味の死ではないことは承知している。だが、いつかは死ぬかも知れない。
この世に望まれない者がいるとすれば、パピヨンは間違いなくその一人だろう。
仮に、かつてはそうでなかったとしても。
「さよなら、パピヨン。永遠にあなたの顔を見ないで済むことを祈るわ」
それにしても、最近は着衣水泳することが多いわね。
沈み往く船を見つめながらそんなことを思う。
防弾スエットスーツなんてものがあれば楽なんだけれど。
紅に染まる海から離れ、イェナはしみじみとそう思った。
EPISODE5. END
→GO,EPISODE6[report#21456]