外に出てみれば、空はもう明るくなっている。
だいぶ長く話し込んでいたらしい。
澄んだ空気を吸い込み、イェナは大きくのびをした。
どこまでも血の臭いはまとわりつく。今、この瞬間の静謐さもほんの一時の安楽に過ぎない。
そういう世界なのだ、イェナのいる場所は。
僅かな休息と戦い。延々とそれが繰り返されるのだ。イェナが力尽きるか、世界が滅びるまで。
イェナの、その不老の肉体はそれ自体が呪いなのだ、と言った男が居る。
今はもう居ないその男が言うには、イェナが不死であると仮定するならばその周りに死が満ちるのは仕方がないのだと。
イェナが死という自然条件、絶対条件を否定する限り、そこから生じる歪みはこの世の因果律を歪めかねない。世界という機構がそれを是正するためには、イェナという夾雑物を抹消する以外に方法がない。故に、抗体として産み落とされた異能者達がイェナに惹きつけられる。
同時に、イェナ自身が異能者に対する抗体になる。そういう歪みの狭間にいる存在。
だがそれは。
男はこう付け加えていた。
だがそれは、イェナ自身が望まれていない、と言うことの証明にはならないのだと。
戦いに倦んだ時期もあった。
それから逃れようとしたときもある。
けれども影はどこまでも追いかけてくるのだ。それならば、正面から見据える以外に、道がないのだと悟り、街に腰を落ち着けた。
今回の一件がそうした例の一つになるのかどうかは判らない。
ともあれ、異能の相手をするのはイェナに与えられた役割だ。相手が誰であろうと戦うのみ。
その果てにあるものが何なのかはいずれ見えてくるだろう。
明け方の街にはうっすらと霧が立ちこめている。
潮の運ぶ風がそうさせるのだ、と聞いたことがあるが詳しいことは判らない。
結局霧のせいか誰にも出会うことなく自宅へ辿り着く。
明かりは消えていた。
朝露で湿る階段を静かに上る。
イェナの住む場所は街でもひときわ人気のないところだ。そのためか、階段を踏む音は大したものではないはずなのに、やけに大きく聞こえる。
人の気配はない。
ハンスは寝ているだろうか。
ドアを開ける。
やはり人の気配はない。
いない?
いや、いる。
部屋の影からこちらを見つめる双眸が、ハンスの存在を示している。
この少年は、どういう原理なのか自分の気配を完全に消すことが出来るようだった。
殺気が僅かに漏れ出るのは、修行が足らないのか、そこまでは消せないのか。
「追っ手が来たのかと思いました」
ハンスが警戒を解くと、部屋に張りつめていた冷気が失せるのを感じる。
「来ないわよ。多分死んだと思われているでしょうからね。もし来たとしても、誰にも知られずにここまで来るのは難しいわよ。あなた以外は、ね」
「そうでしょうか」
答えるハンスの表情は暗い。彼の師たるシュナイダーも同様の技術を持っているからだ。
隠行術は幾分師に勝るとはいえ、それでもシュナイダーは恐るべき相手だ。彼が自分を取り戻しに来ない保証はない。
けれども。
「そうよ。安心して寝なさいな。私も寝るから」
そう言われるだけで、安堵を得るのは何故なのか。
絶対的な超越者たる自信か、それとも無知故の蛮勇か。どちらでもないだろう。彼女は、それでもどうにかするつもりなのだ。
だからこそ、そう言える。
「睡眠は十分に取りました」
「あんまり寝ていないようだけど?」
「もともと、そんなに眠らなくても済みます」
「それはよくないわね。子供のうちはちゃんと睡眠取らないと背が伸びないわよ」
「背が低いほうが良いこともあります」
「高いほうが良いこともあるわよ」
「どんなことです?」
「キスをするとき背伸びしなくて済むわ」
「相手がしゃがめばいいのでは?」
「自分でしたくなったときはどうするのよ」
「ならないから平気です」
「なるわよ、きっと」
「なりません」
「あらあら。じゃあ私にはお休みのキスをくれないのね」
「あげません」
この子も相当頑固ね、と思いながらイェナは話を打ち切った。
「まあ、いいわ。ともかく私は寝るからあとは適当にしてて。食材を買いに行きたいならクローゼットの脇のチェストに財布が入っているから、勝手に持っていって良いわよ」
「僕が持ち逃げするとは考えたりはしないのですか?」
「たいして中身入っていないもの。それに、そんな端金を持って出たところで何の足しにもならないわ。あなたが欲しい物はお金なんかじゃないでしょう?」
そういって微笑むイェナは、ハンスにとっては蠱惑的さえ見えた。
思わず胸が高鳴り、ハンスは視線をそらす。
イェナがベッドにはいるのとほぼ同時に、ハンスは部屋を出た。
優しさは辛い、と思う。
優しさという感情は覚悟を鈍らせる。
シュナイダーがハンスを丁寧に扱い、決して過剰に傷つけないようにしてきたのが優しさなのだとすれば、ハンス自身の憎悪は拠り所を失う。
ハンスにとってそれは屈辱であり、最大級の侮辱だった。
憎悪を。
もっと怒りを。
イェナとの生活は心和むものではある。しかし、うちに秘めた炎を消すことがあってはならない。
それを失うとき、ハンスは己の定義を無くす。
戦う力を無くす。
戦う力のない人間は死んでいるのと同じだ。
少年を取り巻く全ての人間が、薬や快楽に溺れ、戦いを忘れ、あるいは戦いに喜びを見出したとき、それらはハンスの足下に骸となって倒れてきた。
戦いとは生きること。
それがハンスの哲学。
心だけは強く在らなければならない。
心が強ければ、肉体の強さもいずれは追いつく。
今は、自らを鍛え上げ、落ちた体力を取り戻すのが先だ。
ハンスは明け方の霧の中を走り始めた。
運動を終え、買い物を済ませて帰ってきてもイェナはまだ寝ていた。
ハンスは途中で仕入れた食材を調理する。
とはいっても、何をどうすればいいのかは判らない。肉は焼き、卵は煮、パンは切る。それだけだ。
やがて準備が整った頃、イェナが目を覚ました。
下着にビスチェだけという扇情的な格好にもかかわらず、色気のようなものはない。
恥じらいのようなものが感じられないからなのかも知れないが、ハンスは赤くなって目をそらした。イェナの肌は病的なまでに白く、それでいて必要な筋肉が無駄なく配分されているせいで大理石の彫刻のような力強さがあった。
思えば、イェナの素肌をこれほど多く見たことはなかったのである。
多くの傷痕が刻まれ、醜い縫合跡があちこちにあっても、それはイェナの持つ美を損ねたりはしない。
それは装飾ではなく、まるで猫科の猛獣が持つ強さとしなやかさから生まれるものだ。
目をそらしたハンスに気づいたかそうでないのか、イェナはいつもの黒い革ズボンを履いて白いシャツを着込んだ。
「食べ物の臭いに釣られて目が覚めちゃったけど…………」イェナはハンスの向こうを覗き込むように見た。「ハンス君お手製のランチ第一号があれね」
テーブルに載っているものはランチョンミートをスライスして焼いたもの。ゆで卵。牛乳。パンも置かれているがトーストはしていない。
「どちらかというと朝食のメニューかしら」
「栄養的に問題はありません」
ハンスはぶっきらぼうに答えた。
「そうね。料理かどうかは疑問が残るけど、そつがないわ。ランチョンミートはあまり好きでないんだけれど」
「ハムを買おうとしたのですが、それしかありませんでした」
「ああ、ひょっとしてエジソンの所に行ったのね? あそこは缶詰の肉しかないわ。肉を買いたいなら、ドクターの病院の近くにあるアレサの肉屋に行くこと」
「判りました」
「それとゆで卵じゃなくてスクランブルエッグが良いわ。ミルク少々、塩は控えめでね。パンは軽くトーストすること」
「何でも良いという割には注文が多いのですが」
「どうせなら美味しい物が食べたいわ」
「……判りました」
「それにしても、人に食事を作ってもらうなんて何年ぶりかしら。お姉さん、とっても嬉しいわあ」
「参考までにお聞きしたいのですが、今までどんな生活をしてきたのですか?」
「聞きたい?」
「お嫌でなければ」
「旅と、飢えと、戦いと、それからお酒よ。それ以外はほとんど無いわね。一カ所に止まれないの。だから、食べる物は何でも良かったし、旦那が居たときも殆ど宿を転々とすることが多かったわ」
「辛くはなかった?」
「何事も慣れ、ね。それに本当に餓えていたのはもう100年は前の話よ。街に腰を落ち着けてからはそんなこと無いし、それより前だって鉄道が出来て移動がだいぶ楽になったもの」
「本当に、本当に200年生きているのですね」
「そうね。昔は大変だったわよ。馬に乗って旅しても、途中で食料無くなったりハリケーンに巻き込まれそうになったり。大陸横断鉄道の中継駅まで牛を追い立てて生計立ててたこともあったわ。オートミールとレンズ豆ばっかりの下手くそな食事しか作れないコックのワゴン連れてね」
イェナの眼がほんの僅かだけ、遠くを見る。
この人にも懐かしむ過去というものがあるのか、とハンスは思い、それから思い返すべき過去のない自分を思って胸が痛んだ。
「さて、無駄話はこれぐらいにして、せっかくの食事を戴きましょうか」
椅子を引いて、ハンスも座るように促す。
食事は無言だった。
全てを食べ終わると、イェナが先に口を開いた。
「一つ考えていたんだけど、あなたに仕事をさせようと思うの」
「仕事……ですか」
「そう。ボリスの所にいってお店手伝ってきなさい。用心棒兼ウエイター。ここは気性の荒いのが多いから夜はあそこで用心棒しながら食事をしていたんだけど、あなたにそれを譲ってあげるわ。それに良いこともあるし」
「はあ。それは構いませんが、良いことというのは?」
「ボリスのサンドイッチのレシピを盗んでくるの。そしたらわざわざボリスに頼まなくても家で食べられるし」
ハンスは大きく嘆息した。
「せこすぎます」
「いいのよ。店にいる間は飲み食いタダにしてくれるんだから、あなたにとっても損はないわよ」
「僕は未成年ですからお酒は飲めません」
「でもホットドック食べ放題よ? ジョーンズなんてスキップしながら引き受けたけど」
「ジョーンズというのはあの、ヒゲモジャでスキンヘッドの大男ですか」
そういえば、二人はきちんと会ったことがない。ハンスがイェナを襲ったあの時に一瞬見えただけだ。
ハンスが詳しく知らないのも無理はなかった。
「そうよ。あのときはあなたの出鼻を挫いたわね」
「あれは明らかに僕の油断です。本来ならあなたにも僕にも遠く及ばない」
「そうね。ジョーンズは戦う男ではないもの。でも、そういう相手が本当に戦う、と決めたときは恐ろしいものよ? 記憶に留めておきなさいな。相手が誰であろうと侮ることはいつでも危険を呼ぶ」
「はい」
「戦いは技量だけではないわ。覚悟と、それを活かす冷静さ。その二つはもうあなたは持っているみたいだけど、捨て鉢になるところがあるのは否めないわね」
「しかし死を想わなければ戦えません」
「そうね。死を意識し、受け入れ、かつ生き延びる。戦いはその狭間にある哲学だわ。それはそれで崇高な美学だけれど、人間は戦いだけでは生きていけない。心という泉は枯れやすいものなの。それを自覚して欲しいわ。心の無い、機械になっては駄目。勝利は点数じゃない。白と黒という二元論でもない。人は死しても、勝つことがある。生きてなお敗北することもね」
「おっしゃる意味がわかりません」
「と、思うわ。私もまだそこの境地に達してないもの。答えを見つけている最中なの。ひょっとしたら、人間というものはすべからく答えを求めて生きているのかも知れないわね」
「それは、判ります」
「お互い、見つかると良いわね。────自分の意味、を」
「はい」
「さ、小難しい話は止めにして、ボリスの所に行きましょうか。話は通しておかないとね」
ボリスはイェナの話を黙って聴き、それからハンスをしげしげと見つめた。
細身で髪をオールバックに撫でつけ、口髭を生やした伊達男。もとはイタリアの移民だという話だが、素性は知れない。彼が言葉を発するのはごく僅かで、あるいは一日喋らないこともある。
「というわけなの。本業の方に力を注がなくちゃいけないみたいだし、リハビリもしなきゃだからここの仕事はハンスに任せることにしたわ。腕は立つから安心して。でもお酒を飲ませちゃ駄目よ? まだ未成年なんだから」
「ビールなら平気です」
「私が逮捕されちゃうわ。こんな街だけど、一応警官はいるのよ? あんまり仕事してないけどね」
ボリスも頷く。
こんな街で、そんな些末な決まりを重視するのはどこか滑稽な話だ。
それでも、ハンスはそれに従うことにした。どちらにせよ、ビールでは酔えないし、万が一酔えば判断力が鈍る。
あるいは、これもイェナのテストなのかも知れない。
交換条件はお互いに了承したのだ。イェナがそれを違えるとは思わなかった。
ボリスがキッチンを指さす。そこにあるのは玉葱と包丁。
つまり、あれを切れと言うことらしい。
ハンスは頷き、厨房に入った。
「じゃ、決まりね。よろしく頼むわ、小さな用心棒さん」
後ろからイェナの声が優しく響いていた。