夢だった。
  それは夢だった。
  まだ年端もいかぬ少年少女。
  一糸纏わぬその姿は、虚ろでも恐怖でもなく、期待に満ちていた。
  破壊される事への期待。破壊する事への期待。
  特殊な配合の成された薬物の投与と事前の精神誘導によって、彼らの精神と肉体は極度の興奮状態にある。
  命令が下された。
  互いの手に持った刃物や銃器により、無邪気な笑いをあげながら互いの肉を削ぎ落とし合う。指を、腕を、脚を、恍惚とした表情で切り刻み、もぎ取り、噛みちぎり、臓物を掻き漁り、それを引き抜いて、戯れる。
  音だけならば、そこは楽園。
  見るものだけならばそこは地獄。
  では、両方合わさったこの凄惨な光景は、酸鼻極まるこの有様は、一体どう定義すればよいのか。痛みも破壊も死も全て快感だった。大いなる喜びだった。
  ハンスはその中にいた。
  与えられたナイフでハンスは立ち回った。
  弾丸を避け、確実に致命傷を与え、それでも倒れないと判ると手足の腱を切断し完全に動きを止めてから命を奪った。
  そう仕込まれていたわけではなかった。
  ただ、危ないと思えばこそ逃げ回り、急所と思われるところへナイフを突き立て、追いつかれると思ったからこそ手足を狙った。
  ただそれだけだった。
  絶対的に足りない体力と身体にかかる負荷は、薬が全て帳消しにしていた。
  自分の肉体が壊れていくことを自覚しながら、それでも生きることに固執した。
  恐怖は全て薬が快感に変換していた。
  痛みは全て薬が快感に変換していた。
  絶望は全て薬が快感に変換していた。
  スナッフポルノを楽しむためにやってきた顧客の前で、それは殺戮ショーに早変わりした。
  瞬く間に子どもたちが壊れていく。壊されていく。
  その鮮やかで芸術的な手口、斬新な演出に顧客たちは狂喜した。
  幼く麗しい体躯からは想像も付かぬ残虐性。しかも本人はそれを酷く嫌悪している。素晴らしい矛盾の産物だった。泣きながら、怯えながら、それでも薬の与える愉悦に逆らうことが出来ない。
  それは一度で使い潰すにはあまりに惜しい玩具だった。
  子どもでは駄目だ。もっと、手強い相手を。もっと恐ろしい相手を。もっとおぞましい相手を。あるいは、もっともっと無垢な相手を。
  要求はエスカレートし、一度きりの出演、一夜限りの命であったはずの少年は、いまやショーの花形として薬と刃物を与えられ、闇から闇へと渡り歩くこととなった。
  最初は野犬の群れへ。次は軍用犬。浮浪者。殺人犯。壊れたジャンキー。借金の形につれてこられた一般人。ときには何の処置もされていない少女を。
  刃物で、時には素手で、闘わされた。相手をさせられた。その後で、客の慰み者になった。
  あらゆる理性は薬で快感に変えられた。それは歓喜だった。苦痛も、懊悩さえも。
  あるいは、全て絶望に変換された。薬を打たれ、裏切りを囁かれ、最悪の精神状態からパニックを起こさせ、吐瀉物と排泄物にまみれて恐怖におののきながら必死に生を求めた。
  その潜在能力と生命力は浪費されつつも、洗練され、壊された。
  そして精神も肉体も摩耗し、後は締めくくりとして解体ショーへ出演されるのみとなった時、ハンスは見いだされたのだった。
 
  それは悪夢なのではないかも知れない。過去の反芻に過ぎないからだ。それは時々、夢の中で蘇る。
  過去は、過去だ。それは通過したものであり、二度とは戻ってこない。どれだけ忌まわしい物だとしても。そして消えない。どんな罪であっても。
  ハンスの過去は、血と死で満たされている。だがそれ以前のことは霧の中だ。
  忘れたのか、覚えておこうとしなかったのかは判らない。
  思い出せるのは、ショーのことばかりだ。
  シュナイダーと呼ばれたその男が、自分に殺しの技術と生き抜く術を与えてくれたのは、覚えている。その見返りに、男妾の真似事をさせられていたのも覚えている。
  我が身を刃物と成すと言うその技術の習得のために、シュナイダーの仕事に付き添ったのも覚えている。
  単独でも、たくさん殺した。
  子どもは何処にでも行ける。何処にでも入り込める。子どもだから油断する。
  ナイフで、針金で、アイスピックで、時には折れたモップの柄で、そこにあるものを駆使して殺した。銃は一度も使わなかった。使うことも許されなかった。
  たくさん殺したが、どの顔もすぐ忘れた。たった一人を除いて。
  少女のビジョンがある。
  それは標的とされた男の娘だった。
  見られたから殺した。
  言葉一つ交わすことなく、即座に喉を切り裂いた。
  首から迸る鮮血はリボンのように赤かった、とハンスは記憶している。
  驚いた顔、それから失われていく命の中で微笑む顔。
  声など出せるはずもないのに、確かに聞こえた、あの声。
『あなたは赦される』
  その少女がなぜ、死の間際に、始めて会ったハンスにそのような言葉をもたらしたのか。
  その少女はなぜ、ハンスに微笑んだのか。
  あるいは、それは残余した薬物の見せた虚ろな幻影だったのかもしれない。
  それでも、その焼き付いた鮮明なビジョンは事あるごとにハンスの中から蘇り、彼自身が狂気へ埋没し逃避することを拒んだ。
  精神も肉体も弄ばれる中、自我を失うことも境遇を受け入れることもなくなった。それは、常にハンスの魂を鈍い光の中から見下ろしていた。ハンス自身もそれを理解し、耐えるのでも受け入れるのでもなく、混沌とした状態のまま虚無と閃光の中を行き来した。それは正気と言うには曖昧で、狂気と呼ぶには鮮烈な、ビジョンだった。
  少女はそこにいるのだ。ハンスと共に。
  だからこそ、自分は『赦されている』のか。
  その言葉の意味をハンスは暗殺の中に求めた。
  自らの状況を試した。与えられたものを試した。運命を試し続けた。
  救いとは何か。生き抜くことが救いなのか。あるいは、こうして生きて戻り、誰かのもとで束の間の安寧を手に入れることが救いなのか。
  それとも、その果てにあるはずの「冷たい夜の死」が救いなのか。
  答えは見つからなかった。今も。

 ソファベッドから起きあがると、まだあたりは暗かった。
  室内を見回してもイェナの姿はない。
  自分は何故ここにいるのだろう、と自問する。
  理由など無いのだろう。シュナイダーの元から逃げ出すこともしなかった自分だ。たまたまそういう状況にあり、それに抗う必要がなかったからなのかも知れない。
  自由など何処にもない。自分は死の軛に囚われた奴隷だ。何処に行っても死はまとわりつく。
  だからシュナイダーのそれよりも、ずっと強い負を感じさせる彼女に自分が惹かれたのかも知れない。
  どのみち自分にはそれほど多くの時間が残されてはいない、とハンスは考えている。
  選択肢は二つ。シュナイダーに従うか、彼を殺して幻影を振り払うか。
  しかしその果てにはどちらも死が待っているだろう。
  生き延びるためには、自分がシュナイダーと同じ生き物にならなければならない。それは選択としてはあり得なかった。
  そう思うこと自体が、ひょっとしたら彼の思惑通りなのかも知れない。
  未来は闇に包まれている。明けぬ夜そのものだ。
  いつの日か、そのことすら受け入れる日が来るのだろうか。その時は世界の有り様が違って見えるのか。本当に赦される時が来るのか。
  目眩がする。
  ハンスは深く息を吸い込んで、再び身を横たえた。

 

 夜更けに呼び出されたイェナは、まだ彼らの元にいた。
  ウォーターフロントの運営会社、イェナはそこで働くネゴシエイターの一人である。無論、交渉などというものではなく、力でねじ伏せて言うことを聞かせる荒事の専門家ではあるが。
  彼女の人智を超えた戦闘能力は、この会社にとって切り札同然だった。
  この世に異能の者は数あれど、その一人を100年も抱えている会社はおそらくここだけだろう。
  彼女の前には付近の海図と、保険会社のレポートの束が置かれている。
「船の荷が届かないという事件の件数が今月に入ってもう10件近くになりますが、問題は、船そのものが『戻っていない』と言うことです」
  港の警備主任であるゲイルはうんざりした口調でレポートをめくった。肩書きとしてはイェナよりも上であるが、彼女に対して敬意以上の態度で接するのはおそらく創業時からの最古参という意味だけではないだろう。
  その実力を誰よりも評価しているからだ。
「そういうのは警察の出番じゃないかしら」
「姐さん」
  ゲイルは、眉根にしわを寄せる。
  イェナは肩をすくめた。冗談の通じない堅物ぶりはいつまでも変わらない。
「…………判ってるわよ、あまり公に出来ない荷なんでしょ? だから被害届を出すことも出来ない、と。つまり襲う相手を選んでいるという事よね」
「はい。船ごと沈められていると言うことは問題です。十中八九相手は判っていますが、気になるのは生き残りの情報です」
「あまり良い話ではなさそうね」
「その男の話では、相手は一人だけだと言うことです。いえ、船には何人か乗っていたらしいのですが、乗り込んできたのは一人だけだと」
「勇ましい海賊という訳ね」
「…………しかも、相手は撃たれても死なないとか」
「と言うと、相手は幽霊船?」
  イェナの茶化した言い方に、ゲイルは苦笑いする。
「そういうわけでもないそうですが、頭と心臓を撃たれても平気で追いかけてきたそうです。その男は、たまたま浅く斬られて海に落ちたせいで助かったとのことですが、他の乗船者は全滅、死体はバラバラに切り刻まれて船もろとも沈められたとか」
「それはエクソシストでも頼んだ方が良さそうね」
「相手は悪魔ではなく女だそうです。それで…………」
「私が疑われた、と」
  イェナのことを知っている人間からしてみれば、不死身の化け物という意味合いでイェナは同類だ。200年以上生き続け、その力は既に一個の部隊に匹敵、あるいはそれ以上である。
  海上に現れた不死身の女、となれば想像せずにはいられない。
「残念ながらその通りです。もちろん濡れ衣だと言うことは社員全員が判っていることですが」
「それにしても解せないわね。荷も盗まないで皆殺し? しかも撃たれても死なない女、ねぇ…………」
「こちらから護衛船を出すという話も出たのですが、まずは姐さんに話を通しておこうかと」
  海賊行為は、公にはされていないが今でも頻発する出来事である。
  特に、積み荷が違法な物の場合、奪ったとしても表沙汰にはならないので狙いやすい。当然、護身のために武装している場合が殆どなのでカモというわけにはいかないが、それでも旨みのある話ではある。特に麻薬や貴金属などはルートさえあれば換金しやすく、狙う価値は十分にあると言って良い。
  ゲイル達にとっては港の管理のみが仕事であるため、船が着かないからといってわざわざ護衛を付ける必要はない。
  とはいえ、港に来る非合法の船だけを狙い撃ちしているというのであれば、港を利用する人間は減る一方であり、それが組織間の揉め事となれば尚更だ。巻き添えを食って損害を受けるのは信用問題にも発展しかねない。
「賢明ね。それは『普通の人間では相手にならない』類の話だと思うわ。不死身の心当たりは二、三人しか居ないけど、まさかねぇ」
「心当たりがあるのですか?」
「その手の話は枚挙に暇がないものよ。とりあえず私が出向くのが一番良さそうだわ。足の速い船を一隻調達して頂戴。それと、出来るだけ広い範囲に私が護衛に付くことを広めておいてね」
「それで手を引くでしょうか」
「頭のいい人間なら、そうするでしょうね。しかし、そうでない場合は…………」
「必ず姿を現す、とお考えなのですね」
  イェナはため息をついた。それで引き上げるようなら彼女が出向く必要がない。
「現すでしょうね。ネジの収まった人間のやることにしては、いささか外れすぎている。表に出せない話としても、そんなことをやって国や警察機関が動かないなんて考えないはずがない。それでも続けていると言うことは、殺すことそのものが目的だからよ」
「狂っていますね」
「そうね。かといって、放って置くわけにも行かないでしょう。関係ない人間が死ぬのは商売上良くないわ」
「武器は何を?」
  ゲイルの問いにイェナは首を振った。
  相手が自分の思う通りなら、重火器の類は役に立たない。
「自前のを持っていくわ。なかなかハードな復帰戦になりそうだからね」



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