ソファベッドから起きあがると、まだあたりは暗かった。
室内を見回してもイェナの姿はない。
自分は何故ここにいるのだろう、と自問する。
理由など無いのだろう。シュナイダーの元から逃げ出すこともしなかった自分だ。たまたまそういう状況にあり、それに抗う必要がなかったからなのかも知れない。
自由など何処にもない。自分は死の軛に囚われた奴隷だ。何処に行っても死はまとわりつく。
だからシュナイダーのそれよりも、ずっと強い負を感じさせる彼女に自分が惹かれたのかも知れない。
どのみち自分にはそれほど多くの時間が残されてはいない、とハンスは考えている。
選択肢は二つ。シュナイダーに従うか、彼を殺して幻影を振り払うか。
しかしその果てにはどちらも死が待っているだろう。
生き延びるためには、自分がシュナイダーと同じ生き物にならなければならない。それは選択としてはあり得なかった。
そう思うこと自体が、ひょっとしたら彼の思惑通りなのかも知れない。
未来は闇に包まれている。明けぬ夜そのものだ。
いつの日か、そのことすら受け入れる日が来るのだろうか。その時は世界の有り様が違って見えるのか。本当に赦される時が来るのか。
目眩がする。
ハンスは深く息を吸い込んで、再び身を横たえた。
夜更けに呼び出されたイェナは、まだ彼らの元にいた。
ウォーターフロントの運営会社、イェナはそこで働くネゴシエイターの一人である。無論、交渉などというものではなく、力でねじ伏せて言うことを聞かせる荒事の専門家ではあるが。
彼女の人智を超えた戦闘能力は、この会社にとって切り札同然だった。
この世に異能の者は数あれど、その一人を100年も抱えている会社はおそらくここだけだろう。
彼女の前には付近の海図と、保険会社のレポートの束が置かれている。
「船の荷が届かないという事件の件数が今月に入ってもう10件近くになりますが、問題は、船そのものが『戻っていない』と言うことです」
港の警備主任であるゲイルはうんざりした口調でレポートをめくった。肩書きとしてはイェナよりも上であるが、彼女に対して敬意以上の態度で接するのはおそらく創業時からの最古参という意味だけではないだろう。
その実力を誰よりも評価しているからだ。
「そういうのは警察の出番じゃないかしら」
「姐さん」
ゲイルは、眉根にしわを寄せる。
イェナは肩をすくめた。冗談の通じない堅物ぶりはいつまでも変わらない。
「…………判ってるわよ、あまり公に出来ない荷なんでしょ? だから被害届を出すことも出来ない、と。つまり襲う相手を選んでいるという事よね」
「はい。船ごと沈められていると言うことは問題です。十中八九相手は判っていますが、気になるのは生き残りの情報です」
「あまり良い話ではなさそうね」
「その男の話では、相手は一人だけだと言うことです。いえ、船には何人か乗っていたらしいのですが、乗り込んできたのは一人だけだと」
「勇ましい海賊という訳ね」
「…………しかも、相手は撃たれても死なないとか」
「と言うと、相手は幽霊船?」
イェナの茶化した言い方に、ゲイルは苦笑いする。
「そういうわけでもないそうですが、頭と心臓を撃たれても平気で追いかけてきたそうです。その男は、たまたま浅く斬られて海に落ちたせいで助かったとのことですが、他の乗船者は全滅、死体はバラバラに切り刻まれて船もろとも沈められたとか」
「それはエクソシストでも頼んだ方が良さそうね」
「相手は悪魔ではなく女だそうです。それで…………」
「私が疑われた、と」
イェナのことを知っている人間からしてみれば、不死身の化け物という意味合いでイェナは同類だ。200年以上生き続け、その力は既に一個の部隊に匹敵、あるいはそれ以上である。
海上に現れた不死身の女、となれば想像せずにはいられない。
「残念ながらその通りです。もちろん濡れ衣だと言うことは社員全員が判っていることですが」
「それにしても解せないわね。荷も盗まないで皆殺し? しかも撃たれても死なない女、ねぇ…………」
「こちらから護衛船を出すという話も出たのですが、まずは姐さんに話を通しておこうかと」
海賊行為は、公にはされていないが今でも頻発する出来事である。
特に、積み荷が違法な物の場合、奪ったとしても表沙汰にはならないので狙いやすい。当然、護身のために武装している場合が殆どなのでカモというわけにはいかないが、それでも旨みのある話ではある。特に麻薬や貴金属などはルートさえあれば換金しやすく、狙う価値は十分にあると言って良い。
ゲイル達にとっては港の管理のみが仕事であるため、船が着かないからといってわざわざ護衛を付ける必要はない。
とはいえ、港に来る非合法の船だけを狙い撃ちしているというのであれば、港を利用する人間は減る一方であり、それが組織間の揉め事となれば尚更だ。巻き添えを食って損害を受けるのは信用問題にも発展しかねない。
「賢明ね。それは『普通の人間では相手にならない』類の話だと思うわ。不死身の心当たりは二、三人しか居ないけど、まさかねぇ」
「心当たりがあるのですか?」
「その手の話は枚挙に暇がないものよ。とりあえず私が出向くのが一番良さそうだわ。足の速い船を一隻調達して頂戴。それと、出来るだけ広い範囲に私が護衛に付くことを広めておいてね」
「それで手を引くでしょうか」
「頭のいい人間なら、そうするでしょうね。しかし、そうでない場合は…………」
「必ず姿を現す、とお考えなのですね」
イェナはため息をついた。それで引き上げるようなら彼女が出向く必要がない。
「現すでしょうね。ネジの収まった人間のやることにしては、いささか外れすぎている。表に出せない話としても、そんなことをやって国や警察機関が動かないなんて考えないはずがない。それでも続けていると言うことは、殺すことそのものが目的だからよ」
「狂っていますね」
「そうね。かといって、放って置くわけにも行かないでしょう。関係ない人間が死ぬのは商売上良くないわ」
「武器は何を?」
ゲイルの問いにイェナは首を振った。
相手が自分の思う通りなら、重火器の類は役に立たない。
「自前のを持っていくわ。なかなかハードな復帰戦になりそうだからね」