イェナとハンスが切り結ぶ光景をヘクター・カッスリングは静かに見つめていた。
  その眼光は猛禽のように鋭く、唇は真一文字に結ばれている。
  無論、先ほどの攻防の殆どをヘクター医師は認識出来ていない。どう猛な獣がイェナに襲いかかるようにしてすれ違うのを漠然と見ているだけである。
  誰がどのような手で攻め、守っているのかを理解することは出来ていない。
  それは普通の人間の視力で追い切れるものではなく、戦いに関しては全くの素人であるヘクターにとっては朧気な影の交錯、としか捉えられないこともある。
  だがヘクターの役割はあくまで「二人の」患者の快復を見届けることにある。攻防の手筋、機微は興味の対象ではなかった。
  そして、その表情は険しい物になっていた。
 
  イェナはハンスに何か用事を言いつけた後、ヘクターの方へ歩いてきた。
「気づいていたか」
「そりゃあ、ね。探っている視線って言うのは、見られている方にも感じるものなのよ」
「まるで動物じゃな」
「当たらずとも遠からずって所かしら。昔は皆こういう感覚を備えていたものだけど、今の人には判らないかも知れないわね。それはそうと、医者の目からして私たち二人はどんな具合かしら?」
  どこか面白がるような口調に、ヘクターは真面目な顔で答えた。
「お前さんは大丈夫だな。後遺症もない。落ちた筋力は鍛えればまた元に戻るだろうよ。しかし、あの坊やは大分やられているな」
  やられている、と言う言葉の意味を考えてイェナは顔をしかめた。
「どこの話?」
「中身の話じゃよ。最近まで、かなりの長期に渡って薬物投与を受けていた後がある」
「でも見た限りじゃそんな様子はなかったけど」
  実際、イェナはハンスの身体を隅々まで見ている。訓練、あるいは虐待による無数の傷は別としても、投薬の後とおぼしきものは見あたらない。禁断症状のようなものも見られず、そういったものを欲しがるような様子を見せたこともない。
「見た目はな。だが間違いなかろう。あの体格で、あんな動きが出来るわけがない」
「あら? でも「そういう力」の人間を私は何人も見てきたけれど」
  水の上を歩く。
  壁を抜ける。
  瞬きするほどの速さで移動する。
  そんな力の持ち主は探せばいくらでもいる。特異能力ではなく、修行でそれを身につける人間もいる。イェナが身につけた異能の技も体系づけられた「武術」の一つだ。その果てが、自らを異能とするという点があるにせよ。
  そしてそれを知らぬヘクターでもない。
「わしだってそうさ。だがな、あれは、あの坊やのそれは力の有無ではないな。中身を見たから判るが、あれは作られた身体だ。鍛え方もあるだろうが、半分は間違いなく薬に因る」
「ステロイドとか?」
「まあ一般にはな。だが、坊やの場合には肉体の増強に加えて、神経系統に作用する薬物投与が為されている、と儂はみている。お前さんの技に一時とは言え抵抗出来たのもたぶん痛覚が鈍くされているためだろうな。身体の限界点が高く設定されているから、ああした無茶な運動も出来る。しかし、その限界点はただ単に「苦しい」と思う上限が高いだけで、肉体そのものの限界が上増しされている訳じゃない」
「つまり…………」
「坊や自身も自覚しているだろうが、長生きは出来ん。少なくとも、荒事で生計を立てるつもりならな。それに、痛覚が狂うほどの持続投与をされていたのなら揺り返しがあるかもしれんぞ」
「それじゃ、なおさら私がいて良かったわ」
「随分とあの坊やに肩入れするな。また悪い癖が始まったか?」
「そういうわけではないけど」
  イェナは黙り込んでしまう。
「どうした」
「人間って、不思議よね。子供は未来を紡ぐための礎なのに、どうしてあんなに残酷になれるのかしら。子供を食い物にする大人、と言うのを私はあちこちで見てきたわ。時には自分の血を分けた子にさえ欲望を突きつける人も居た。あんな子供に薬まで使って、思いのままにして、何がしたいのかしら」
「どんな世界にも例外ってもんはある。生きてる人間が皆そういうわけではあるまい? 残念ながら、母性は本能ではない、と言う裏付けもある。父性だってそうだろうよ。子供を思う、というのは、つまり「そう在りたい」と思う心がなければどうにもならん。これだけ人間ばかり居れば歯車の一本や二本外れたヤツは出てくるさ。儂や、お前さんみたいにな」
「あら。私のこと人間のカテゴリに含めてくれるんだ」
「少なくとも中身の方は人間と同じじゃったよ」
「医学的な証明をありがと」
「まぁ儂には関わりない事じゃからな。お前さんの好きにすればいい」
「ジョーンズと違って話がわかる人で助かるわ」
  ヘクターは渋面を作ってため息をついた。
「言っておくがな、儂だって賛成というわけじゃない。だがお前さんの気まぐれは今に始まったことではないし、言ったところで聞かんということも判っておる。ジョーンズの洟垂れと違うのはそこだけじゃ」
「判ってるわ」
「手術中、失敗したことにして息の根を止めようと何度思ったことか」
  ゴロツキでも金さえ払えば命は助けるヤミ医師からそんな言葉が出てくるとは思わず、イェナは内心で驚いた。
「どうしてしなかったの?」
「見損なうな。儂は医者だぞ」
  それでも照れくさいのか、ヘクターはヒップフラスクのウイスキーをあおった。
「そうね。あなたのそういうところ、大好きよ」
「げほっ」ヘクターは驚いた顔をしてむせる。「この歳でそんなことを言われると心臓が止まりそうになる」
「でもね、ドクター。貴方達がなんと言おうと、私はあの子を助けなきゃいけないような気がするのよ」
「そう思ったなら、そうすればいい。忠告はしたし、これ以上口も出さん」
「悪いと思っているわ」
「なに。長いつきあいだ。…………くれぐれも用心しろよ」
「判ったわ」
  それだけ言い残すとヘクターは引き返していった。
  その後ろ姿を見送ると、イェナは一人嘆息した。
「お互い、因果な商売よね」

 ハンスは用事を済ませて既に帰ってきていた。
  手にした包みはボリスの作ったサンドイッチである。
「ヘクター医師はなんと仰っていたのですか」
「それだけ跳ねられるなら大丈夫だって。でも病み上がりだから無理はするなと厳重注意されたわ。二人とも、ね」
「あれだけの医者が何故こんな所にいるのでしょう」
「さぁ。モグリでやっていても患者に事欠かないからじゃないかしら」
「ここも、そういう場所なのですね」
「そうよ。たぶん、外の世界もそうよ。この世は全部そうよ。神様は、そうなるようにこの世界を作ったんだって言っていた人がいたわ。だから赤ん坊は泣きながら生まれてくるんだって」
「誰です?」
「3番目の夫よ」
「結婚していたことがあるのですね」
「そりゃまあね。みんな驚くんだけど、私だって人を好きになることがあるわよ。…………みんな私を置いて行ってしまうのだけれど。長く生きる、というのはそういう事よ」
「では、僕は幸運なのでしょうか?」
「それは判らないわね。幸せというものは、相対的なものではなくて主観的なものよ。どんな境遇だろうと満足できれば幸せといえるでしょうし、どれほど豊かでも孤独や精神的な飢餓感を抱えている人はたくさんいるわ。それらは全て、内面の充足によって解決されると考えている人は多いわね」
「僕には何もありません」
「私だってそうよ」
「では、僕たち二人は不幸、と言うことですか」
「それは死ぬときに判るわよ。『棺を覆いて事定まる』って言う言葉もあるんだから」
「死が全てを決める…………」
「それは極論だけれどね。善しにつけ悪しにつけ、人は進むべき道を自分で探して歩いていかなければ、どこにも行けないものなのよ。さ、家に入って食事にしましょう。私はこの後出掛けるところがあるから」
  イェナはサンドイッチの包みを受け取ると、ハンスを促した。
  が、ハンスは立ち止まってイェナに向き直る。
「一つ質問なのですが」
「何かしら」
「イェナさんは料理が出来ないのですか」
「いきなり核心を突くわね」
「すみません」
「出来ないことはないけど、お世辞にも上手とは言えないでしょうね。で、ここには格安で美味しいものを出す店がある。となれば、そっちの方がお得じゃない」
「いつもサンドイッチですが」
「逆らうわね。…………私はそれが好きなのよ」
「でもバランスが…………」
「何よ。嫌いなの? サンドイッチ」
「いえそういうわけではありませんが、余りにも偏っていると思います」
「私はここ20年くらいずっと食べてるけど大丈夫よ。だいたい卵とサーモンとジャムを交互に食べてればバランスは取れていると思うんだけど」
「偏食過ぎです。それで平気なのはたぶんイェナさんの体質のせいです」
  痛いところをつかれてイェナは眉根にしわを寄せた。
  熱量さえ足りていればいいという、食べ物への無頓着さは長年の放浪から身に付いたものである。
  この街に腰を落ち着けてからも、それは全く変わらない。
  実は、そのことはたびたび人から指摘されることでもある。
「そんなに栄養が心配なら牛乳でも取ってあげましょうか」
「いえ、取引の余地があると思ったのでお話ししただけです」
「…………面白いわね。言ってご覧なさい」
「僕が、食事を受け持ちます。ですから、代わりにあの技を僕に教えてください」
  あの技、というのはハンスを捕縛した「影楼」を指しているのだろう。
「ふうん。私の従っていたのは、それを言い出す機会を窺っていたと言う訳ね。申し出としては面白いけど、答えはノー、よ。あれは誰でも扱えるわけではないし、個人の素養も求められる。いえ、才能と言うべきかしら」
  少年の顔に陰が差す。
「僕には無理だと?」
「無理ね。あの技は」
「そうですか…………」
「でもその取引は興味深いわ」 落胆も露わなハンスにイェナは微笑みかける。「あなたの話に乗ってあげる。見返りに、あなたに一つ何か見繕ってあげましょう。何が出来るかは経過を見てから決めていくわ」
「ありがとうございます」
  ハンスは深々と頭を下げた。
「それにしても…………私の弟子になりたい、と言う人はたくさん居たけれど、おさんどんを条件に出してきたのはあなたが初めてよ」
「僕もこんな事を言いだしたのは初めてです」
「ちょっとまって。あなた、本当に料理できるの?」
「判りません。何せ今まで一度もやったことがないので」
  イェナは頭を抱えた。



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