最悪だった。
その船に乗せられているのは、戦闘員だけではなかった。
そこには、彼らが知る限りもっとも忌まわしい、言うなれば疫病神としか言えない「それ」が乗せられていた。
船縁に男たちが集まっているのは、「それ」が放つ悪臭のためだ。
そして「それ」は未だに、悪臭の元を作り続けていた。
「それ」が「探し物」とよぶ、行為を。
船室から断続的に響いていた女の悲鳴は、その行為がもたらしたものだ。
今はもう何も聞こえない。
それが何を意味するのか、男たちは知っていた。
女は、「探された」のだ。
「それ」が何を探しているのかは判らない。しかし、「それ」は女の体を、黒い髪の女の体を赴くままに切り裂き、開き、かき回し、探す。皮膚を裂き、筋肉を引きちぎり、臓物を掻き漁って。手で、刃物で、あるいはペンチ、万力、ノコギリ、溶接用のバーナーを用いるときもある。
探し物が体にあるだけとは限らない。ある時は、指を折り、引き抜き、そこから指を掻き入れて探す。そういう場合が一番酷い。聞こえてくる悲鳴は、およそこの世のものとは思えない。それでも、「それ」は意に介さず女の体を解体して探す。
探し物が何であるのか、「それ」自身も判らぬまま。
この虚しい、しかし嗜虐的で猟奇的な行為を、「それ」はずっと続けている。
「それ」は、名を、パピヨンと言った。
禁じられていた「探し物」をやり終えて、パピヨンは甲板へ上ってきた。
灰色の虚ろな瞳は焦点を結んでいない。「探し物」は見つからなかった。いつものように。
男たちは一様に縁の方へと固まり、距離を置く。
パピヨンはそれらを一瞥もせず、看板の隅に座り込んで居眠りを始めた。
陽光下で見るパピヨンの姿は、空の澄んだ青さとは対照的なほど禍々しいものだった。
絹地をまだらに染め上げた民族衣装のような衣服は、その色彩においておよそ人の嫌悪感を掻き立てるためとしか思えないような原色を多用している。そこに統一感や規則性はなく、色が混じり合うことさえ考慮されていない。
さらには、その上にべっとりと赤黒い血糊がこびり付いており、上質の絹はペンキを吸い込んだビニロンのキャンバス地のようになっている。
異様なほど青白い顔からは肉がそげ落ち、黒く落ちくぼんだ眼窩には濁った眼球がガラス玉のように収まっているだけだ。
その身から漂う強烈な腐臭はただでさえ男たちを不快にさせたが、さらにそれを打ち消すために振りまかれたスズランの香水が加わると、それは形容しがたいおぞましい臭いとなって男たちに目眩と吐き気を催させた。
縁から海に向かって嘔吐している男がいるのは、船酔いのためではなかった。
パピヨンが自分の意志で男を襲うことは極まれであるとはいえ、常軌を逸した猟奇趣味の怪物が逃げ場のない船上にいるのである。
男たちの不安は当然の反応といえるだろう。
まして、貨物船を襲い、荷を奪うだけの仕事に、こんな化け物をつれてくる必要があるのだろうか。こちらには十分な量の火器と弾薬があり、万一に備えて対戦車用の強力な無反動砲も用意してある。タンカーが相手でもハイジャックできるほどだ。
「それ」を実戦投入すると言うことは、少なくとも後で船を沈めて証拠を隠滅する必要があるほどの虐殺が行われると言うことであり、それは彼らがかつて「漁」と呼ぶほど気楽に、確実に、そして最小限の被害で行ってきた物資強奪の手管とは遠く離れたものだった。
海域に誰も近寄らなくなれば、いずれ国が動く。いくら沿岸警備隊に鼻薬をかがせてあるとはいえ、無差別に船を襲っていたのでは相手のメンツが立たない。荷物を奪い、時折見せしめに殺すのは、安全保障と称する上納金の納入を徹底させるためだ。海賊のように奪い、殺すことが目的ではない。
だが、「あれ」は、あの女は、パピヨンはそうではない。そもそも、あの女に「命」というものの意味がわかっているのか?
ここ最近の、パピヨンの非道は目に余る。というよりは、パピヨンが相手の船に飛び移ったが最後、老若男女の区別無く、全て死に絶える。男を殺し、女を集め、その後「探し物」をする。艦内は徹底的に破壊され、時には運行不能になるほどの損害を船に与える。そしてその無計画な襲撃は、乗員の抵抗運動を促進し、結果としてパピヨンは逃げ場のない鋼鉄の檻の中で、あのガラスを引き掻くような耳障りな笑いをあげながら鬼ごっこに興じるのだ。パピヨンが追われることはない。パピヨンは常に追いつめる側で、相手がいかなる火器を持ち出そうとも、しかし鬼は常にパピヨンの側なのだ。
その不条理さ。
男たちは、幾度と無くパピヨンが銃弾で引き裂かれ、一度などは手榴弾によって爆散する光景を見た。だが結果はどうだ? あの女、あの怪物は未だに生きているし、おそらくパピヨンを滅ぼすには、火器を以てしてではなく、銀の銃弾や白木の杭が必要なのに違いない。
それほど、その存在は冒涜的で忌まわしく、またこの世の摂理を無視したものだった。
無論、パピヨンの他にも異能のものはいる。だが、この女の異質さに比べれば、まだ可愛げがあるというものだ。少なくとも、シュナイダーや彼らの仲間たちは言葉が通じ、冗談を交わし、仕事のやりとりを真っ当に出来るぐらいの常識はある。
彼らにとって不可解なのは、なぜこのような無意味な虐殺を命じられているか、ということだった。
ボスは、組織をどこへ導こうというのか?
そこは暗黒街と呼ばれる一角。住む者のほとんどが非合法な稼業に通じ、法が形骸化した街。それでも、秩序はある。この街の者が、自らの街の名を口にするとき、そこにはある種の誇りを見いだすことが出来るだろう。
法がなんだというのか?
外の連中が正しいというなら、なぜ外の連中は皆幸せではないのか?
此処には対立も支配もあるが、それは全て移ろいゆくものにすぎない。金が全てだが、それはあらゆる意味で健全だ。なぜなら、正義も悪も、金で買うことが出来る。
誰もが、それ相応の富を手に出来る。そして、相応の代価を支払う。時には命をも。
それは健全なのだ。闘争が、闘うことこそが人を人たらしめているのだから。
ここは、そういう街。
古い規律、汚れた金、血と感傷が同居した異邦の地。
そして、その大仰な名前に似つかわしくないほど、街は平穏だ。通りには子どもの笑い声が聞こえるし、男たちは夜ごと酒場でビールを飲み、談笑する。医者も大工も釣り具の店もある。
どこの街とも変わらぬ佇まい。しかし路地に入らずとも怪しげな薬売りが道に立ち、年端もいかぬ子どもが体を売ることもある。平穏。だがどこか異質な空気。正常と汚濁が同居する、忘れられた街。時の流れの中で、やがては滅び去る定めを持つ古き砦。
イェナは、そんな街の一角の崩れかけたビルの中に居を構えている。
以前にイェナの命を狙った少年、ハンスもそこに同居していた。
マイスター医院を引き揚げてから、二人は生活を共にしているのだ。ハンス自身はほとんど身動きできなかったし、当然の事ながら身よりもない。故に、イェナ自身が後見人になると公言したとおり、彼女は少年を自宅へと引き取って治療に専念させていたのだった。
もとより、このビルはかつてはアパートだったのだから、住む部屋の割り当てには困らない。
とはいえ、二人の暮らしはおよそ交流というものに乏しく、ハンスは一日中口を閉じたままで、イェナの問いにも曖昧に答えるだけだった。
けれども、若さ故か傷は日に日に癒えていき、いまではベッドから起きあがり雑用をこなすまでに快復している。
イェナ自身もギプスがとれ、ようやく両手が使えるようになった。それでも一月使わなかった筋肉は引きつり、未だ完治とは癒えない状態だ。
そういった理由から少し体を動かそう、ということになり、はたまたイェナ自身の好奇心もあってハンスと模擬戦を行うことになっていた。
無論、そこには、ハンスが本当に敵意を無くしているのか、それともそういう振りをしているだけなのか、見極めてみようという目論見があることも否定できない。
それでも、再びこの少年と手合わせをすることによって見えてくるものがあるだろう。
二人は自宅前の通りで十数歩離れた位置で向かい合っていた。
ハンスは手にナイフを持っているのに対し、イェナは薪に使う短い木の枝を手にしているだけである。ハンスのナイフはイェナが使っている刃渡り9センチほどのシースナイフで、無論刃は落としていないため殺傷力は十分にある。
「手加減は無用よ。練習にならないものね」
ハンスはその言葉に頷き、身を低く構えた。
淡いブルーの瞳が細められる。さらに腰を落とし、その細い足が地を蹴った、と思うよりも速くイェナの眼前に迫っていた。にわかには信じがたい速度だ。逡巡するまもなく、すくい上げるような斬撃をイェナは軽く顎を引いて避けた。
ハンスの体が半回転すると、踵を振り回すようにして蹴りを放つ。イェナはそれを二の腕で受け止め、同じように身をひねって衝撃を緩和させた。
手にした薪を勢いよく振り下ろすが、ハンスの体はもうそこにはない。
飛びずさったあと壁を蹴り、イェナに突進する。さすがに受けることは出来ず、半身になって避けると、ハンスは着地点からすぐさま跳躍してまた壁を蹴り、位置を自在に変えながらイェナに切り込んでいく。
なるほど、この子の持ち味は閉鎖された場所での戦闘なのね。
イェナは感嘆する。力の不足を脚力による突進で補い、位置を変えることで相手を翻弄する。荒削りだが、面白い戦法だ。合理的ではないかもしれないが、独創性がある。
それを支えているのが彼の並はずれた肺活量だろう。
無論、長い療養によってそれが衰えていることは否定できない。以前よりも、格段に持久力が無くなっている。飛び回るのを止め、時折小刻みな突きを入れてくるのはそのためだ。
それでも受けに使っている薪は少しずつ削られていき、ささくれが目立つようになってきている。
もうすぐ使い物にならなくなるだろう。
そろそろ頃合いか。
ハンスの鋭い突きに会わせて薪を突き出す。ナイフは易々とそれを貫通する。
イェナはそれが手元に迫る前に手を捻り、ハンスの手からナイフを絡め取った。
一瞬の間。
ハンスは数歩後ずさって、動きを止めた。
「病み上がりの慣らしとしてはこんなところね」
イェナは薪に刺さったナイフを引き抜くと、革の鞘に入れてベルトへ戻した。
「貴方のほうはどうかしら?」
ハンスは首を振った。
呼吸はかなり乱れており、癖のある金髪は汗で額に張り付いている。
「とても練習相手になれるほどではありません」
「ふうん。じゃあ、調子が戻ったら練習相手としてつき合ってくれるという事ね」
少年は数度瞬きしてイェナを見返した。
「別に驚く事じゃないでしょう? 行くあてがない、と言うのならここにいればいいわ。部屋も余っているし、外に出てやっていくのは結構大変よ? 多少のことなら面倒見てあげられるし」
「イェナさんは…………何故僕にそうまで係わろうとするのですか? 僕は、あなたの命を狙ったのに、貴方は怪我の治療をして、今またこうやって僕の世話をしようとする。理由が判りません。僕には、もうあなたに与えられる情報も持っていない。そうまでするメリットが何処にあるというのですか」
ハンスの非難めいた口調に、イェナは肩をすくめる。
「これはね、別の男にも言ったことがあるけれど、私は人の揉め事とか厄介事に首を突っ込むのが大好きなの。生き甲斐と言っても良いわ。貴方みたいに、世話の焼き甲斐のある、厄介そうで裏事情込みの子供なんて面白いじゃない。断固首を突っ込みたいわ。何なら学校に行かせてあげてもいいし、仕事も紹介してあげる」
「つまり、面白半分というわけですか」
「いいえ」
イェナは微笑んだ。
「半分じゃなくて、全部よ」
ハンスはため息をついた。
「変わった人だ、とは聞いていましたがここまでとは思いませんでした」
「ありがと」
「褒めたわけではありません。呆れているだけです」
「ま、これは私の暇つぶしみたいなものよ、それに、ケヴィン・マクガイアの所にも、そのシュナイダーとやらのもとにも帰る気はないのでしょう? それなら話は決まったような物じゃない」
「あなたの提案を飲むとは言っていません」
「じゃあどうする気なのかしら?」
尋ねられて、ハンスは黙った。
「別に取って食いやしないから、万事お姉さんに任せておきなさい」
「100年は生きていると聞きました」
「200年、またはそれ以上よ」
「………お姉さん?」
「なによ」
「いいえ。よろしくお願いします、お姉さん」
「子どもが皮肉なんて言っていると、ろくな大人にならないわよ」
「………大人になれるほど、生きていられるとは思いません」
小さく呟いたハンスの言葉を、イェナは聞かなかったふりをした。