眠りから覚めたあとも、体のだるさはとれなかった。
気を精錬するのに、焦りや急ぎは禁物だ。気脈は静なることをもって最良とする。その純度を高め、より霊的な要素を強めていくとなればなおのこと。
200年、絶えざる錬磨の果てにもまだ極め尽くすことの出来ない道程に、イェナは改めて感嘆と己の凡庸さを感じる。限りある人の身で極めるものもいれば、無限の寿命を持ちつつも未だ高位に上れない自分がいる。
本来、この技は房中術ですらない。男女の交合を必要とせず、自己の中だけで完結して気脈を操作する技法だ。完全に独自の系統に基づいているし、理論も全く違う。他人に分け与えるためには、意図して霊的な偏りを作り、相手の肉体に浸透しやすくしなければならない。今回は、男に分け与えるために陽を強く精錬した。
その際に、内臓諸器官に巨大な負担がかかったのは、ひとえに彼女自身の未熟さ故である。ほんの僅かな焦りが、気脈を乱した。
あの時の一瞬の高ぶりは、この少年を救わなければ、という強い感情からだった。
何故、自分がそんなにあの少年に入れ込むのか、よく判らない。
あの少年の何が自分を惹きつけるのだろう。
眼、かしらねぇ。
嘆息しながら、イェナは起きあがる。
似すぎなのだ。昔の、あの男と。
過去、救えなかったから、その代替行為としてあの少年を求めているのかもしれない。過去の過ちを、現在でただすことによって浄化する、代償的行為。そこで救われるのは安っぽいプライドと、偽善。意味も価値もさしてありはしない。それでも、求めてしまうのは、弱さ故か、人の良さか。
あるいはもっと別のものか。
この世界は無意味に回る羅針盤だ、とあの男はいった。命に絶望していた男は因るべきものを戦いの中に求めた。時代もまた争いを欲していた。
砲火が舞い、泥と血にまみれながら、死の凱歌を歌い、命を薙ぎ払う。
あのころにはもう狂っていたに違いない。
男は望み通りただの肉塊に成り果て、素性も判らないままに埋葬された。
イェナだけを残して。
結局、男の深層心理に焼き付けられた憎悪という名の刻印を拭い去ることは誰にも出来なかった。
今更、人を一人救ったところでこの手にこびり付いた血は流せるわけでもない。それは贖罪でもなんでもない。だが、過去を繰り返さなければ、過ちを正すことが出来るのならば、そこには「生きた」という証、意味が残るのではないか。
それが投影に過ぎないことは承知している。無駄なことかもしれない。
あるいは、命を落とす危険があるやもしれぬ。
しかし、結末がどうであれ、生きる意味は必要だ。「生きる」ということは「死ぬ」という区切りがあって初めて成り立つ。
かつては誰でもない自分に安堵を覚えたものだが、時を経るにつれて存在の希薄さが苦痛に思えるようになった。市井の人間と関わり合うようになったのもそんな心境の変化故だ。
もはや自分は何者にもなれないが、何者かであったものを変えうることで、自分の意義を見出せるかもしれない。
だから、自分はあの少年のことをもっと深く知りたいのだ、とイェナは思った。
誰のためでもなく、自分のために。
まったく。考え方としては最低だわ。
一人嘆息し、それでも可笑しくなった。
さてさて、そんな私を「彼ら」はどう思っているのかしら。
もはや物言わぬ存在としてイェナの記憶の彼方に仕舞い込まれた「彼ら」が答えるはずもない。
それでも、「彼ら」がその選択を喜んでくれるような気がしてならないのだ。
少年は深い眠りに入ったようだった。
規則正しい寝息が聞こえてくるだけで目が覚めている様子はない。あえて呼びかけもしなかった。
イェナは少年を起こさないように静かにドアを閉めると庭へと出た。
昨日集めてきた廃材を使って家の補修をしなければならない。雨漏りのする場所に見当をつけておいたのでとりあえずそこを塞ぐだけでも大分違うだろう。すきま風も少しは減るに違いない。
手術室前のソファの所はかろうじて平気だが、それ以外の場所の老朽化と破損はかなり酷く、床やベッドのマットレスの状況を見る限り生活に適しているとは言えない状況で、マイスター医院が廃屋に見える要因に一役買っている。
ここまで来ると「ずぼら」の一言で片づけるのは難しい。
しばらくは雨の降る気配がないのが救いだ。
昇り始めた太陽の暖かな光の下で、イェナは作業を開始した。
板材を足で押さえつけて片手で鋸を挽く。こればかりは腕っ節と言うより技術の問題なので難しい。下手に力を入れると、イェナの腕力では刃が折れてしまう。
両手さえ使えれば何とかなるが、片手ではどうしても大雑把になってしまうのだ。
真っ直ぐに板が切れないのはもどかしい。
四苦八苦していると、早めに仕事から上がってきたジョーンズがそれを見て言った。
「あの馬鹿でかいノコギリを使ったらいいんじゃないのか」
「ああ、『怯える妖精』のこと? あれはダメよ。こういう事に使うものじゃないし、第一大きすぎるわ」
イェナが答える。
「そういうものなのか」
「あれは元々処刑用の大鋸よ?そんなもので屋根を塞いだ病院なんて、ブラックジョークにしても趣味が悪すぎるわよ」
「それもそうか」
ジョーンズは振り向き、マイスター医院を見上げた。
「しっかしまぁアレだよなぁ。よくこんな化け物屋敷みたいな所に住んでいられるな、あのジジイは」
「あの人は手術以外の時はただの飲んだくれだから」
イェナは苦笑した。
ヘクター・カッスリングという人物はそれが全てだった。
技術の探求以外には何の興味もない。善悪も、自分の居場所にも。潔さ、と言うべきかどうかは判らないが、過剰なまでに生命の神秘へとアプローチを続ける彼のような異端が社会で容認されることはなかっただろう。
人は、わかりやすい事実を求める。ヘクターの技術は、どんなに優れていても後の世に受け継がれることはあるまい。それが彼にとっての一番の悲劇であり、また救いでもあった。
「それにしたってこれはやりすぎだ」
俺の部屋よりひどい、とジョーンズが呟いている。
しかしジョーンズの部屋というのは廃墟ではなくて芥溜めになっただけ、という程度のものなのでたいして違いはない。
イェナに言わせれば二人ともよく似ている。
顔を合わせるたびに口げんかしているのも仲の良い証拠だろう。
二人は絶対に違う、と断言するだろうが。
陽が落ちる頃、マイスター医院の補修は終わった。
「やっぱり1週間でリフォームって言うのはちょっと無理があったかしら」
「いやぁ。これだけやりゃ十分だろ」
割れたガラスは全て取り替えられ、軋んでいた窓枠は直され、ドアも全て開くようになっている。
「うーん、でも内装をいじれなかったから」
「内装!」
ジョーンズは目を見開いた。
「どうせ患者なんかたいして来やしねぇんだから中身なんかどうでもいいだろう」
「それにベッドが3つしか直せなかったのよ。それじゃ不足だと思わない?」
「3つあれば十分だぜ?」
「そうかしら」
「このヤブの病院が満室になるときはこの世の終わりだ」
ジョーンズは断言した。
「ヤブじゃないわよ。治療がちょっと過激なだけで」
「あのジジイ、人が風邪ひいた時に胸をかっ捌こうとしたんだぞ。どこの病院に風邪で手術する馬鹿が居るんだ」
「あら。やって貰えば良かったのに」
「あの時逃げ出したから、今の俺が居る」
「ドクターは名医よ。この30年で死んだ人間は二人だけだし、うち一人は運んだときにもう死んでたもの。あなたのことだって殺しはしないわよ」
「イェナはあのヤブを信用しすぎだ」
「あなたは疑い過ぎよ、ジョーンズ」イェナは工具を袋に入れると肩に担いだ。「ま、とりあえず住めるようにはなったし。細かいところはモーリスが退院してくれば何とかしてくれるでしょ」
「そういやモーリス爺さんはどうしたんだ」
「アルコール中毒で家族に病院に入れさせられたみたい。たぶん、無駄でしょうけどね。あの人も、お酒が入らないと何にも出来ない人だし」
「ちげぇねえ」
この街の老人のアルコール中毒の割合は、人口の比率からするとかなり高い部類にはいる。モーリスのように入退院を繰り返すものは多く、対策といったものも施されていないため、その比率は殆ど変わることなく続いている。その理由が何であるのかはわからないが、ひょっとすると街特有の「気質」によるのかもしれない。
だが、そんなことは誰も気にしないし、問題にもしない。ここはそういう街だ。繁栄も退廃も、全てが等価値に消費されていく。
この街が「暗黒街」と呼ばれるのはかつての争乱と無秩序に由来する。いまはどうだろう。時の停滞したかのようなこの街には、古き時代の血臭は洗い流されているような感覚さえある。
それでも、この街にはなお、闇が澱んでいる。見えざる何か。聞こえざる何か。知られざる何か。
それがイェナのようなものを呼び寄せる。
渦の中心。その根元が何か、イェナにも判らない。ひとえに禍とも呼べぬもの、故にそれを災厄とは呼ばず、闇と呼ぶ。
アルコールや薬物に頼るものが多いのは、そのためかもしれない。それでいて、犯罪の率は驚くほど低い。緩やかな滅びを受け入れるかのようだ。
勿論それはイェナの推測に過ぎない。
しかし街の人間も薄々は何かを感じ取っているのだろう。逃れるようにして街を出る人間も多い。
「ねぇジョーンズ。この街は、変わってきているのかしら」
「さあなぁ。変わったと言えば変わったような気もするし、変わってないと言えばそんな気もするぜ」
「そう…………そうかもしれないわね」
イェナは少し考え込んでからそう答えた。
少年は放心したように天井を見つめていた。
明かりもついていない暗闇の中、何を凝視していたのだろうか。イェナが手術室に入ってきたときも視線は動かない。
「気分はどう?」
話しかけられて初めて少年は首を動かした。
「痛みは殆どありません」
そう答えて、再び宙を仰ぐ。
「それならよかったわ。ここじゃ気が滅入るだろうし、明後日には引っ越しするから動けるようなら少し歩いて貰おうかしら」
少年は頷き、目を閉じた。
「さてと。『君』とか『あなた』とかずっと呼ばれるのも嫌だろうから、そろそろ名前を聞いておくことにするわ」
少年の目が再び見開かれる。
そして虚無を湛えた瞳でイェナを見つめ、短く、呟くように、答えた。
「ハンス」
「下の名前は?」
ハンスと答えた少年は首を振った。
答えたくないのか、それとも答え自体が存在しないのか。
とりあえずイェナはそれ以上聞かないことにした。
「聞きたいことはそれだけ」
少年は疑惑の眼差しを向けてくる。
「そんなに警戒しないで。殺しはしないから」
「貴方は誰でも殺す人だと聞きましたが」
皮肉めいた響きはない。聞いたことをそのまま反芻するような言葉。
「それは間違いないわね」
全くの事実であるから否定のしようがない、とイェナは苦笑いした。
「でも人を殺すことと殺意に狂うことは別よ。私は殺す人間は選んでいるし。ま、そんなのはただの言い訳だけど」
「楽しんでいるわけではない?」
意外そうな声でハンスは聞き返した。
「人殺しは楽しくはないわね。後始末も大変だし、後味も良くないし。
でも闘うのは好きよ。渦巻く想いも悩みも恐れも喜びも悲しみも何もかも無くなって、ある段階まで行くと怒りや憎しみさえ感じなくなるの。忘我の境地、とでも言うのかしら。
手足の末端、武器の先端に至るまで全てが私の一部になって、相手を受け流し、相手を貫き刻む時でさえ、全てと一体になるの。相手の痛みは私の痛みで、私の痛みは相手の痛みになり、生も死も全てが混沌となって混ざり合う。
生か死かはただの結果。そこにあるのは真実だけ。
闘うことは名前も過去も持たない私の、ただ一つの真実なのよ」
「でもイェナって…………」
「ああ、これはね。名前じゃないのよ。「あれ」とか「それ」って意味でしかないの。この街の人は名前だと思っているけどね」
イェナは自嘲気味に笑う。 「名前なんていくつも持っているのよ。例えば社会保険番号を貰うための偽名の戸籍とかね。役所に行くときの私の名前はアイリーン。パスポートの名前はグレタ。ほかにもたくさん。全部違う名前。それが私なのよ」
「本当の名前は?」
「忘れてしまったわ」
「僕はあなたを何と呼べばいいですか」
「『イェナ』でいいわ。あなた用の名前まで用意したら大変だもの」
ハンスは僅かに微笑んだ。
それはイェナが初めて見る、ハンスの笑顔だった。
地下室。
階段に点々としている染みは血の痕だ。階段だけではない。壁も、天井にもある。
全く、いつ来ても胸くそ悪い場所だ。
ふと目に入った染みがまるで人の顔のように見えて、シュナイダーは目をそらした。
ここは、そういうものが形となってもおかしくない場所だ。呪いが顔となって生者を祟るなんていうのは質の悪い冗談だが、ここで行われていることを知れば誰だって信じたくなる。
階段を降りるにつれて染みの数は多くなり、もはや染みとは言えぬまでの量に達している。コンクリートを染め上げる、赤黒い死の象徴。呪いの痕跡。死者の叫びが塗り込められたかのような、禍々しくもおぞましい、忌むべき回廊。
なんだって彼がこんな狂犬を飼い慣らしておくのか、全く理解できない。
そのメッセンジャーとして自分が選ばれた理由も。
シュナイダーは我が身の不幸を呪いつつ、ついに終点へ辿り着いた。
奥からは、唸るようなモーターの音が響いてくる。
「お楽しみの最中かよ…………」
うんざりした口調でドアを開ける。
流れ込んできたのは、むせ返るような腐臭。重苦しく澱んだ空気は実は何か粘着質の物質で出来ているのではないかと思わせるほどにのろのろと流れ出し、必要以上の時間をかけてシュナイダーの鼻腔を侵した。
臭いを誤魔化す為に口で息をしようとしたが、それすらも意味を成さないほど腐臭は強烈だった。細胞の隙間を縫って染みこんでくるような臭い。生き物が、生まれながらにして不快と感じ取る死の臭いだ。
部屋の中へ一歩踏み出すと、ゴム底の靴が「みちっ」と音を立てて床をならした。妙にべたつく床の原因は、見るまでもなかった。
剥き出しの白熱電球のそばには二人の人間が居る。
一人は何かを勢いよく振り回しており、もう一人は両手を大きく広げて壁により掛かっていた。
まだ息があるか、と思ったシュナイダーは自分の認識の甘さを知った。
二人ではなかった。
一人と、半分。
視界の隅に入った二本の棒みたいなものは、「彼女」の下半身の残骸だ。さすがに上下に分断されていては救いようもない。
天井からフックで釣り下げられたそれは、つい一時前までは一つの生命体として形を成していたのであろうが、今となってはかろうじて人であったという原形を留めているに過ぎない。
肌の色は白「だった」と辛うじて判るぐらいで、その体は内側から溢れ出た血によって文字どおり染め上がっていたし、豊かであったであろう胸の部分も目を背けたくなるような傷跡だけを残して跡形もなく、赤い組織と突き出た肋骨が僅かに残っているだけだった。
おそらくは、天井から釣り下げられた時点で致命傷だったに違いない。死体を吊しているフックは、両肩の肩甲骨を引っ掛けるように深々と突き刺されているのだ。突っ張った皮が歪んだ三角形を描いているが、揺れてもその形が変わらないところを見ると、内側にかけられたフックは半ば肩甲骨を引きはがし、骨に食い込んだ形で固定されているのだろう。
もう少し前に来てりゃあなぁ。
シュナイダーは一度目を閉じてから、顔も見たことのない神に短く祈り、それからもう一度目を開けた。
極彩色の衣装をまとったもう一人の人物は荒々しく稼動を続ける電動チェーンソーを手に提げて、未だ解体作業を行っていた。
それは殺人や拷問、という行為ではなかった。ただ無心に、いや時々口の端から異様な笑いを漏らしつつ、無秩序にチェーンソーを振り回していた。それは時に空を切り、時に近くにあるテーブルの端を切り飛ばしたり、あるいは釣り下げられた骸を切り刻んだ。
腹圧で飛び出した臓腑の類は既に寸刻みに解体されて壁一面に付着しており、何がどうなっているのかは判らなかったし、知りたくもなかった。
釣り下げられたそれから首の部分が切り飛ばされ、うっかりその光景を目にしてしまったシュナイダーは激しく後悔した。
頼むから俺を恨まないでくれ。
凄まじい断末魔の表情のまま床に転がったそれを極力見ないようにしながら、狂ったようにチェーンソーを振り回すその人物にシュナイダーは声を掛けた。
「パピヨン。お前の出番だそうだ」
およそ人間の言葉とは思えない呟きは止み、灰色の瞳が焦点を結ぶ。
「ああ…………居たの?」
「相変わらずいい趣味しているな」
シュナイダーの揶揄を理解しているのかいないのか、パピヨンは血まみれのまま凄惨な笑みを浮かべる。
「この女でもなかったわ」
パピヨンの行動に意味はない。少なくとも、他人が理解できるような意味は。
まともに話が通じる相手ではない。
シュナイダーは用件だけを話した。
「伯爵がしくじった。相手はあんたの探し人だそうだ」
「それで?いつ?どこで?」
「追って沙汰があるそうだ。それまでに用意を済ませておけとさ」
腐臭でいい加減気分の悪くなっていたシュナイダーは足早に部屋を出た。
が、もう一つ用件を思い出し、ドアのところで顔だけ振り向く。
「ああ、そうだ。伝言を伝えるのを忘れてた」
「何よ」
「<探し物は控えろ>だそうだ」
パピヨンはびくり、と身を震わせたが、ややあって頷いた。
「もう探す必要もないものね」
EPISODE4. END
→GO,EPISODE5[Call from the past]