ジョーンズが運んできてくれたサンドイッチをつまむ。
 ボリスの店のメニューは二つ、サンドイッチとホットドッグだけだ。
 酒場としてその品揃えはどうかと思うが、店の常連達は家からつまみを持ってきたり買ってきたりして勝手に食べているのでそれでも良いらしい。
 酒の肴としては不適当だろうが、毎日結構な数が出る。 とくにスモークサーモンを挟んだものが絶品で、それだけで店が出せるのではないかと思うほどだ。
 イェナの夕食はもっぱらこのサンドイッチになることが多い。
「しかし本気なのか。あのガキを一人で診るってのは」
 ジョーンズが妙に真面目な顔で訊いてくる。
「そうよ。私以外の人間が診るのは危ないと思うから」
「危ないのに何でお前が」
「いったでしょう?私はこういう事をするのが好きなの。誰かの役に立てるのなら、それは私にとって幸福なのよ」
「だけどな、俺は心配なんだよ。あのガキは………」
「私の命を狙ったし、今後そうでないという保証はないってことでしょ。判っているわ。忠告はありがたく聞いておくわよ」
「そういうことじゃなくて」
「この話はもうおしまい」
 イェナはぴしゃりと言った。
「あなたに考えがあるように、私にも考えがある。私は私のやりたいようにする。それだけのことでしょ?」
 サンドイッチの最後の一つを飲み込むと、イェナは続けた。
「ジョーンズ。私はね、本当はこの世に居てはいけない人間なの。覚えているだけで200年。たぶん、もっと長い時間を生きている。私は、生物として間違った仕組みを持った生き物なの。未来を生むことなく、ただ存在し続ける。
 それはもう生き物とさえ呼べない。
 それに想像がつくかしら?みんな私を置いていく、ということの意味が。
 忘れることも出来ずに、それでも年月だけが過ぎていくわ。たぶん、かつての「本当の私」はそれに耐えられなかったんでしょうね」
 イェナの独白に、ジョーンズは沈んだ声で呟いた。
「記憶がない、っていうのは本当だったのか」
「そうよ。どんな方法を使ったのか記憶のない身では判らないけれど、200年かけても何も思い出せないの。たぶん記憶そのものがこの体には存在していないんだと思うわ」
「なんでそう思う」
「この街には名医が居るじゃない」
 ヘクターの名は、畏怖と共に語られる。いかに優れた腕を持つとはいえ、その治療は常軌を逸している。
 そんな彼を「名医」などと平気で呼ぶのはまさに彼女だけだった。
 ジョーンズ自身も、腕はいいことは認めているが、まともな人間だとはつゆほども思っていない。
「あのジジイがそんなことを吹き込んだのか」
「医学的な見地からの洞察、というやつね。今でこそ飲んだくれだけど、若い頃はとっても研究熱心だったのよ。彼は間違いなく天才だし、公の場に出られていれば今の医学は10年分は進んでいたと思うわ」
「ずいぶんと高く買ってるじゃねえか。」
「やきもち焼いているのかしら?」
「うるせぇ」
 ジョーンズはそっぽを向くと、椅子から立ち上がった。
「終わりのない明日に未来はこないわ」
 その背中に向けて、イェナは呟いた。
「だからね、ジョーンズ。私は未来を作りたいの。自分以外の誰かの未来を。」
「あのガキのことは、イェナが面倒見たいって言うなら止める権利は俺にはねぇ」
 ジョーンズは低い声で付け加えた。
「でもお前に何かあったら、俺はあのガキを許さない」
「そうでしょうね。でも私なら大丈夫。おやすみなさい、ジョーンズ」
「ああ。また明日な」
 ジョーンズは振り向かずに行った。

 夜になってしまえば、出来ることは何もない。
 それでも無為に時を過ごすことの楽しみ、というものをイェナは知っている。
 星の瞬きにも興を見出せるし、風に耳を傾けるのもいい。時の流れが彼女をせき立てることはない。時は彼女と共にある。いつ朽ち果てるかも判らない、この身と共に。
 イェナは、このような体を持つ人間が自分一人だけではないと言うことを知っている。旅の空で、彼らと会い、その苦しみを知った。
 それはイェナ自身とも同じ苦しみだった。
 ただ、伴侶としてその苦しみを分かち合うことがないだろう、と言うことも知っていた。
 自分たちは追われるものだった。
 ゆえに、数は少ない方がいい。
 身体能力その他に於いても全て既存の人類を上回るものを持ちながら、彼らは弱者だった。放浪の果てにイェナのように安住の地を見出せるものはごく僅かだ。
 多くは、俗に言う「罪もない人々」の刃の下に果てる。偏見と無知、僅かな恐怖が羊を暴徒に変える。殺さなければ殺され、殺せばまた追われる。殺戮の円環はその身にまとわりつく宿命だ。
 イェナとてどれだけの人間をその手に殺めたか定かではない。
 殺すと言うことは未来を奪うと言うことだ。だが、他者の未来を奪ってまで自分の未来を保つことに意義があるのか。自分の命にはそれほどの価値があるのか。
 けれど、その問いはとうの昔に捨てた。
 生きると言うことは、今生存しているものの当然の権利だ。
 身を危ぶめばためらいなく殺す。
 そのための七つの下僕であり、夫達の残した願いだった。
 彼らの残した7つの武具は、彼女に生きて欲しいと願う男達の形見だった。
 それは不朽の存在としてイェナと共にある。彼らを手にするとき、つかの間の蜜月を思い出してイェナの心には僅かな歓喜が訪れる。
 それは戦場においてもなお身に甘く浸透する喜びだった。
 そこに、血の臭いがこびりついているとしても。

 暗がりを歩くジョーンズの足取りは重かった。
 イェナはどうして自分のいうことを聞いてくれないのか。
 俺だっていっぱしの男だ。ちゃんと自分の腕で稼いでいる。
 それでもイェナは自分を子供のように扱う。さっきの会話がいい例だ。自分が本気で心配しているというのにイェナは全然意に介さない。
 確かに、イェナの強さは知っている。しかしそれは死なないということではない…………と思う。いくらイェナが不老の身とはいってもそれ以外の原因で死ぬことはあり得る。
 だというのに。
 彼女は何故誰も頼らずに生きようとするのか。誰にも関わろうとしないのか。
 肝心なとき、彼女は誰もあてにしない。本当に必要なとき、彼女はそれを自分一人で行う。
 誰も彼女の側にいることは許されない。
 彼女はいつも孤独だ。
 ジョーンズはそれを埋めたい、と本気で思っていた。
 体よくあしらわれているが、彼はいつも本気だった。
 せめて俺を頼って欲しい、と思っていた。
 だがイェナが頼りにしているのはたぶん、あの医者だけだ。けれどそれはプロがプロを信頼するのと同じで信用ではない。
 イェナが自分を認めないのは、「男」として認められていないからなのか。
 それとも、子供好きっていうのは『子供が好き」ということなのか。そんなまさか。
 ジョーンズの思考はどんどん自虐的な方向へ曲がっていく。
 そういえば子供の頃はよく構ってくれたのに、年を経るにつれてどんどんつれない態度を取られているような気がする。
 殺されそうになったのにあの少年をかばっているし、普段から子供と遊んでいたりする。
 イェナの側にはいつも子供。
 そんなはずはそんなまさかイェナに限ってそんな。
「うわああああそんな馬鹿なぁ!」
 思わず叫んでしまう。
「うるせぇ!酔っぱらい!」
 上から怒鳴られた。
 街は今日もいたって平和だった。

 部屋をのぞき込むと、少年はまだ眠っていた。
 ヘクターに言われたとおりの手順で点滴を取り替える。
「そんなものなくても平気だ」と彼は言うが、肺に穴が開いた状態でものを食べるのはいささか苦しい。
 文句を言ったら「秘蔵の品だ」といって冷蔵庫から持ってきたのだった。
 ラベルを確認すると一応期限内であったのでイェナは安心した。
 下手をすると、賞味期限切れのものが出てきそうだったからだ。
 とはいってもヘクターは医師としてはしっかりしているので道具の手入れと薬の手配だけは欠かさずにやっているようだった。
 あの注意力がもっと身の回りに及べばいいのに、と思うが男の一人暮らしというのはそんなものなのだろうか。
 少年の額に浮いた汗をぬぐい、掛け布団を正す。
 ヘクターの手術は完璧だ。そう遠くないうちに立って歩けるようになるだろう。
 少年の安定した容態からそう判断し、イェナは手術室を出た。
 そのまま、ぐるりと病院の中を見回りする。
 怪しい人影などないだろうし、この病院にやってくるのはよほどの物好きだろうから物取りなどの心配はないのだが、警戒しておいて損はない。
 夜の病院というのは薄気味の悪いものだと言うが、イェナにはなじみが深すぎて恐怖めいたものはわいてこない。悪霊やその類のものとは実際にあったことがあるだけにこのタイミングでは出てこない、ということが判ってしまうので別になんともなかった。
 死者ですらこの世の法則には逆らえないのだ。
 それでも、この病院は怪奇小説に出てくる廃病院そっくりだな、と思わずにはいられなかった。
 呻き声でも聞こえてきたら本当にそんな感じだ。
 研ぎ澄まされた聴覚に、掠れるような声が届きイェナは歩を止めた。
 冗談ではなかった。
 本当に声が聞こえる。
 この病院に誰かいるとしたら一人だけだった。
 急いで駆けつけたイェナの前で、少年がうずくまっていた。
 背を海老のように曲げて少年が喀血する。
 口を押さえる手の指の隙間から、流れるように、吹き出すように、血が零れていく。
 塞いでいた肺から出血したのか。
 少年の様子からそう判断した。それ以外の外傷はないのだ。
 酸素ボンベなど使ったところでどうにもなるまい。
 気管に溢れた血はやがて肺を満たし、少年を窒息死させるだろう。
 ヘクターを呼んで来るにしても、時間がかかりすぎる。早急に手を打たなければ。
 だがイェナ自身が患部を塞ぐなどという事は出来ない。人工心肺といった最新の器具も此処では無縁だ。
 意を決したイェナは、小さく息を吸い込んで臍の下へ力を入れた。
 こみ上げてくる熱い塊を、ゆっくりと喉元まで押し上げて、また戻す。
 呼気を緩め、止め、繰り返し、繰り返し、また戻し、また押し上げる。
 そうしているうちに、ただの熱い塊に過ぎなかったが変質し、もっと熱気を帯びた液体に似た感触のものへと変わっていく。
 勿論、それに実体はない。
 塊と思っていたものすら不可視のものだった。
 ただ、それは確実に在る。
 生きるための力。
 イェナが体内で練り上げているのはまさしく『生命力』そのものである。
 丹田に落とした気を、チャクラと呼ばれる内功の増幅器官を経由して蒸留し、純度を高めたものを再び丹田へ戻してさらに純化する。一部ではヨガの秘奥義とされ、中国拳法などにも応用される経絡、気功の絶技をイェナは身につけていた。
 間断なく血を溢れさせる少年の口へ自分の唇を重ねると、体内で練り上げた気を送り込む。
 効果は劇的だった。
 少年は自らの胸の内で何か熱いものが拡散し、充満し、瞬く間に欠損していた部分が膨れ塞がっていくのを感じた。
「か…………げはっ」
 一度大きく血を吐き出した後は、呼気が落ち着き二度と血を吐くこともなかった。
 痛みは拡散し、焼け付くような血の巡りを胸の周囲で感じる。
「これは…………」
 驚きのあまり、少年は尋ねずにはいられなかった。
 イェナは少し疲れた表情で少年の疑問に答えた。
「ま、ちょっとした房中術の応用ね。本物はもっと大人になってからだけど、楽にはなったでしょう?」
 楽になった、という程度のものではなかった。
 灼けるような肺の痛みは軋むぐらいで、先ほどの痛みが嘘のようだ。
 喉がヒリヒリとして乾いたような感触があるが、これは食道を通った血のせいだ。
 体全体が熱を持ったように少し怠いが、問題になるほどではない。
 折れた肋骨が響くのは相変わらずで、身をよじるとかなり痛む。だが耐えられないほどではない。
 今まで少年が受けてきた如何なる治療とも違う。
 いや、治療とさえ言えない。
 唇を重ねられただけだというのに。
 傷が塞がりかけている。
 どんな魔法を使ったのか。
 少年の表情から驚きを読みとったのか、イェナは苦笑気味に微笑む。
「ま、ふつう房中術なんて言っても判らないわよね。簡単に言うと、蒸留した私の生気をあなたに分けたの。上手な人だともっと効果があるんだけど、私の未熟な練気じゃ薄皮一枚繋ぐのが精一杯ってところね」
 ふう、と大きなため息をつくとイェナはベッドに寄りかかった。
 生気を分け与えた、というようなことを言っていたが果たして本当なのか。
 確かにイェナは著しく消耗しているし、自分の身には先ほどまでの状態からは考えられないような活力が満ちている。
 動こうと思えば動けそうだ。
 指先に僅かに力を入れたとき、制止するようにイェナが言った。
「大人しくしてなさい。動くと、また破れるわよ」
 しばらく沈黙が満ちた。
 ベッドにもたれかかったままイェナは動かず、少年自身もまた動かなかった。
 時間にして数分ほどだろうか。
 気怠そうに身を起こすと、イェナは手術室を出て行く。 
 首だけ動かして見送る少年の体に、やや遅れて震えがきた。
 驚きと、喜びと、畏怖が。


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