再びソファに戻って微睡んでいるうちに眠ってしまったようだ。
気がつけば、朝になっていた。
薄暗いマイスター医院にも、朝の光だけは眩しく差し込んでくる。
陽を含んで煌めく金の粒子。
それが埃なのは笑えた話ではなかった。
身を起こすと大きく伸びをする。引きつった肩の傷が痺れるような痛みを発したが、昨日ほど酷くはなかった。我が身の事ながらこの回復力には驚嘆する。ひょっとしたら、切断しても腕が生えてくるのではないか。
もちろん、実験する気にはならない。
空腹を感じて食堂とおぼしき場所へと足を運ぶ。
狭いキッチンには流し台と冷蔵庫だけがあり、テーブルはおろか食器棚すらなかった。
コンロには薬缶が置かれているが、アルミのマグカップが一つあるだけでティーポットのような物もない。
試しに冷蔵庫を開けてみれば、中にあるのはスモークしたチーズやコンビーフばかりでとても主食になるような物は見つからない。
「よくこれで生きていられるわね」
呟きながら仕方なくそれらを引っ張り出して片手に抱える。
こんな生活をしているとは、まったく医者の不養生とはよく言ったものだ。不養生というか頓着がないだけだろうが、いくらなんでもコンビーフとチーズでは栄養学的に無理がありすぎる。
高カロリー、高脂肪、高タンパク、本当に医者の家か、と思ってしまう。
朝からやたらとコッテリした食事を食べ終えてしまうと、イェナはマイスター医院のリフォームに取りかかることにした。
この医院で唯一片づいているのが医学関係の書籍を収めた書庫だけで、あとは廃屋と呼んでも差し支えのないほどの荒れようだ。
一通り見て回ったあと、イェナが出した結論は「立て直した方が早い」と言うことだった。
廃墟同然のマイスター医院を直すというのは家一軒建て直すのに等しい作業だった。
壁のペンキは剥げ、割れてないガラスを探す方が大変で、ドアは全部壊れ(勿論ジョーンズの仕業だ)、調べたところ屋根も雨漏りしていた。
とはいえ、家主の許可も得ずに勝手に立て直すわけにもいかない。窓を何とかして、ドアを付け直せばどうにか住める程度にはなるだろう。
とりあえずベッドを出さないことには話にならない。
イェナは殆ど枠だけになったベッドを一つ運び出してみた。
「うーん、重さは問題ないとしても片手でやるのはちょっと骨が折れるわね」
この程度の痛みから察するに両手を使えないこともないだろうが、厳重に固められているギブスを剥がすのも面倒だ。
人手が居る。
ちょっと思案してから、イェナはすぐに思い直した。
考えるまでもなく、声をかければ喜んでくる男が居るではないか。
衣服に付いた埃を手で払うと、イェナは波止場へ向かった。
定期船から積み降ろされた荷物を、男たちが忙しそうに運んでいる。
その中で、ひときわ目立つ働きをしている男が居た。
フォークリフトを使わずに木箱を運び、大の男がやっと一袋担ぐ穀物袋を両手に二つずつ抱えて倉庫を行き来する。
その腕力では名の知れた男、ジョーンズの仕事ぶりは初めて見る者ならば何かの冗談かトリックがあるのではないかと思うほどだ。
木箱を置いたジョーンズは、視界にイェナの姿を認めると片手を上げて挨拶した。
「おう。こんな昼間に珍しいな。怪我の方はいいのか?」
「おかげさまで大丈夫よ。私は人より頑丈に出来てるもの。それよりジョーンズ、お願いがあるんだけど」
「なんだよ」
お願いがある、と言われてジョーンズの表情がいくらか引き締まったものになる。イェナがジョーンズにものを頼むときは、どうしてもそれが自分では出来なくなったときだけだ。
ゆえに、その責任は重い。
付け加えるなら、酒場の用心棒を頼まれたはずなのに自分が騒ぎを起こすという失態を演じているので、イェナに信頼されていないのではないか、と思い込んでいるからだ。
「ドクターの所のリフォーム手伝ってくれないかしら」
「はぁ?なんで俺がそんな事せにゃならんのだ」
緊張して聞いていたらそんな内容だったので、ジョーンズは露骨に不満な顔をした。
もっとも、それはイェナにとってだいたい予想通りの反応だった。
「だって壊したのあなたでしょう?」
「いや、でも、あれは、その緊急事態で」
「判ってるわよ。別に責めてる訳じゃないの。ただね、治療費代わりに家を直すことにしたんだけど、私片手しか使えないし、こんな時に頼りになる人ってあなたぐらいしかいないし…………」
頼りになる人、と言うフレーズに反応したのか、ジョーンズの表情が和らぐ。
「何すれば良いんだ?」
食いついた。
「ちょっとした力仕事。ベッドを外に出したりするだけなんだけど」
「何だ、それぐらいならお安いご用だぜ」
「ありがとう、助かるわ。すぐにでなくてもいいの。仕事が終わったら手伝って」
「ちょっと休んでろよ。今片づけるから」
言うが早いかジョーンズは、停泊している船に乗り込んでは山のように袋を抱え込んで運び始める。イェナは倉庫の日陰に腰を下ろしてその光景を眺めた。
異様に発達したジョーンズの筋力は、並の人間と比較しても優に倍する力を生み出す。たぶん、『裏技』を使わないイェナとほぼ互角だ。それは、この世界に於いてまさに5本の指にはいる腕力の持ち主と言うことを意味する。だが、おそらく彼はそのことに一生気がつくことはないだろう。ジョーンズは外の世界に出たがらない、街から外には興味を持たない男だ。この街の多くの男たちがそうであるように、彼はこの街で生き、生涯を終える。
柵があるわけでもないのに、多くの人間は街から出ようとしない。楽園ではないのに、誰もこの街を捨てない。
街の外へと出入りするのはイェナのような流れ者か、外から来た人間だけだ。
それが良いことなのかそうではないのかは誰にも答えが出せないだろう。
それでも勿体ない気はするけど。
ジョーンズの仕事ぶりを見ているとそう思う。
一袋で20キロはあろうかという穀物袋を一人で5つも6つも運ぶ。
下手な重機よりも手早い。
普通の船員が半日かけてやる荷の積み下ろしはものの30分で終わった。
ジョーンズは拳で乱暴に汗を拭うと、呆気にとられていた船長に声をかける。
「おう、親父。今日はこれで終いだろ?」
船長は肩をすくめた。
「そうみたいだな」
「んじゃ、上がらせてもらうからよ」
返事も待たずに、イェナの所へと駆け寄る。
「待たせたな」
「相変わらずのお手並みね」
子供のような照れ笑いを浮かべながら、ジョーンズは自分の二の腕をぴしゃりと叩いた。
「ま、俺の特技って言えばこの腕っ節だけだからな」
こういう単純な力仕事でジョーンズの右に出る者はいない。
マイスター医院のベッドは全て庭先に山積みにされた。
「ご苦労様」
「なに、ベッドなんか船の荷に比べたらスポンジみたいなもんだ」
たとえがよく判らないが、ようは軽いという事を言いたいのだろう。
「これでようやく掃除が出来るわ」
「それも手伝おうか?」
「もう結構よ。また外仕事の時に手伝ってくれる?」
「そうか」
ジョーンズはどことなく残念そうだ。
「心遣いは感謝するけど、貴方だって昼間に仕事をしてさらに手伝ってくれたんですもの。何から何までやって貰う必要はないのよ。私に出来ないことを手伝ってくれるなら私はそれだけで十分だし、嬉しいの」
「そういわれると悪い気はしないけどよぉ」
「医院のリフォームは私がドクターに支払う治療費代わりにやっていることなんだから、あんまり貴方に手伝って貰うとその意味が無くなるでしょう?」
力仕事なら良いが、掃除の役には立たない。瓦礫が増えるのがオチだ。
本当はそう言いたいところだが、わざわざ手伝って貰ったのに怒らせることもない。ジョーンズは『気持ちは嬉しいけど貴方に迷惑はかけられない』と言うような態度を取るとすぐ騙されるので、追い払うときはこの手を使う。
嘘も時には使いよう。物事を円満にするための嘘なら罪にはなるまい。
「はい、これ」
イェナはポケットに入れてあった小銭を渡した。
「何だよ、金なんかいらねぇよ」
「たまには奢ってあげるから飲んできなさい。ついでに、ボリスに夕食を頼んでおいて欲しいんだけど」
「何だ、使いっ走りか」
「不満?」
「いや。どうせ飲むつもりだったからついでだ。ありがたく頂戴しておくぜ」
イェナから手渡された硬貨を弄ぶと、足取りも軽くジョーンズは酒場へと向かっていった。
あまり駄賃をあげすぎると賭博に費やすので、せいぜいビールの2、3本程度の金額にしておくのがジョーンズを飼い慣らす秘訣だ、と気づいたのはここ最近である。
当の本人はうまく使われているという自覚が全くないのでさらに好都合だった。
『お願い』と駄賃で言うことを聞かせられるので便利この上ない。
掃除の前にふと思い立ち、イェナは病室へ足を運ぶ。
「さて、王子様はどうしているかしら」
少年の麻酔はそろそろ覚めてもいいはずだった。
傷が深かったのでかなり強く麻酔をかけたようだが、使っている麻酔薬はヘクターが自分で調合したものなのでいつ切れるか判らない。一般的な知識から推測できないので、こまめに病室をのぞき込むしかなかった。
まさか、自殺したり逃げ出したりするようなことはないだろうが、そうでは無いとも言い切れない。なにせまともに顔を合わせたのは一瞬だけ、話さえしたことがないのだ。どんな人間かの判別などつくはずもない。
ましてや、こちらを殺そうと乗り込んできたぐらいだ。目に見える感情が全てというわけでもなさそうだ。
寝顔は可愛いんだけどねぇ。
あれが一瞬でも自分に死を覚悟させた人間の顔とは思えなかった。
顔は似ていないのだが、何となく3番目の夫を思い出す。学者肌で、腕っ節はからきし、その上病弱なくせに、どんな苦境にも折れない心を持っていた。その奥には、イェナですら触れ得ない闇が広がっていた。
100年も前の話だ。
生まれ変わりなど信じてはいないが、あの少年にはそれに似たものを感じる。
病室をのぞき込むと、思った通り少年が目を覚ましていた。
生気の失せた青白い顔が、惚けたような表情で天井を見つめている。
「ご機嫌いかが?王子様」
呼びかけてみると、とたんに表情がこわばった。
何か言おうとして、むせる。押さえた口から血がこぼれる。身をよじり、苦悶にのたうつ。
「肺に穴が空いているからじっとしていた方がいいわよ」
イェナは少年を再びベッドに寝かしつけながら穏やかに言った。
「言いたいことも聞きたいこともあるでしょうけど、とりあえずしばらくは寝ていなさい。別に取って食いやしないから」
しばらく少年と目が合う。
イェナは瞬きもせずにその瞳を見つめ返した。
鳶色の瞳は不思議な輝きを宿している。何か悟りきったような、諦めたような、それでいて懇願するような。見るものを引き込むような、深い深い、何か。
少なくとも、敵意はなかった。
こんな表情のまま襲われたら自分は恐らく身構えることも出来ずに殺されてしまうだろう。
敵意のない相手ほど恐ろしいものはない。
「痛み止め、いる?」
少年は首を振った。
「その割には随分と辛そうだけど。まぁいいわ。必要ならいつでも言いなさい」
「何で………」
また咳き込む。
その言葉の続きをイェナが補った。
「なんで助けたかって言いたそうね?言ったでしょう、知っていることを話したら命は助けるって。私は誰であろうと約束は守ることにしているの。勿論、傷が治ってからは貴方の好きになさいな。ここから去ろうと、また寝首を掻こうと、好きにすればいい。約束を反故にして、どうしても今すぐ死にたいなら、お好みの方法で殺してあげる」
そう言って、奥の部屋に向けて顎をしゃくる。
「機材もあるし、毒殺が好みなら確か劇薬の類がそこの戸棚に」
少年は大人しく目を閉じた。
イェナはパイプベッドの枕元に医院の中で見つけた鈴を縛り付ける。
「そうそう。何の思惑があるにせよ、一時休戦よ。私は廊下にいるから何か用があったらその鈴を鳴らして頂戴」
返事はなかった。
目を開けると、そこは箱の中だった。
嫌悪を催す腐敗臭の中で、ただただ黒い影だけが揺らめいている。
ガラスの擦れるような耳障りな音。
笑い声。
嘲笑?
歓喜?
もはやどうでも良く、もはや何もかもが壁の向こう側。
肉体は乖離し、精神は別の次元へ飛ぶ。
白いもや。
赤い光。
時折脳髄を貫く黒い痛み。
一瞬だけ世界がリンクする。
自分は何者。否、それは意味のない言葉。
誰かの指。
誰かの肌。
誰かの唇。
誰かの痛み。
誰かの
誰かの
誰かの
そう、それは、僕ではない、誰か。
押さえつけられた体が軋み過呼吸に喘ぐ肺が笛のように滑稽な音を立てて喘いでいる音さえも耳には遠く押さえつけられた腕と頭と背中が熱く熱く痛みだけが現実のままその意味さえ解さない灰色の脳。混濁。
何もかもが遠い世界の出来事。
これは現実ではない。
ショー。
ショータイム。
生け贄の儀式。
手錠を掛けられたまま。
とびきり淫らで忌まわしい、黒い黒い黒い影のような鈍色の神様が僕の心臓を求めている。
汗を吸った革の手錠が手首を食いちぎる。
千切れた手首。足首。首。
白い骨。骨。骨は割れて中身が出ている。クルミみたいな。でもそれは赤くて白い。
トモダチだったケルシャーは今はただのモノ。
あれはもうケルシャーなんかじゃない。
だってあの輝くような鳶色の瞳は、もうただの濁ったガラス玉。古くなったグレープフルーツのゼリー。
だけどケルシャー。
何だって君はそんなに嬉しそうなんだい?
胴体と繋がっていなければ、大好きなミート・パイだって食べられやしないのに。
ぼうとした意識は突然鮮明になる。
血と血と血と血と血と血と肉。
ケルシャーだけじゃない。
話をしたことはないけれど、顔の知っている奴ら。それがたくさん居る。居た。
それはみんな色々混ざり合って一つの塊、一つの破片、一つの切れ端になっている。手が。足が。胴が。細かくなった内部の組織が。見るまでもなく、腸も肺も心臓も、薄黄色の濁った肉も脂肪も灰色の魂も。
あれも、これも、話したり笑ったり走っていたり息をしていたモノのなれの果て。
いずれああなるのだ。
今日。明日。明後日。今でなくてもいずれ。
うずたかく積まれた肉山のひとかたまり。
恐怖。
叫び。
痛み。
自由への飛翔。けれど飛び立つ前に羽根をもがれる。散らばった骨は天使の羽根の名残。
空なんか無い。
あるのは、白熱とした剥き出しの電球。錆。鉄。乳白色の骨。
ぎらつく電球が暴く高い天井。鉄骨。骨。白。
ここにいる全員が家に帰れる訳じゃない。
帰りたい。
でももうケルシャーは帰れない。
きっと、僕もそうなる。
逃げたい。なのに翼はない。
白熱電球が揺れている。
そしてそれが照らす天井はしっかりと蓋がされていて、一部の光も差し込んでは来ないことを暗示している。
ここは箱庭。
どこにも逃げられない。
鉄の監獄。灰色の檻。
鳥籠が鉄格子に似ているというのは本当だ。だって鳥かごは鉄格子。
唯一の扉はしっかりとかんぬきが掛けられてあらゆるものを密閉している。
ちくりとした痛みが首筋を走った。
見るまでもなく、それは繰り返し繰り返し自分の体に与えられ続けてきたもの。
効果が切れれば即座に、あるいはさらなる効果を付すために追加されて。繰り返し、繰り返し。
僕の中の僕を奪うもの。
首筋から血管を介して全身へと拡がる熱い奔流が、夢の世界へと連れて行ってくれる。
シリンダーを介して注入されるそれは、楽園までの片道切符。
そこには痛みも苦しみもない。
なぜなら世界には痛みと苦しみしかないから。
逃げるなんて馬鹿馬鹿しい。
逃げられっこないじゃないか。
何で逃げようなんて思うんだ。
ここはずっと地獄で。
これからも地獄で。
とにかく僕は罰せられなければならない。
これは罰。
苦しくて当然。
溢れるほどの痛みと苦しみを。
だって、耳元であの女が囁いている。
「お前は悪いヤツだ」
懇願の叫びも届かない。
あの女は笑うだけ。
痛みを許容する。
それはもう痛みじゃない。
脳をとろかすような甘美な痛みが何もかもを黒く塗り潰す。
笑っている。
誰の声でもない。
でも笑っている。
あの女じゃない。
それは僕だ。
痛いのに。苦しいのに。
でも笑うことを止められない。
なんて耳障りな笑い声。死んでしまえ。
視界が真っ赤だ。
空気。
混じりっけのない、新鮮な空の断末魔を。
息をしなければいけないのに、声でどんどん漏れていく。
かき集めなければ。そうでないと肺の中の宇宙は魂を食い尽くして井戸の中へ投げ込んでしまう。ああ、なんて可笑しいんだ。まるでティーカップに押し込まれた猫の首のようだ。あれは大きくなるとライオンになる。ライオンのたてがみはティーカップなんだ。だからライオンはニャアとは鳴かない。
そういえば息を吸い込んだつもりがピィと鳴っている。まるで鳥。猫じゃない。
もう何も見えない。どこまでも暗い。
終わる世界。
赤い羽根。