ジョーンズと別れたあと、イェナはまっすぐに自宅へ戻っていた。
 ボリスの店に行こうとも思ったのだが、ヘクターに診療費を払ったせいで持ち合わせがなかったからだ。
 玄関前に立つと、イェナは妙なことに気が付いた。
 微かだが水に濡れたあとがある。誰かが此処にいた形跡。
 だが、ドアには鍵を掛けてあるので入れないはずだ。それなのに、その痕跡は紛れもなく内部へ向かって消えている。
 …………誰かが………居る?
 慎重にドアを開けて中にはいる。
 気休めならそれで良いが、彼女の勘が「否」と告げている。
 しかし気配はない。家の中はしんと静まりかえっている。
 家具の配置が微妙に違う。何か細工をしてあるのか。
 電灯のスイッチに手を伸ばしたが、やめた。こういうスイッチに仕掛けるのはトラップの基本だ。
 電灯が無くても夜目は十分に効く。
 一歩。また一歩。慎重に歩を進める。
 雨音のせいで、小さな物音はかき消されてしまう。
 自分の動きが悟られにくくなるが、それは相手にとっても同じ事だ。
 何か物音がしたような気がして、イェナは振り返った。
 後ろから何かが飛んでくる。
 風切り音を頼りに、とっさに横へ飛ぶ。が、その時何かに引っかかった。
 イェナは伸ばした左手を屈伸して弾みを付け、もう一度横に飛んだ。
 遅れて破裂音。
 凄まじい音を響かせて何かが破壊されていく。
 爆発でないところを見ると、クレイモア対人地雷のようなものか。無数の鋼球を炸裂させるこの地雷は、こと室内に於いて抜群の殺傷力を誇る。
 内装が全部パーだわ。
 バラバラと鋼球の落ちる音を聞きながら一人ごちる。
 気配は再び消えたが一つ判ったことがある。
 相手は一人だ。
 バックアップがいるなら畳みかけてくるはずだ。
 頃合いを見計らってロッカーの於いてある部屋へ飛び込む。
 トラップの仕掛けてある様子はない。
 7つのロッカーを一瞥し、3のロッカーへ手を伸ばして………止めた。
 罪人屠殺用鋸『怯える妖精』ならば建物ごと真っ二つにすることが可能だが、明日から住む場所が無くなってしまう。
 5と記されているロッカーの錠を外し、中に左手を突っ込んで引き抜く。
 指にまとわりつく銀光。格闘用万能護環、マスターオブリングスの輝き。室内戦ならナイフのようなものがあればいいのだが、キッチンにはたぶん仕掛けがしてあるだろう。
 それにしても、これだけ短時間でトラップを仕掛け、待ち伏せできるとは。
 伯爵がしくじったので狙いを私一人に絞ってきたようね。
 イェナが驚いたのは次の瞬間だった。
 背後に人の気配を感じたのだ。
 誘い込まれた、か?
 思えば、武器庫にだけ罠が仕掛けてないのはおかしい。
 逆手に握られたナイフが背中へ突き立てられる。
 ざっくりと刺さったナイフは、しかし致命傷にはならなかった。
 刃はイェナの身まで到達していない。イェナが動かさないようにヘクターが頑丈に固定したギブスのおかげだった。
 影は再び闇へと消えた。
 どちらへ動いたかも判らない。ちらりと視界に入っただけだ。
 ……………子供?
 薄暗がり中でイェナが見たのは紛れもない子供の姿だった。
 だとしても、恐るべき手練れ。
 瞬発力、技量、共に熟練の域に達している。
 動いているのか留まっているのか、それすら判らない。
 こうまで完全に気配を絶てる人間など、数えるほどしか出会ったことはない。驚くべきは動いた気配どころか、物音も空気の流れすらないことだ。
「おーい、イェナ〜」
 イェナは頭を抱えたくなった。
 どうしてあの男はこう面倒なときにやってくるのか。
「何だ、電気もついてないし。居ないのか?」
 そのままずかずかと入ってくる。
 呼び止めたいが、相手に悟られるわけにはいかない。
 ジョーンズは何も知らずにスイッチへ手を伸ばす。
 その時、影が動いた。
 イェナはそれを追う。
 相手は自ら仕掛けたトラップの下にいたのだ。
 スイッチが入り、電灯が一瞬光る。それは爆発の光だった。次の瞬間に電球は爆裂し広範囲にガラスの破片をまき散らす。
「いてぇーっ」
 ジョーンズの悲鳴が聞こえたが、あの様子ではたいしたことはない。
 イェナは影を捕捉した。
 影は自分に敵が迫ってくるのを知ると、腰を低くして身構えた。
 後ろに手を回し、何かを投擲する。
 高速で飛来する物体をイェナはたたき落とす。それがいつも使っているフォークだと言うことは判った。相手の武器は食器棚にあったものを流用しているらしい。
 とはいえ、対人地雷のような物を持ち込んで居るぐらいだ。何か隠し球があるとは考えておいた方が妥当だろう。
 投擲が途切れると、イェナは一気に影へと肉薄した。
 テーブルを足場に、距離を詰める。
 相手の姿が消えた。
 イェナは瞬時に、それがテーブルの下へ入り込んだという事を見抜く。
 振り上げた拳で、テーブルを一撃。マホガニーのテーブルは中心から真っ二つに割れた。
 影はそこから僅かに早く逃れ出ている。
 床に着地したイェナは、さらに後ろ足でテーブルの残骸を蹴り飛ばした。
 地を滑るそれはギロチンのように影の脚を狙う。
 影が小さく跳んで避けた。
 イェナはそれを好機と捉える。
 跳躍に加えて、身を捻り、遠心力を加えた回し蹴りが風を切り裂くような鋭い音を立てて繰り出される。
 仕留めた。
 それは避ける間もなく、影を打ち砕いたはずだった。
 勝利を確信したイェナは、しかし次の瞬間、思わぬ形で裏切られる。
 手応えが失せた。
 あるのは、布がまとわりつく感触だけ。
 上衣だけを残して、影の姿は消えている。
 ………変わり身!しかもこんな体勢から!
 東洋の「忍術」とやらにそんな技があるのを聞いたことがあるが、まさかこんな子供がそれを可能にしているとは。
 恐るべき速さで影は室内を移動していた。
 その姿は目視すら出来ず、ただ僅かな物音と残像の如き影が残るだけだ。
 狭い室内をこれほど速く、正確に動けるとはいったいどのような訓練を積んだのか。
 これが音に聞いた『忍者』というやつかしら。
 柱の影を移動するたびに、何かが飛んでくる。
 正体を探る前に、腹へ一つ受けた。
 刃渡り5センチほどの刃物。投擲用のナイフ。
 だが、浅い。
 身につけた防弾コルセットを貫くほどの威力ではない。
 もっとも、こういう物の防御力に頼るようでは戦士としてはまだ未熟と言うことだが。
 服に隠し持っていたのか、虚実織り交ぜながら立て続けにそれは放たれる。
 イェナが退けば影が間合いを詰める。
 体を変え、身をかわせば、つかず離れずの距離を保ちつつ影が縦横無尽に駆けめぐる。
 足を止めればナイフが飛び、避ければその間に投げたナイフを補充する。
 攻めに来たわね。
「おい、イェナ。一体何してるんだ」
「今取り込み中!怪我が平気なら外へ出てなさい」
 とはいうものの、凄まじい勢いで物が乱れ飛び、イェナともう一人の人間が走り回る室内を、どう動いたらいいものかジョーンズには判らなかった。
 体のあちこちに小さな痛みを感じるが大したことはない。爆発したガラスの破片は、この男の分厚い筋肉に阻まれてその表皮を僅かに傷つけたに留まっていた。
 いかにジョーンズであっても、イェナが狙われているぐらいのことは判る。
 ただ、二人の攻防はあまりに速く、目で追えるような物ではない。
 言われたとおり逃げるのが一番の方法だが、男としてそんな事は出来ない。
 手助けしようにも二人は自分の手の届かない域にいる。
 ジョーンズは傍らに落ちていた椅子の残骸を手に取った。
 姿は見えずとも、音は聞こえる。
 地を駆ける二つの足音。
 視界に翳る残像を感じながら、神経は耳にのみ集中する。床を蹴る音。擦過音。身を支え、地を踏みしめる響き。
 無論、ジョーンズに武道の心得はない。それらを聞き分けるような訓練もしていない。だが、時として野性的な勘は武術の域さえも超える。
 それは読んだのでもなく、また聞こえたわけでもなく、ただただ勘のみに因る動きだった。
 脚の部分を掴み、ジョーンズは力一杯それを投げつける。
 並はずれた膂力と絶妙のタイミング放たれた残骸は、砲弾の如き勢いで影へと向かう。
 イェナに集中していた影は完全に虚をつかれた。
 突然迫った椅子の残骸を慌てて身を低くして避ける。
 何処かに当たったのか、無数の金属音が響き渡った。手にしていたナイフを落としたのか。
 イェナはジョーンズに感謝しつつ、再びロッカールームへ駆け込んだ。
 相手は確実に強い。生け捕りにしよう、などと言うことを考えたのがそもそも不遜だったのかも知れない。手を抜いて戦える相手ではないのだ。
 なれば取る手は一つ。
 素早く1のロッカーを開け、中身を引きずり出す。
 部屋に差し込む僅かな光さえ吸い込むように、その黒い刀身が姿を見せる。
 先端の欠けた鉈。漆黒の刃。鎖で繋がれた忠実なる下僕。
 無明斬光『黒皇剣』。
 イェナが最も得意とする武器だ。
 愛刀を手にするとイェナは一気に相手へ躍りかかった。
 逆手に握りしめた黒皇剣をかざし、流星の如く繰り出される投げナイフを捌く。
 間合いが詰まったと見るや、影は得物を持ち替えて自身もまた得意のナイフで迎え撃つ。
 月明かりの下、影の顔が一瞬写った。やはり、子供。だが淡い金色の髪の下には爛々と憎悪が燃えている。
 その鬼気迫る表情は、さすがのイェナさえもたじろがせるほどだった。
 何がこの少年をそこまで駆り立てているのか。
 少年が鋭利な殺気を身に纏わせながら無数の突きを繰り出し、イェナはそれを黒皇剣で受け流す。刃と刃が交錯し、甲高い音を立てながら互いに火花を散らす。
 だが、イェナの剣速の方が速い。
 切り込んできたはずの少年の刃はいつの間にか防戦一方になっている。加えて、圧倒的な膂力の差が少年を一層不利にしていた。イェナの斬撃は剣の達人が渾身の力を込めて振り下ろす一撃にも匹敵しうる重さを秘めている。だが、それを刃渡り10センチほどのナイフで受け流しているこの少年もまた徒者ではなかった。
 攻めているイェナも無傷ではない。完全に捌ききれなかった刃が肌を掠めている。これほどの攻撃を受けながら、少年は逆に幾つもの刃をイェナに向けて切り込んでいた。
 互いの身を血に染めながら、永遠に続くかと思われた長い攻防も唐突に終わりを告げる。
 少年のナイフがついに折れたのだ。
 人知を超えた技で鍛え上げられた黒皇剣に対し、それでもよく耐えた方であろう。並の術者が扱うなら、最初の一撃で折れている。
 さすがに素手でやり合うのは不利と感じたか、少年が大きく飛び退く。
 すかさずイェナは手にした黒皇剣を相手に向かって投じた。
 投げつけられた黒皇剣は、影が身をかわしたことによって不発に終わり、天井へと消えた。
 その刹那、イェナの手が宙へ向けて何かを描くように大きく動く。
 その意味する事を少年は理解できなかった。
 実際に目視していても理解できなかっただろう。
 上に刺さったはずの刃が下から出てくるなどと言うことは。
 黒皇剣の刃が踏みとどまった少年の眼前をすり抜ける。避けきれた、と思ったとき、イェナの技は既に完成していた。
 床と天井を複雑に跳ね返った黒皇剣は少年の首筋に絡みつき、その柄から伸びた鎖は両肩へ袈裟に巻き付いたあと、胴体をぐるりと一回りして締め上げる。
 瞬時に全身を絡め取られ、少年は倒れた。
「鬼道流捕縛術『影楼』。使ったのは30年ぶりだけど、ちゃんと出来てよかったわ」
 軽口を叩きながらイェナが鎖を引っ張ると、身を引き裂かれんばかりの悲鳴があがる。
 幾重にも絡まった鎖は四肢の動きを止めるだけでなく、的確に痛覚を締め上げ、筆舌に尽くしがたい苦痛を相手に流し込む。
 その強弱は、イェナが手元の鎖を少し捻るだけで自由自在。加減次第では、五体満足のまま苦痛のみで狂い死にさせることも十分出来る。捕獲と同時に攻撃を兼ねる、魔技。
 このまま捕らえておけば尋問することも出来る。
 呼気、瞬きの一つさえ脳を焼き尽くすほどの痛みが走るのだ。一流の武芸者でさえ音を上げる。子供の身には少々辛いものであるに違いない。
 だが身じろぎ一つさえ出来ぬはずの影楼に受けて、なお相手は動こうとしている。
 ごき、という鈍い音がしたのをイェナは聞き逃さなかった。
「あららら?」
 完全に極まったと思われた影楼だが、相手は既に脱出にかかっていた。
 本来ならば脱出など到底出来るような技ではない。両肩の関節をはずして身をくねらせているのが判るが、完璧に極まっているならそんな事は出来ないはずだ。
 修行不足だわ。
 嘆息しながらもイェナは容赦しなかった。
 逃げようとするなら逃げられなくするまで。
 握りしめた鎖の一端に力を込める。
 ぼきり、と骨の砕ける音がして少年は動かなくなった。

「ジョーンズ、大丈夫?」
 少年への視線はずらさず、声を掛ける。
「ガラスが刺さったみたいだけど大したこと無いぜ」
 物音がしたので、ジョーンズは起きあがったようだ。
「そのままじっとしていなさい。あとで診てあげるから」
 イェナは少年の方へ歩み寄った。
 薄明かりの中に浮かび上がる小さな少年は、口の端から血の泡をこぼし、身を震わせている。
 身につけた黒い衣服は防刃服なのだろうが、『影楼』による締め上げの前にはさしたる効果はなかった。
 少年が咳き込むたびに喉から血が溢れてくる。折れた部位が肺か気道を傷つけたのだろう。
「さて、人の家を好き勝手にしたあげく命まで狙って来たことについて何か釈明はある?」
 少年は身動きしない。
 イェナがつま先で小突くと、身をくの字にして呻いた。
「知っていること全部話せば命までは取らないでおいてあげる。それとも、そのまま此処で死ぬかしら?」
「何も……………知らない」
「自白剤とか拷問っていう手もあるんだけど」
「おい、イェナ。何も子供相手にそうむきにならなくても」
「相手を殺す、という事は相手に殺される、という事よ。それを覚悟の上でこの坊やはここに乗り込んできたはず。理由の如何に関わらず、私にはこの子の命を好き勝手にする権利があるわ」
「でもよぅ」
「それにあなたに怪我させたの、この子の罠よ。最初の一発で粉微塵に吹き飛ばなかったのはただの幸運なんだから」
「まぁそう言われるとそうなんだけどな………」
「そういうことだから邪魔しないで」
 ぴしゃりと言い放つと、イェナは少年へ視線を戻した。
「……………別に死ぬのは怖くない」少年は仰向けになりながら呟いた。「でも少しだけなら話せることはあると思う…………」
「いい返事ね」
「でも………詳しいことは何も知らない。僕はシュナイダーに言われるままにここへ来ただけだから」
「ケヴィン・マクガイアに余計なことを吹き込んでいるのはそいつなのかしら?」
「わからない………」肺からこみ上げる血を断続的に吐き出しながら、少年の声は急速に弱々しくなっていく。
「でも、これで終わりだ…………」
 呟きと共に四肢から力が抜ける。
「死んだのか?」
「気を失っただけよ」
 イェナは少年の体を片手で抱え上げた。
「おい、どうする気だ?」
「ドクターの所へ連れて行くわ。この度胸と技、死なせるにはちょっと惜しいもの」
 ドアを開けて、闇の中へ一歩踏み出す。
「いろいろ面白いことになりそうだわ」


EPISODE3. END

→GO,EPISODE4KISS ME,SUNLIGHT

back.