「というわけで」
ボリスの店で馬鹿でかい声を張り上げているのは紛れもないジョーンズである。
「今日から俺が、この店を仕切ることになった!」
後ろでボリスが首を振っているが、ジョーンズには当然見えない。
「揉め事起こす奴は、イェナに代わって俺のパンチが火を噴く!」
微妙に表現を間違えたまま、ジョーンズの演説は続く。
「俺の言葉はイェナの言葉であり、逆らう奴はイェナに逆らうのも同然で………」
「うるせぇ!」
「ひっこんでろ!」
「帰れ!ハゲ!」
吠えるジョーンズに、ヤジが乱れ飛ぶ。
「誰がハゲだ!」
ジョーンズは激昂するが、そこで我にかえった。
我ながら何という自制心。
「いいかお前ら。もめ事は起こすなよ!」
落ち着きを払った声でそういいながらスツールへ腰掛ける。
そして、なみなみとビールの注がれたジョッキを手にしながら、酒場を見回す。
酒場にはいつもの活気がある。
平穏であるという事の素晴らしさ。そしてこの平和は俺が維持しているのだ。
素晴らしい。
と悦に入りながら、この店の数少ないメニューの一つであるサンドイッチに手を伸ばす。
伸ばした。
はずだった。
指はむなしく皿の上を掻くだけだった。
あと1つあったはずのサンドイッチがない。
ジョーンズは辺りを見回す。下に落ちてはいない。
念のためにカウンターの向こう側を覗いたが、落ちていない。
何処かに、俺のサンドイッチを食った奴がいる。
「貴様か!」
ジョーンズはすぐさま近くにいた男を殴った。
この男はただ静かに酒を飲んでいただけなので別にサンドイッチをつまみ食いしたわけではないのだが、頭に血が上ったときにたまたま近くにいたのでちょうど殴られた。
殴られた男は隣のテーブルまで吹っ飛ばされ、2、3人の男達を同時に巻き込んだ。
「野郎!」
そこから乱闘が始まった。
ビールのボトルが飛び交い、人が吹き飛ぶ。
ジョーンズは本来ならば止めるべき立場であるのに、乱闘の真っ只中で暴れている。
ボリスは頭を抱えた。
店のあらゆる物が破壊されていく。被害甚大だ。
誰も、黒衣の女性が店に入ってきた事に気が付かない。
しかし、乱闘は見る間に収まっていく。
我に返る者、実力で止められる者。
店が落ち着きを取り戻しつつあることにジョーンズは気づかない。
手当たり次第に拳を振るっている。
後ろに回った気配に、ジョーンズは上体を捻りながら鋭いフックを放つ。
次の瞬間、ジョーンズの体は宙を舞い、ごつん、といういかにも痛そうな音を立てて床へ落ちた。
「いってぇ!」
叫びながらもすぐに起きあがったのは、二度目の攻撃を警戒してのことだ。
体が一回転して放り出されるような感覚。
まるで、イェナみたいな技を使いやがる。
少しぼけた焦点が、仁王立ちになる影を捕らえた。
目の前には、1週間の休暇を取ったはずのイェナが居る。
「心配だから来てみれば………」
心なしか目尻がつり上がっている様な気がする。
ジョーンズの背筋を、大量の汗が流れた。
「いや、誤解なんだってば。な?」
「『な?』じゃないでしょ?一部始終見てたわよ」
「なんだそうか」ジョーンズはばつの悪そうな笑いを顔に浮かべる。「エヘヘ」
イェナはジョーンズの胸倉を掴んで自分の下へ引き寄せた。
「あなたに此処を任せようなんて少しでも考えた私がバカだったわ」
「まぁ、そう怒るなよぅ」
イェナは答えの代わりにジョーンズへ頭突きを見舞った。
その一撃はジョーンズを行動不能に陥らせるほど強烈なものだったが、イェナは昏倒したジョーンズを床に放り投げて、代わりにスツールへ腰掛けた。
「ご免なさいね、ボリス。店の修理代はこの」床で伸びているジョーンズに目をやり「このろくでなしから取り立てていいから」
ボリスは頷き、カウンターの奥へ引っ込んだ。
ものの数秒で再び現れたボリスの手には、いつものグラスではなくオレンジジュースの入ったコップが握られている。
ボリスはそれをイェナの前に置いた。
「………そうね、お酒は傷に響くだろうし」
イェナは、無口だが気の利くバーテンに微笑んだ。
「お心遣い、感謝するわ」
かくて、ボリスの店にはあるべき秩序が訪れ、ピアノ弾きのネザーが奏でる名の知れぬブルース、いやブルースのようなもの、を耳に夜が更けていく。
「何だって私は、この男に店の用心棒を任せようなんて思ったのかしら」
あまりにも浅はかだった。
務まるはずがないのだ。
イェナはオレンジジュースを口に含む。適度な甘さと酸味が、気怠い気分を流し去ってくれるようだ。
結局、私はこの店に必要なのね。
イェナは少し嬉しく思った。
土曜日。
いつもは引き受けている子供の世話を断って、イェナは自宅で休むことにした。
昼過ぎには包帯を取り替えに行かねばならないが、とりあえずそれまではゆっくりしていられる。
冷蔵庫からハムとチーズを取り出しナイフでいくつかに切り分けると、それをちぎったフランスパンに乗せて食べる。全て片手、というのは予想以上に不便だ。
ボリスに、朝のサンドイッチも作ってもらえば良かったかしら。
そんな事を考えながら、食事を終える。
それからベッドに腰掛けて、少し休んだ。
ずっと怠い感じが続いている。ヘクターに言えば鎮痛剤やら解熱剤やらを処方してくれるとは思うが、出来れば薬は飲みたくなかった。痛みが消えるのはいいが、感覚も鈍る。それは好ましくない。
安物のパイプベッドに寄りかかると、さび付いた音を立てて軋んだ。
日射しが少し翳ってきている。
窓から外をのぞき込むと、西の方に厚く層になった雲が見えた。
これは降るかも。
こういう予感は不思議と良く当たる。
イェナは窓を閉めて、ベッドに横たわった。
昼過ぎまで、少し休もう。
そう思うと、寝るのはさして難しい問題ではなかった。
目を閉じて、気を落ち着ける。
傷の熱さがじんじんと響く。
体全体が熱を持っているような感じ。
肩から拡がる痛みも、時折その深さを主張して貫くような刺激を発する。
痛みは生きる証なのだと、言った男がいた。
体の痛みも、心の痛みも、生きているからこそ感じるのだと。
より一層の痛みを求めるかのように戦場に身を晒し、男は無数の破片となって、消えた。
もう随分と昔のことだ。
過去を思い出すたびに、自分の年齢のことを思う。
心を繋いだ男達は皆消えていくのに、私だけが残る。
辛い、とか、苦しい、といった感慨はもう無かった。
いい想い出、などという形でもない。
未だ、夢の続き。
やがてイェナは静かに眠りへ落ちていった。
人の気配を感じて、イェナは目を覚ました。
見ればジョーンズが冷蔵庫をあさっている。
「人の家に来てまで食べ物を探すほど、飢えてるのかしら?」
「いやそういう訳じゃないんだけど、何となく腹減ったから」
イェナは手元にあった辞書を投げつけた。
ごつん、という鈍い音共に、角の部分が直撃する。
「いてぇ!」
「そのようにしたんだから当たり前でしょ」
「ひでぇや。あのヤブの所に来てなかったから、ひょっとしたらと思って迎えに来たのにぃ」
壁掛け時計を見ると、確かに時間は3時を過ぎている。
「あ、そう。ありがとう」
「ええー!?感謝のキスとかはないのか?」
「調子に乗るんじゃないの」
「ちぇっ」
拗ねるジョーンズを無視して、イェナはベッドから起きあがる。
怠いのは相変わらずだが、幾分ましだ。
「雨が降る前に、ドクターの所へ行かないと」
「俺が送っていくって」
「あなた、車の免許なんて持っていたかしら」
「今日は俺の「ラブリー・イェナ号」があるから大丈夫だ」
ジョーンズが指さした先には古ぼけた自転車が一台止めてある。元は普通の自転車だが、強度を増すために鉄パイプを無理矢理溶接してあり、ジョーンズの手荒な運転にも耐えられるような設計になっている。
だが見た目はただのガラクタだ。
イェナは露骨に嫌な顔をした。
「人の名前を勝手に付けないで。いい年して恥ずかしくないの?」
「俺は本気だから全然恥ずかしくない。むしろ誇りに思っている」
イェナは額を押さえてため息をついた。
「あんまりふざけた真似をしていると、棺桶にぶち込むわよ」
「怒るなよ。軽いジョークじゃないか」
イェナは上着を羽織ると、ジョーンズを置き去りにして玄関のドアを開けた。
黒い雲は頭上を覆い、いつ雨が降ってもおかしくない状態だ。
ドアの脇の傘立てから一本引き抜いて、イェナは歩き出す。
「だから自転車で送っていくってば」
「結構よ」
「つれないなぁ」
そうは言うものの、イェナの足取りはしっかりしており、確かに送迎が必要とは思えない。
何とかしてイェナの気をひきたいところだが、「無駄」とか「邪魔」と拒絶の返事だけが返ってくる。
何故そんな冷たい態度を。
ジョーンズは訝る。
ひょっとすると、冷蔵庫にあったプリンを食べたことが原因なのか。
何と言うことをしてしまったのだ、俺は。
あとでこっそり買って補充しておこう。
そんな風に結論づける。原因がわかれば別に憂鬱になることもない。
ジョーンズの足取りは軽くなった。
イェナはまとわりつくジョーンズが鬱陶しいので拒絶しているということには全く気が付いていない。
ある種幸せなまでの短絡思考だったが、これがジョーンズという男である。
30分ほど歩くと結局マイスター医院まで着いてしまった。
ペンキの剥げかけた建物はお世辞にも病院には見えない。
相変わらずの開店休業中といったところだが、別に生活には困っていないらしい。
玄関にはカーテンだけがぶら下がっていて、本来あるべきはずのドアは壁に立てかけてあった。
中を一瞥すると、まるで廃墟のごとき様相を呈していたが、これは昨夜のジョーンズが暴れたせいである。
「ドクター、起きてるかしら?」
「おう、待っておったよ」
その言葉に偽りはないのだろうが、テーブルの上に並べられた酒瓶が意味することは明白だ。
「昼間から飲んでるとはいい身分だな、酔っぱらい」
「お前に言われとう無いわ、このハナタレ」
ジョーンズの揶揄を軽く流し、ヘクターは怪しい足取りで立ち上がった。
かわりにジョーンズが椅子に座る。
「大体、何であなたはここにいるの?ジョーンズ」
「いや、付き添いだよ」
「診察室まで?」
「いけないか?」
さらりと答えて、ジョーンズはヘクターの酒瓶に手を伸ばした。
「今度ふざけた真似をしたら棺桶にたたき込むと言ったのを忘れたのかしら」
「棺桶はないが段ボール箱ならあるぞ」
二人は顔を見合わせ、にやりと笑った。
「お前ら、冗談はよせ」
「冗談になるかどうかはあなた次第よ」
イェナは一番切れそうなメスを一本手にとった。
「何で診察室に一緒に行ったぐらいで殺されそうになるんだか…………」
「5秒あげるから考えなさい」
イェナはメスを振り上げて数え出す。
「1、2、3…………」
ジョーンズは慌てて部屋を飛び出した。
荒々しく閉じられたドアにメスが突き刺さる。
「2ヶ月ほど入院させて貰えれば、あいつの頭をすっかりまともにしてやれると思うんだが」
ヘクターがしみじみと呟く。
「そうね。考えておこうかしら」
イェナは笑いながら、手術台兼診察台の上に腰掛けた。
羽織った上衣を脇の籠に放り投げ、服のボタンを外す。
後ろに回り込んだヘクターが、右肩をほぼ完全に固定した包帯を外していく。
幾層にもなった包帯の層を取り払っていくと、所々で凝固した血が接着剤のようになって固まっている。ゆっくりとそれを引きはがすと、傷全体をかさぶたのようになった血の塊が覆っていた。
オキシドールで消毒していくと、血の塊が取れて傷口があらわになる。
白い肌を縦横に這う縫合のあとは、見るに耐えないほど無惨な光景だった。
ヘクターの見立てでは、とりあえず化膿はしていないようだ。傷口が全体的に腫れ上がっているが、これは仕方がない。消炎剤を処方しようにも、イェナ自身が飲みたがらないのだから。
「ねぇドクター?もう少し、自由が利くように処置してくれないかしら」
「お前さんの場合は、これぐらいしないとすぐ動かそうとするからな。最低でも1週間はこのままじゃよ」
「不便でしょうがないのよ」
「つべこべ言うとギプスで全部固めるぞ」
イェナは鼻を鳴らし、そのまま黙った。
何も彼女に意地悪をしているのではない。それが必要なことだからヘクターはそうしているのだ。
判っているのだが、やはり煩わしい。
「儂よりもずっと年上のくせして、辛抱がたらん」
「性分だもの」
「そうやって拗ねている姿は年頃の娘なんだがな」
「あら。レディに歳のことを言うのは失礼よ」
「レディ、ね」ヘクターは声を出して笑った。「レディというよりはアマゾネスの方が相応しいだろうに」
「まぁ否定はできないわね」
そんなジョークを飛ばしながらも、ヘクターの手は正確に、精密に、イェナの体に包帯を巻き付けていく。
処置は30分ほどで終わった。
「くれぐれも無理はするなよ」
「わかってるわ」
本当に判っているかは怪しいもんだが、とヘクターは思った。
経過は思ったよりずっといい。並はずれた回復力は、彼女の不老の体質と無関係ではないだろう。
調べればいろいろと面白いことが判るかも知れないが、自分は医者である。研究者ではない。
ヘクターにとって、イェナは「少し変わった体質の患者」でしかない。
ベッドから起きあがったイェナの耳に、雨音が響いてくる。
「降ってきたな」
「そのようね。ひどくならないうちに帰るわ」
ドアを開けると、待合室のソファでジョーンズが寝ていた。
イェナはジョーンズを起こさず、そのまま前を通り過ぎる。
驚くべき事に、その僅かな物音でジョーンズは目を覚ました。
「終わったのか?」
「ええ」イェナは、今更この男の動物的な勘に驚かなかった。「帰るわ」
「送っていくぜ」
「結構よ」
あんなガラクタに乗せられても迷惑だ。
「だって雨が」
「私、傘持ってきているもの」
イェナは玄関先に置いてあった傘を取って、開く。
「俺が持ってないんだよ」
「だから?」
「途中まででいいから入れてくれよ」
「素直にそういいなさい」
「じゃあ!」
ジョーンズは目を輝かせた。
イェナも口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「ずぶ濡れになって帰れば?」
「風邪ひいたらどうする」
「大丈夫。風邪のウイルスだってあなたには近寄らないわ」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
イェナは雨の中に足を踏み出した。
雨だれが打楽器のように傘を叩く。
傷には良くないが、イェナは雨が好きだった。
何もかも押し流してくれる天の雫。
しかし、勢いを増してくると楽しいなどとは言っていられない。
イェナは小走りになって雨の中を進んでいった。